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経済成長のS字カーブ 〜「大爆発」時代の収束と過ごし方

2009/04/30 12:30
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 水野和夫さんのご講演を伺う機会がありました。今回は特に、21世紀(「長い20世紀」?)と16世紀(「長い16世紀」)が似ているという点、S字型カーブの成長という話を大変楽しく拝聴しました。それを伺いながら感じたことをまとめてみたいと思います。

 

1.長い16世紀vs.21世紀(S字型カーブ)

 

(1) S字形カーブ

 U.C.バークレーの経済学部にデロンギという先生がいらっしゃいます。その方が、1998年に、世界の一人当たりGDPの歴史的推移を試算されています。本体は、ちょっと経済の専門的知識が必要そうなので、別の方が整理したものを引用してみると、次のとおりです。

 

 対数ベースの表記ですが、大きなS字カーブに見えませんか?1600年頃から急速に増え始めた一人当たりGDPは、20世紀に入って、あたかも大爆発でも起こしているかのように大きく伸びたものの、90年代から徐々に昔のような定常期に戻りつつある。そんな感じのするグラフです。ちなみに、水野先生ご本人が使われているグラフは、こちらの7ページ目にあります。

 16世紀以降、我々は、「爆発」的な成長を遂げてきた。それが、今、急激に終わりを迎えようとしている。数百年単位で見ると、そういうことが起きているようにもみえる。本当にそうなんでしょうか?

 社会学者の見田先生が、朝日ジャーナル緊急増刊(09.4.30.)でこう触れられているそうです。

 われわれは変化の急速な「近代」という爆発期を後に、変化の小さい安定均衡の時代に向かって、巨大な展開の局面を経験しつつある。この展開の経験が、「現代」という時代の本質である。

 「変化の小さい安定均衡の時代」。爆発期は収束に向かう。経済成長に急ブレーキがかけ始められている。確かに、次に上げるような幾つかの指標が、この1年(というかこの数か月)で、急激に1970〜80年代半ばの水準まで落ち込み始めました。

  •  粗鋼生産量         
  •  国内自動車販売台数
  •  鉱工業生産指数

 1980年代後半から最近まで、うっちゃけバブルな側面があったわけですから、1990年代から最近までの指標の数字の方が、異常値だったのかもしれない。長期的なトレンドでみた成長は、1990年前後に止まり始めていたのかもしれない。バブル減少を除いて長期的なトレンドで見ると、我々は、爆発の収束期に既に入っているのかもしれません。

 

(2) 世界的なカネあまり

 何か、もう少し材料はないでしょうか?

 日本の銀行貸出は、ピーク時がちょうどGDPと同じくらいでした。過剰貸出調整が終わったとされる04年がGDP比0.8倍程度で、その差額、すなわち不良債権額は、約100兆円。それがどれくらいインパクトのある金額か。

 日本の個人金融資産が1400兆円、国の財政赤字が700兆円台。その差額の700兆円は、海外への投資(債権等を含む)と国内への貸出に当てられている。その際、国内に100兆円の不良債権が生まれたということです。

 この数字をどう見るか?ちょっと逆説的に聞こえるかもしれませんが、カネが余っている。不良資産に貸し出すくらい前向きに貸出先を探してもなお、国内には優良な貸出先が足りない。だから、残る資産の多くを海外(米国債等?)へと振り向けざるを得ないし、無理して貸し出した国内でも100兆円が焦げ付いた。それが、日本のこの10〜20年間だったとも言えるのではないかと思います。

 では、世界でみるとどうでしょうか。 

 特に米国は、双子の赤字に悩んでいると言われた80年代を脱して、90年代から躍進。その他欧米諸国も、おおむね、安定的な成長を達成してきました。更に米国では、アジア金融危機以降、住宅資金への貸出を通じて、大きなバブルを生み出し、サブプライムローン問題に到達したのは周知のとおりです。

 おそらく、米国を中心とした世界経済は、今、日本が2000年前後に貸出残高のピークを迎えていたのと、ちょうど同じような局面に、位置しているのではないでしょうか。数字的に見てみるとどうでしょう?

