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中規模な世界観 〜構造・脱構造から現在へ〜

2008/11/10 01:05
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 建築を軸に、現代の流れを概観するお話を伺う機会がありました。全体をうまく的確にまとめる能力はありませんが、「中規模な世界観」が求められている、という結論的な部分については、日頃の思いと一致する部分がありました。

 この話には、コンテンツ産業やIT産業の市場を考える上でのヒントが、沢山あるような気がします。誠に恐縮ですが、自分の備忘もかね、自分が理解できた話の非常に大括りな整理と、その感想を、少し書いてみたいと思います。

 

1. 構築、脱構築から現在へ

 

 現代を分けるとすれば、70年前後までのモダニズムの時代。そのあと89年までのポストモダニズムの時代。そして、89年以降の、ITと混沌の時代の大きく三つに分けられる。また、第三期は、その前後期を、9.11.が分けている。誰が分けたわけでもないが、そんなような大きな時代区分が自ずと設定できるように思う。

 第一期モダニズムの時代は、「計画」を信じることが出来た時代。科学技術と経済成長を一本槍で信じることが出来た時代。逆に言えば、その裏返しとして前衛芸術があったというわかりやすい時代だった。

 これに対して、第二期ポストモダニズムの時代は、良くも悪くも、脱・構造。もう「新しいものはない」という時代。経済成長神話をはじめとした「大きな物語」が解体する一方、言語によって言語を脱・構築する、批評を批評する、表象の戯れが行われた時代だった。東西対立をはじめとした二項対立に対してもデ・コンストラクトが行われ続けた時代。J.デリダやアイゼンマンが言論側でのそのリーダーとも言える。

 そして迎えた第三期は、1989年のベルリンの壁崩壊以降、二項対立自体が消滅し、世紀末、それも18世紀末的様相を迎えた混沌の時代。表象が飽和し、無感動にあるカオスと絶対的・倫理的秩序が両立してしまうような(「サドとともにあるカント」的様相)特異な状況が出現。ITの普及が流動化を加速し、ドゥルーズや「生の躍動」をうたったベルクソンのような流体的な表現が出てくる一方、鎌倉時代の重源の「水晶の五重塔」のような単純幾何学的な造形に突如回帰する場面もでてくるなど、周辺がわさわさしはじめた状況。

 特に9.11.の起こった2001年前後を境に、グローバリズムの波が一挙に世界中に押し寄せてくると、構築も脱・構築もなく、「グローバル資本主義に、もうやけくそ的にサーフする」しかない状況に世界が陥り始める。「世界はこんなに醜くなる、ざまーみろ」的な割り切りの下、思い切ってグローバリズムに乗ってしまうしか、身の処しようがない時代へと変化。

 この動きの背後では、東西対立の時代と較べ、世界の構造が明らかに変わってしまうとともに、脱・構造主義が語っていた「表象不可能性」の議論は、「表象禁止」という事態へと進行。文化のクッション抜きに、色々なものがダイレクトに政治・経済に直接影響する、もの凄く乱暴に政治経済が突き動かされる時代に突入しはじめてしまっている。だからこそ、とりあえず、米国発のNeoリベラルな資本主義に、それでも早くサーフしてしまった方が得。みんながそう考えざるを得ないかった。そして、その反動が、今、世界の資本市場で起きている、ということではないか。

 

2.表象から象徴へ

 

 かつて、モダニズムは、世界は数学的に構造化できると主張した。その後、脱構築で表象の表象を議論していたら、いつの間にか、批判の対象としていた構造そのものが消滅するとういう事態にいたった。

 現在の状況は、グローバル化と同時に進んだ、IT化によって、時代の本当のアーキテクチャはITの中に隠れてしまい、現実に見えるのは、北京オリンピックの鳥の巣のような無根拠なアイコンだけ、ということか。その結果、Actualなものより、Virtualなモノの方がリアルという逆転現象が起こっている。

 建築の世界でも、今、問われているのは、表象不可能性の議論を飛び越え、突然現れる非連続のようなもの。北京オリンピック会場の鳥の巣中国中央電子台(CCTV)の新本部ビル、若しくは混乱するNYグランドゼロのコンペの現状などがその象徴ではないか。ある種のメタボリズムの復活ともいえる。CCTVを手がけたコールハースなどが典型かもしれない。

 グローバル化の波の中で、なにもかも全体がぐちゃぐちゃになってしまい、あらゆるものが流体化しつつある。構造を何らかのシステムに落とし込むより、ネットワークを介した外部からの内部変化の方がスピードが早く、その形を構造化することは難しい。外縁がどこにあるのか、誰にも分からない。時代の外縁は追いかけても追いかけても、常にその先にあるような感覚に追い込まれていく