 色々な推測がありますが、世界の金融資産は、株式市場の急拡大により、170〜180兆ドルくらいに膨らんでいるのではないかといわれています(参考:通商白書の分析)。実体経済がだいたい60兆ドル程度といわれていますから、その3倍ですね。このうち、不良債権化すると言われているのが40兆〜50兆ドル程度と伺うこともあるのですが、だとすると、実は、不良債権処理をしてもなお、お金は余る。しかし、もうサブプライムローンは使えない。実は、世界的にもお金は余っていると言えるのだと思います。

 こうしたカネあまりは何から説明するのでしょうか。

 第一に、株式市場等の急激な膨らみにより、世界的に保有資産が急激に膨らんだ。90年前後の世界の金融資産は、50〜60兆円くらいでしたから、たしかに、恐ろしい勢いでお金が増えた。しかも、その多くは株式や金融商品の評価に基づくもので、もはや伝統的な金融政策が全体のマネーサプライの規模をコントロールすることが難しい状態になっている。このため、歴史的にないスピードで、資金供給が膨らみ、カネあまりにつながっている。

 第二に、それでも金融資産として高く評価されるだけの背景があるのであれば、本当は、それを実証するような有望な投資先が現れているはず。にもかかわらず、投資先の実態が、その評価に追いついてきていない。先進国は、これまでの投資の積み重ねによって資本蓄積を進めてきた。だから、高い水準の潜在成長率が期待できず、利子率の低迷につながっている。やはり、色々な意味で、成長の潜在力が鈍化したことによって、投資する先が減少していることがカネあまりにつながっている。

 第一の要素と、第二の要素の他にも、潜在成長力があるはずの発展途上国の信用力の問題や為替レートの問題など、きちんと議論すれば、いろいろと勘案すべき要素があるとは思いますが、総体的には、今、確かに、世界経済は、失速する経済を目の前にして、世界的にお金が余っている。そういうことが起きていると言えるのではないでしょうか。

 バブルというのは、これまでの「爆発」的な成長に頼ってきた、先進国経済への将来に対する、市場からの警告だったのかもしれません。

 

(3) 16世紀の「卒業式」と21世紀の「卒業式」

 ここで再び、水野先生のご指摘に戻りたいと思います。 利子率というのは、ある意味、将来の期待成長率を反映するものでもあります。現在、その利子率が大きく低下を続けています。カネが余っているのに、投資先が無い。利子率が上がらない(経済学的に専門的な検証には耐えないまとめ方で恐縮ですが・・・)。

 実は、経済大国の利子率が4%を下回って、10年以上、低い水準にとどまり続けた時期というのは、歴史上、もう一回あります。それが16世紀です。

 この時の経済大国は、スペイン・イタリアでした。利子率は、16世紀に入って乱高下した後、低迷。1619年には、イタリアで1.125%にまで下がっていると言います。翻って、現在も、英米で一時期非常に高い水準の利子率を経験した先進諸国の利子率は軒並み4%以下、ゼロ水準に近い金利に落ち込んでいます。この両世紀に共通の特徴は何なのでしょうか。

 16世紀というのは、スペイン・イタリアという強国が、イギリス・オランダという新たな強国にバトンタッチを行おうとしていた時期です。世界的に強みを握る国というのは、単純に言えば、国際競争力上構造的な比較優位を手にしています。このバトンタッチを行った両者の間で、その構造的比較優位のパターン(=交易条件)が違うというところが、水野先生のお話の一つのミソでした。

 スペイン・イタリアの世代までは、国際競争力の源泉は、軍事力でした。もちろん、イタリアの商業都市のように、純粋に軍事力と関係ないいわゆる「商人の世界」もありますし、その後も残存しますが、覇権国的な立場に立つ国の行動原理は、軍事力によって収奪を行い、それを売りさばくという形です。

 これに対して、イギリス・オランダの登場以降、もちろん軍事力も重要なファクターとはなりますが、基本は、安く仕入れて、高く売る。この世代に初めて、国際経済学的な意味での交易条件という考え方が出てきます。構造的に三角貿易を生み出すなどの仕組みとしての工夫も深まってくる。その中で、軍事力は、それ自身が目的ではなく、経済的な交易条件を維持するための手段として活用されるようになってくる。貿易の中で富を蓄積するという思想が芽生えます。

 そうやって考えると、16世紀は、スペイン・イタリアという中世の強国の「卒業式」と、イギリス・オランダという近世・近代の強国の「入学式」が、同時進行で行われていたのかもしれません。交易条件のパターンの変化に伴い、世界の中の強国、成長の担い手のバトンタッチが進んだ。どうでしょう?

 そして、もし、こうしたアナロジーが正しいとすれば、現在は、欧米という近代の列強の「卒業式」と、BRICsという新たな世代の「入学式」が行われている、とみることはできないでしょうか?

  

2.継続する爆発と収束する爆発

  

(1) 30,000ドルの10億人と、3,000ドルの30億人

 BRICsの人口は、約30億人。現在の一人当たりGDPはラフに言って3,000ドルです。この人達は、今、猛烈な勢いで成長し豊かな生活を享受しようと頑張っています。これに対して、先進国の人口は、約10億人。一人あたりGDPはラフに言って30,000ドルです。BRICsは、これから資源をガンガン消費しながら、30,000ドル経済への仲間入りを目指してくるでしょう。

 英蘭が切り開いた近世、そして産業革命以来の近代といった時代の特徴は、物質消費文明の開化、といえるような気がします。 家を建て、様々な食材を食するようになり、交通機関を整え、身の回りの生活も、冷蔵庫、テレビ、パソコン、電話と、様々なもので埋め尽くすようになった。

 それを可能にしたのが、蒸気機関以来発達した機械文明です。また、同時に化石資源の争奪と活用も激しくなった。人間生活における物質的な豊かさを従来にない水準に引き上げる代わりに、地球上の様々な自然資源を、急速に消費してきたように思います。それ以前は、そこまで資源を消費しようにも、消費する技術がなかった。

 地球は、こうした、10億人という全人口の12%の人達の「豊かな生活」を支えることには寛容でした。しかし、これから、30億人、つまり+36%(合計すれば地球上の約半分の人達)が「豊かな生活」を追い求めてきます。このことに、本当に耐えられるでしょうか?ましてや、10億人が、更に物質的な豊かさを求めようとすることに耐えられるでしょうか?

 個人的には、ここに、21世紀の「入学式」を円滑に整え、その時、日本がどういう立ち位置に立つべきなのか、大きなヒントがあるように思います。

 

(2) 物質消費文明と上手に付きあう

 なんだかんだ言っても、BRICsの方々は、20世紀の強国並みの物質的豊かさを、必ず一度は、求めるでしょう。そういう意味で、12%の人口が経験してきた資源消費と経済成長の「爆発」への圧力は、無くなることはないと思います。問題は、それを、我々が経験してきたパスよりは、より効率的なパスで実現させてあげる必要がある。それから、我々自身が、物質的豊かさだけで心の満足感を達成する経済から、そろそろ卒業する必要がある。その当たりに、考えるヒントがあるように思います。

 例えば、地球温暖化問題は大切な話です。今は、CO2の議論ばかりが先行していますが、自分が、地球温暖化問題の立ち上がりの1991年頃に、地球温暖化防止条約の担当をさせていただいた時には、そもそもアジェンダ設定の一丁目一番地が、地球温暖化自体ではなく、「地球的規模の課題(Global Agenda)」としてもっと大きな枠組みから議論されていました。温暖化自体をとっても、化石燃料消費起源のCO2(当時の理解は、温暖化要素の半分強程度)だけでなく、メタンその他も、バランス良く議論されていたような気がします。

 世界の議論がこれだけCO2に偏るのは、それによって新たに儲かる人が多いということなんだろうと思いますが、本当に、地球環境問題を考えようとするなら、地球の砂漠化、森林資源の保護、生物の多様性など、更に急を要する課題が他にもたくさんあるような気がします。

 近代のモデル、就中、我が国の成長モデルは、製造業モデルです。安く仕入れて、加工しながら付加価値を与え、高く売る。消費生活をとにかく煽り、新たな製品の消費を促す。だから、際限なく、モノを作り、消費していくことによって、自動車でも、家電でも、すそ野の大きな産業ができる。それが雇用も支えていきます。その代償として、森林資源が取り尽くされ、化石資源の消費が進み、天然資源の採掘も猛烈な勢いで進んでいきます。

 最低限の物質的豊かさを満たすまでのBRICsは、おそらく、これと同じ道を通らざるを得ません。もちろん、日本が江戸時代に切り尽くした森林を、現代の植林技術で相当カバーしてきたように(例えば養老孟司、竹村光太郎「本質を見抜く力」P30~)、何らかの激変緩和策はとりうるとは思います。でも、BRICsでは、「爆発」はまだまだ続く。僕らの経験値より、更に大規模に進むはずです。

 ここで、我が国がどういう役割を残すかは、よく考えておく必要がある。

 第一に、問題は、先進国の12%分まで、従来と同じような「爆発」を維持し続けるのかということだと思います。特に、我が国の場合注意が必要だと思います。下手をすると、海外への輸出競争力が落ちたから、国内のものづくり消費にしがみつこうという話になる可能性がある。しかし、そうすると、結果的に、世界に売れるものはますます作れなくなるし、国内では、物質消費文明の限界領域に真っ直ぐ飛び込んでいくことになる。アプローチとしてあまりに単純に過ぎます。何か別の方法で潜在成長力を高めなくては行けない。実は、課題はマクロ経済政策よりミクロ経済政策にかかっている。