 こうなってくると、漢字文化圏など、「中規模の世界観」を先に提示し、その世界観の仮説に基づいて動きを勝手に先取りしていくことが課題になる。

 「世界観」ということでは、和辻哲郎から梅原猛に流れる和物路線が注目されがちである。しかし、この動きは、実は昔からあるパターンの繰り返し、概ね中国的構造に見られる流れの派生を一般化したに過ぎないともいえるのではないか。奈良・平安の漢文化の導入、鎌倉の仏教の導入、戦国時代のキリシタンのショック、明治の西洋の導入と、岡倉天心フェノロサが媒介したように、日本文化は、そのたびに外圧を和様化(たおやかに吸収し、再構築)してきている。そのこと自体は、あまり独自の世界観にはなり得ない。

 むしろ、注目しておくと面白いと思うのは、柄谷行人の説く60年周期説(「歴史と反復」などを参照)。1930年代は、世界的に国家間競争というパラダイムが立ち上がった時代。その10年後が世界大戦があったとすると、次の60年に入った1990年代は、世界的に資源獲得競争というパラダイムが立ち上がった時代。その10年後に湾岸戦争と原油価格高騰として、その構図が顕在化している。今は、これらを直感的に、みんなが「環境」として語っている。そういう風にも捉えられるように思う。

 今語られている「環境」や「デジタル」は、実は、60年代に、ローマクラブの「成長の限界」やサイバネティクス(ノーバート・ウイナーの著など)、「システムの科学」などで予告されていたモノが顕在化しただけとも言える。

 ただし、資源獲得競争と併せて現代に訪れた情報資本主義は、物理的な構造を残さないのが特徴。それは形にならないものだけに、表象しようにも表象のしようがない。したがって、リアルの世界は、表象よりも象徴、意味のある表現よりも、シンボルとかアイコンといったものを更に志向していく傾向が出てくる。現代で言うブランド作りとも似ている。

 王様の宮殿なら王様の宮殿らしく飾り立てる。そういう表象が飽和した後に現れる、18世紀末的な表象可能性をつきやぶる巨人的な動き。今起こりつつあるのは、まさにそういうことかもしれない。

  建物は本来、直方体のプロポーションや装飾の豊かさで勝負するものなのに、突如、完全な立方体(Cube)やピラミッド型などの幾何学的な造形に帰ってくる。コルビジェが主張した伝統から切り離された合理性のベースも、ロココ的な装飾を極限まで排した非常に幾何学的なシンプルなモデルの上に立っている。現代で言えば、磯崎さんが熱心に推挙したCCTVの本部ビルのようなシンプルな造形。それらはほとんど無根拠に突然現れてくる感覚がある。

 アーキテクチャ本体はネットワークの中に。そして、リアルに見えるのはアイコンだけ。こうなると、もはや、誰かの意志によって全体を設計する、企画するということには、なかなか難しいのではないか。時代は、何らかの世界観や作り手の意志に頼りつつ、ある種の自動生成的なメカニズムに勢いを乗せて作られていく、そういう語り方しか出来ない時代に向かっているのかもしれない。

 

3.中規模な世界観の先取り

 

 以上が、伺った話の自分的概括です。構造=>脱・構造から、グローバリズムのある種の横暴へと動く流れ。その中での、「アーキテクチャ本体はネットワークの中に。リアルの世界では、その代わりに、無根拠なアイコンが突如現れる。」という現在の構造。いつにも増して抽象的な話ですが、個人的には、非常に腑に落ちるところの多い、お話でした。

 

 第一に、長らくシステム企画・設計の現場を追いかけ続け、ザックマンモデルに端を発したEnterprise Architectureの話に取り組んできた自分にとって、今の話は、システム設計にも通じるところが多い話だと思いました。

 本来、システムというものは、人やデータの振る舞いを機械でも処理可能な形に落とし込むもの。しかし、最近のシステム開発の現場を見てみると、組織内部の5W1Hを定義して構造化し、システムに落とすスピードより、組織内部そのものが外部からの影響によって変化してしまう、若しくは、ネットワークを介してそれ自身がどんどん外縁を拡げてしまう、そういう変化のスピードの方が早い。だから、それこそウオーターフォールライクにモノを作っていると、システムが常に現実から取り残されてしまう。

 僕は、現場の体制やユーザ企業のIT投資管理体制がウオーターフォールライクなのに、システム作りの中身だけSOAとかアジャイルなどの理想型を唱えても、あまり意味がないと考えているのですが、でも、中長期的に現実を見れば、システム開発の現場は、明らかにそちらに流されざるを得ない。こうした流れの背景には、Enteprise Architecuture自体が激しく流体化しているという現実があるのではないかと思います。