 従来型の「爆発」は一度は、収束させる必要がある。そのために、我々はバブルを経験してきた。その経験を生かせず、ものづくりの比較優位という、同じ交易条件の下での成長戦略を模索し続けようとしたら、きっと、日本は、「卒業組」の方に分類されていくことでしょう。

 第二に、BRICsで起きる「爆発」に、どううまく、我が国経済の役割を忍び込ませていくか、という視点があると思います。もちろん、省エネ技術を売り込むといった議論もありますが、技術移転というのは、実際はあまり儲かりません。技術はあげてしまえば、どうにでもなってしまいます。知財戦略を駆使してもなお、やはり、実際の製品やサービスでそれらの市場に入り込んでナンボだと思います。

 しかし、これから「爆発」するBRICsの人達から見ると、やっぱり自国製の製品の方がいい。実際、BRICs経済自身が自らの購買力も上げなくてはいけないから、どうしたって、加工・付加価値向上モデルの主だったところは、自分たち自身で行う必要がでてくる。また、先進国側から見ても、そうしないと治安が安定しない面があるから、ある程度は、見過ごさざるを得ない。結局、我が国製品の世界シェアを、ただ高止まりさせることだけ考えても、いずれ追いつかれる技術や品質だけでは、維持でできない、そういう結果が見えているということではないかと思うのです。

 と我々は、どこに、自分たちの製品・サービスなどの役割を残しておくか、考えておかなくてはいけなくなってきます。

 

(3) 我々も成長は止められない

 しかし、我々自身も、いくら「爆発」期が終わったからといって、成長の歩みをとめるわけにはいきません。資本主義を採用し、市場メカニズムを通じた効率的な資源配分を起こそうとするのであれば、その仕組み上、最低限の成長は不可欠だと僕は思います。

 政府が資源の再配分をきめ細かく行うことで、市場機能の調整をする時代は、明確に終わったと思います。世代間での資源の再配分、明らかに所得水準の異なる社会的クラスター間での調整、将来に向けた教育等共通的基盤への投資など、政府には、政府のやるべき事業は残ります。しかし、基本は市場機能。

 通常の資源配分は、市場機能に委ねければ、無理だと思います。それだけ、関わり合いが複雑化し、広がりを持ち、資源配分に必要な情報量が急増したということなんだと思います。特定少数で管理し、全体を知り得るような状況では到底なくなってきた。そこに逆らうようなことをしてはなりません。

 でも、だからこそ、市場による資源の再配分を効率的な形で維持していくためには、成長が必要だと僕は思います。全体が膨らんでいくという神話の中で、失業の調整、人材の適正配置、より効率的な投資配分などの資源の再配分機能が、円滑に機能するように思うからです。

 例えば、人材配置の適正化は、よりよい待遇を求める個々人のモチベーションをエンジンにして進みます。しかし、全体として賃金水準が下がるような状況の中では、より、「下げ幅の少ない先を求めての転職・就職」となります。これでは、元気が出ません。

 資金もそうです。成長が期待でき、利子率もつくから、積極的に投資先を探そうとする。その中で良いものも生まれる。名目ベースで議論するか、実質ベースで議論するか、専門的に細かく正確性を追求していくと、色々な議論が出てくるので、素人でなければ、こんな乱暴なまとめはとてもできないと思いますが、大雑把に言えば、伸びる見通しがあるからこそ、より積極的に情報を収集し、よりよいヒト・カネの配置・配分先を探そうとするのではないでしょうか。

 そのモチベーションと効率の良さに、政府や特定者による資源配分努力は、到底かなわない、それが、20世紀後半に、世界経済が実証してきたことだと思います。

 仮にもしそうだとすれば、「爆発」時代のように、資源をガンガン消費しないにしても、我々自身の経済も、成長は続ける必要がある。市場機能の効率性を最大限活かすためにも、「成長神話」は崩してはいけないということになる。

 加えて言えば、BRICSの投資の原資となるマネーの供給も、やはり、先進国の仕事として期待されているのではないでしょうか。そのためにも、我々の経済が頑張って、膨らませてしまった金融資産とマネーサプライの天井を、何とか、急激に落ちて込んでこないよう維持する義務があるのではないか。

 そう考えると、ただ「爆発」をやめてしまうだけでは、我々の世界的役割は果たせないことになります。BRICs等で継続する「爆発」と、先進国で収束する「爆発」をどううまく、組み合わせていくか、それが今、重要な時代的背景となっているのではないでしょうか。

 

3.ソフトパワーの時代

 

(1) 消費水準の高さが比較優位になる時代

 では、これからの成長は、何をベースに支えていけばいいのではないでしょうか。従来が、安く仕入れて、加工等による付加価値をつけて、高く売る。そういうモデルだったとすると、僕は、これからは、消費欲望水準において、常に高い生活を維持するということではないかと思います。

 製造業に見る加工等による付加価値が完全に否定されるわけではありません。しかし、その素材をものに変える加工・組立プロセスでの技術水準の高さが比較優位に直結していた時代は、そろそろ終わる。

 日本のものづくりが、その品質とノウハウの高さを世界に対して隠蔽できた時代には、そこを比較優位の源泉とすることもできたと思います。しかし、米国を始め、世界が日本のカイゼン活動を学び、世界中のチエが、米国をはじめとする研究教育機関を通じて、我々のノウハウを裸にしてきたんだと思います。だから、なまじなことでは、長期的な優位は維持できない。

 カイゼンノウハウ以外にも、確かに、まだ、属人的に外国人には真似のできない素材加工技術、金属加工技術といった比較優位が我が国に残っています。実際、電子部品系を中心に、世界シェアの圧倒的に高い中小企業は、我が国に多数残っている(経済産業省「知識組み替えの衝撃」P25等)。ただ残念なことに、これらについては、当の我々自身も、その伝承に悩んでいるのが現実です。加えて、我が国経済全体がこうした企業の力をうまく生かし切れていない。そうこうしている間に、BRICs等がどんどん追い上げてくる。そこは必至になって技術流出を守ろうとするわけですが、技術流出を守ろうとするだけでは、限界がある面があります。

 全体的に見ると、今後は、だいたい半年もすれば、少なくとも普及モデルの家電・自動車などでは、BRICs製の製品と技術的な差が付けがたくなっていくような実態に、なっていくのではないでしょうか。半年も待てば、同じものが出る。そう思えば、BRICsの消費市場も、安くて、自分たちの生活にも間接的な見返りの期待できる自国産品の登場を待つのが自然だと思います。

     *    *    *

 それでもなお、日本の製品・サービスが欲しい、と思わせるためにはどうすればよいか。

 自分が好きなので、自動車市場を例にとってみたいと思います。

 自動車の世界における高級欧州車的立ち位置を、どう広く確保していくか。機能的に優れているだけなら日本車で十分です。日本車は壊れないし、加工精度は高いし、本当によい。が、どうしても、BNWやベンツやアウディに乗りたい、いやいやジャガーやランドローバーに乗りたい、イタリア車に乗りたい、そういう文化的な消費欲望水準の高さというものがある。

 また他の例では、結果として精度は遙かに低くても、日本製電子式ムーブメントより、スイスの思いを込めた機械式ムーブメントこそが、欲しい。だから、性能は逆でも、値段は、100倍以上スイスの機械式の方が高いなんてことが起きる。

 今後は、こうした消費に対する欲望水準、質の高さが、主たる差別化の要因になっていくような気がしてなりません。しかし、こうした分野は、仕事に勤勉でプライベートの時間が短い日本のサラリーマンには、ちょっと苦手な分野です。こうした差別化は、ものづくりの技術が高いだけでは達成されないからです。

 こうした製品のテイストやデザインは、それを使う消費者の生活の質の中からこそ、出てきます。逆に言えば、こうした消費生活水準の質さえ高く維持できれば、これは、BRICsには、そう簡単には真似できない。そうすれば、BRICsの市場の中にも、どうしても日本製品・サービスでなければならない領域というのが残っていきます。

 例えば、女性ファッション。個人的には全く苦手な分野ですが、アパレルWebさんにしていただいた分析の助けを借りれば、我が国のファッション誌には、ハイエンド系、プチマダム系から、カジュアル系、ストリー系、OL系、おねえ系、ギャル系など様々なグルーピングがある。これだけ多様な流行があるのも、世界的に見て珍しい。このうち、雑誌ベースで中国語版が出ているものを見てみると、実は、Ray、ViVi、ef、oggi、withなどがあり、グループで見ると、アラサー系とオネエ系は、消費トレンドとして中国市場への進出に成功していることが分かる(経済産業省「知識組み替えの衝撃」P40等)。