 ここで大事になってくるのは、システムのオーナーであるユーザが、自らのEnterpriseに課すVision, Missionをはっきりとさせること。そこの世界観が曖昧なままEAに突っ込むと、たいていの場合失敗します。これは、EAという手段の活用に限らず、IT投資全般に言えること。この部分が、従来のシステム開発屋だけでは、どうにもならない部分なのではないかと思っています。

 

 第二に、コンテンツ産業の中にいても、こうした「中規模な世界観」の回復が必要となるような気がします。

 映画産業を例に取れば、国際的な市場では、今、収益性という観点から見ると、引き続き、米国の映画産業が圧倒的な強みを持っています。これは、60年代〜70年代の米国的価値観に基づく文化の中身に裏打ちされものだとは思いますが、少なくとも、この数年の動きで言えば、ハリウッドのその部分は完全に弱っているような気がします。

 にもかかわらず、未だに彼らが強みを持つのは、その価値観を世界に拡げるプロセスで獲得した、ビジネスフォーマット。今や、国境を越えた映画製作や市場構築ノウハウは、ハリウッドが作り出した膨大な契約書や取引ノウハウ抜きには、なかなか難しくなっているのが現状ではないかと思います。

 世界観の中身は枯れ始めているのに、フォーマットを押さえられているから勝てない。米国の世界観自身が、グローバリズムによって逆説的に相対化され始めているにもかかわらず、ビジネスフォーマットが揺るぎないから、逆に、日本のサブカルチャーの発信なども、彼らのフォーマットを使わざるを得ない。

 本来であれば、そろそろ、新たな世界観とそれに基づく新たなビジネスフォーマットが形成される動きが出来ても良いはず。にもかかわらず、その世界観に方に自信と中身が伴わないから、どうにも、ハリウッドのフォーマットにあわせたものしか世界に出せない。そんなことになっているのではないかという気がしています。

 日本発の現代アートにも、サブカルチャーにも、世界が刮目すべき優れた内容はいくらでもある。それを活かすような世界観の打ち出し方をこそ、考えて行かなくてはならないような気がしています。

 

 第三に、IT市場全体の動向も、90年代以来、この世界観を勝手に定義した人が、その人の技術水準の如何に関わらず勝ち続けているような気がしてなりません。

 インテルが90年代に勝利を収めた図式も、まさに、チップの性能そのものを前面に立てた市場作りではなく、Wintelが実現するパソコンやネットの世界のマーケティングと、ルールをはじめとしたその社会インフラ作りに投資をし続けたことによって実現したような気がします。従来のプロラタ仕様の技術力の世界を、PCとネットという世界観や市場のフレーミングの力によって覆してしまった。

 SaaSが世界観になっているかどうかは分かりませんが、クラウドを主張するグーグル等も、まさに、世界中のネットのホームページをクローリングし束ねるという彼らの実態はさておき、それを上回る世界観を自ら打ち出し、それに応えるサービスを後から追加していくことによって、市場全体を自分の価値観に取り込もうとしているのではないかと思います。

 日本には要素技術はたくさんあります。エンジニアの質が欧米に較べて低いとも思えません。でも、こうした世界観の打ち出しが弱い。市場のフレーミングを先に押さえられないから、開発が始まってもいないインテルのチップのMD戦略にあっさり負けてしまうようなことになる。

 今こそ、日本は、技術力や品質管理能力だけでなく、世界観で世界の市場に行かなければならないのではないかと思っています。

 

 ですけれど、難しいのは、その世界観の所在。一体どうやったら、我が国らしさが打ち出せる中規模な世界観があり得るのか。エコだロハスだと言ってみるのは簡単でですし、オーガニックを主張してみるのも、癒しを前面に出すのも一案だとは思いますが、どうも、普遍化・陳腐化した記号を連呼しているようなむなしさが残る。

 でも、このグローバリズムの乱暴な荒波をサーフしていこうと思えば、どうしても、世界観をやや荒くても良いから、とにかく先に示していく必要がある。それ無しに、単独で、作品や技術、ビジネスモデルなどを提示していっても、単品での戦いでは、荒波に飲み込まれてしまうだけ。

 我が国のソフトパワーをどう海外に打ち出していくか、そうした国家戦略を考えていく上でも、世界観の決め打ちと、それを支える「アイコン」のデザインが、とてつもなく重要になっている、そんな感想を抱いたお話でした。

 

     *     *     *

 

 今回は、若干、自分自身が未消化な話を大胆にまとめて書いていますので、敢えて、どなたの話なのかはご紹介しません。日頃のエントリに輪をかけてわかりにくく大変恐縮ですが、人の話を聞いた村上の乱暴な感想とでも捉えていただければ、幸いです。次回以降は、また、少し自分自身の言葉で書ける話に戻りたいと思います。

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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