 ファッションの場合、まだ、こうした消費トレンドの輸出が、日本製品そのものの売上にあまりつながっていないという意味で、成功例なのか失敗例なのか微妙ですが、少なくとも、こういうトレンド形成は、我々でなければできない。かつて、日本がヨーロッパのVogue系ファッションなどから入っていったのと同じような話なのかもしれません。

 今後、こうした文化力、トレンド形成力の部分をどう膨らませていくのか、そこが勝負になる。

 ただ単に、ものがたくさんあるだけでは、もう多くの人は満足しないでしょう。実際、今の日本の若者も、むしろ実家から離れることによる不便さを懸念しこそすれ、どうしても欲しいものがあるから、がむしゃらに頑張る、そんな考え方からは着実に離れ始めているような気がします。実現したい生活が見えなければ、将来に夢も希望もない。一歩間違えば、そんな議論をも惹起しかねない。

 でも、絶望的かと言えば、そうでもない。

 例えば、プリウスがそうであるように、ものづくりの強さを活かしながら、更に、売り込もうとする生活イメージの中に、地球的規模の脱消費文明化的メッセージを忍ばせ、成功した例もある。実際、車としての速さや室内の広さなどだけでない価値観に、きちんと市場はついてきている。また、それがエコというメッセージであれば、BRICSの「爆発」による無駄な資源消費の効率化にも貢献できそうな気がします。

 大事なのは、BRICsにそう簡単には真似できない、クールさ。スマートさ。土臭く頑張るだけではだめで、スマートなエンジニアにならなくてはいけない。そういう時代になりつつあるのではないかと思います。 

 

(2) コンテンツとソフトパワーの活躍の余地

 となれば、問われるのは、文化的な、若しくは、感性的な部分での生活の水準の高さと力です。

 思えば、米国ですら、70年前後に発した米国文化オーラは、世界を、あれが「先進国」ということだと洗脳した側面があると思います。台数的には勝負になりませんが、欧州高級車のオーラは、今でも、日本の自動車マニアの心を掴んで離しません。ビートルズ、はたまた、U2やQueenのようなブリティッシュ出身のロックを聴いて育った世代には、その現場がどんなに英国社会の場末の現場であるとしても、ある畏敬の念は途絶えません。

 逆に言えば、今、ハリウッドの生活といっても、一時期ほどの輝きは持ちません。ロスに関する情報は、ネット上に山のように溢れている。 グルメだけなら東京の方が案外良い。季候はいいけど、そんなに便利なわけでもない。夢のような生活がそこにあるというほどのものでもない。一度旅行で訪ねてしまえば、こんなものかと思ってしまう。それよりは、東京ディズニーランドに行っている方が、身近で楽しい。何より東京は便利。そんな側面もある。

 前回のエントリでも書いたとおり、日本が、米国のような「永遠の青春時代」を目指すようなライフスタイルを送れるとは思いません。しかし、日本には、「辺境から世界を均衡する叡智」があるかもしれない。ずいぶんと昔に紹介した、Tokyo Fiber にみられるデザインとチエ、日本的感性を維持しつつ世界で闘ったカーデザイナーの奥山さんの感性、日本の地方のある一定層の消費者が享受している、東京と較べて実は豊かな暮らし。「非誠勿擾」という中国映画で一躍中国で起きた北海道ブーム。

 探せば、実は、BRICsが手に入れたくても手に入れない生活と、メッセージが、日本の中にまだ沢山寝ているような気がします。何より、日本には、「おくりびと」のネタになった納棺士をはじめ、歴史に裏打ちされた生活と伝統がある。これを前面に出して、いつかは日本みたいな生活をしてみたい、そういう流れを世界に流すことができれば、技術水準の高さを通じた付加価値力とあわせて、日本の国際的な比較優位は、当面維持できる。

 最後に人がたどり着くのは、物質的な豊かさではなくて、心の満足度だと思います。ものがたくさん無くても豊かな生活はある。そのことを、うまく経済原理に取り込んだ、そんな社会ができれば、世界はきっと、そんな日本を真似するようになるのではないでしょうか。そんな風に希望しています。

       *     *     *

 しかし、もっとも、あれですね。。。その、こう議論してくれば来るほど、あまり文化的な生活が送れていない自分は、ますます役立たずという気がしてきます・・・

 水野先生のお話に大変刺激されたのが原因なのですが、前回の予告と全然違うエントリになってすいません。また、次から、軌道修正します。 

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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