10月11日、コンテンツ学会の設立総会・シンポジウムに参加してきました。登壇された方のお話はもとより、会場からも様々な指摘やコメントがばんばん出される大変闊達な会合だったと思います。主催者の方々のご努力には、本当に頭が下がります。
また、「府省や業界のタテ割りの悪い部分を克服していくためにも、まずはアカデミックに横断的な議論をしっかりしていくことが重要だ。」といった慶応大学の中村先生のお話や、「コンテンツの人材育成ということについて、専門学校から始め、大学院大学を作るにいたり、その次は、こうした学会活動にたどり着くことが自分にとって大事なゴールであった」といったデジハリの杉山先生のお話など、発起人世話人の方々のコメントも、それぞれに強く実感の籠もったお言葉が披露されており、大変印象的でした。
本件、必至に走り回っておられた慶応大学の金准教授からの依頼もあり、僭越ながら、学会への期待などをご挨拶をさせていただきました。今日は、その時に触れたことを、簡単にまとめてみようかなと。
1.「コンテンツ」か、「コンテント」か
(1) 「コンテンツ」じゃ、「目次」になっちゃう?
96年のことになります。 某新聞の一面に関連の記事が出ることになって喜んでいたところ、担当の記者の方から、「『コンテンツ』という言葉を一面に使うのは初めてだ。なかなかデスクを通らないかもしれない」、と言われてしまいました。結局、記者の方のご努力で「コンテンツ」で記事にしていただいたのですが、その時、揉めた表現の一つが、「コンテンツ」か「コンテント」か。「コンテンツ」は複数形なので、「目次」という意味になってしまうのではないか、ということでした。
今でこそ、「コンテンツ」が「目次」に聞こえると心配される方はいないと思いますが、当時はまだ、日刊紙の一面ともなると、そこまで心配せざるをえない時代でした。また、当時、その記事の用語解説としても、「コンテンツ(情報の内容)」と記さざるをえず、「『情報の内容』っていうのは、ほんとはちょっと違うんだけどなあ。他に思い当たる表現もないしなあ・・・。」と思ったことを、昨日のことのように思い出します。
確かに、普通に英語で考えれば、Digital ContentやMultimedia Contentといったように形容詞をつけないと、今でさえ、What content? と聞かれかねないのは事実です。複数形に聞こえるかどうかはさておき、心配そのものは、誠に当を得たものだと思うし、若干、日本語英語的な面もあるのも事実です。実は、当時も、同じような意味から「ニューメディア」とか「マルチメディア」といった、今にも連続性のある、昔からある議論がありました。でも、それらは、どうも新たなコンテンツ分野の追加を志向する呼称にも聞こえる。そういう、新たなメディア分野の表現に聞こえやすい概念に代わって、「コンテンツ産業」という各コンテンツ分野横断的かつ包括的な見方が市場に定着したことは、90年代半ばに、一生懸命「コンテンツ」概念を提唱していた一人として、本当に嬉しいというか、隔世の感があります。
実際、96年に「コンテンツ」の名前が新聞の一面に載り、2000年の行政組織再編の際に、コンテンツ課を名乗る行政組織が誕生。2001年にはデジタルコンテンツ白書が誕生し、その後、コンテンツに関する施策や組織が政府全体や自治体などに広く拡大。2007年には、「Japan国際コンテンツフェスティバル」(愛称「コ・フェスタ」)が府省横断的な取り組みとして始まるなど、「コンテンツ」というコンセプトは、我が国内で順調に広まってきました。
しかし、今になってみて、僕には、大きな反省があります。こういうと無責任に聞こえますが、
これで、本当に良かったんだろうか?
(2) 「コンテンツ」概念の功罪
というのも、まさに、最初に「コンテンツ(情報の内容)」と記載されて違和感を感じたように、コンテンツというのは、本来もっと広い意味を持はずです。ところが、今は、逆に、エンターテインメント・コンテンツに近い分野に狭く解されがちで、自己規定が効きすぎているのではないか?かえって、自らを狭く縛り付ける用語に、「コンテンツ」がなってしまっているのではないか?そういう反省があるからです。
実際、当日の会場でも、「是非、コンテンツという曖昧な言葉を、正確に日本語で定義できるよう議論を深めて欲しい」とか、「コンテンツという用語の曖昧さを徹底排除して、無理に拡げてしまうことのないよう、その持つべき示唆をしっかり特定すべきだ」といった指摘が多数出ていました。やはり、「コンテンツ」という言葉の曖昧さの負の側面を気にされている方が多くいるんだと言うことが、実感されました。会長にご就任された堀部先生ご自身が、自らのご挨拶の中で、「コンテンツ」という言葉の持つべき意味が狭く解されて流通していないかという問題意識をご説明されていたのも印象的でした。
もちろん、「コンテンツ」という言葉は、まさにcontentということであって、それ以上にも以下にも、定義自体は絞り込むことは難しいと思います。もし、無理に定義を正確に行うとすれば、それは、おそらく何らかの意図を加えざるを得ないので、学術的な議論で決着する問題になるのかどうか、また、定義を無理に正確にすることによって、敢えてコンテンツという言葉で全体を表現しようとする戦略的効果の部分が薄まってしまうおそれがないか、といった面も心配すべきだと思います。
しかし、こうした冷静な議論を反芻する以前の問題として、今の状況は、あまりに実態に束縛されすぎてはいないか。そんな視点から、この会議では、次の二つの問題提起をしてみました。
すなわち、今使われている、やや狭義のコンテンツ業界(デジタルコンテンツ白書が市場規模14兆円として積み上げている、映画、音楽、ゲーム、出版などのソフト分野全般)について、次の切り口を意識して議論してみてはどうかと。
- 狭義のコンテンツ業界内部であっても、現在、メディア分野横断的に共通に起きている現象があるのではないか
- 狭義のコンテンツ業界を他の産業分野と積極的に連携させるために、議論を深めてみないか
2.コンテンツ業界内部の共通の課題
〜 業界の重心の変化と環境変化 〜
コンテンツ産業担当に着任して、この2か月半程度、まずは映画、音楽、ゲーム、アニメ、出版など各メディア分野毎の現状と課題について、いろいろと足元から勉強を始めさせていただきました。で、第一印象からいうと、どうも、どの分野でも似たようなことが起きているような気がする。無理に一言で表現すると、業界の重心の移動とでもいうような。
もともと、コンテンツ産業は、音楽にせよ、映画にせよ、レコードの収益、映画館興行とパッケージの収益といった、流通媒体の売り上げが基点に出来ていた産業です。決して悪い意味ではないのですが、僕は、今の構造を、ある意味憧憬を込めて、「八百屋さんの現金籠商売」と呼んでいます。売上は全て、店の奥で天井から吊した籠に直接放り込む。翌朝の仕入れは、籠の中の現金の残り具合を見て、しかも、そこから現金を直接つかみ取りして、市場に出かける。
もちろん、今の八百屋さんがそうだといっているわけではありません。昔、近所の八百屋のおっちゃんが店の奥につり下げられた籠から器用に釣り銭を取ってくるのがとても印象的で、何となく思い出しただけです。ただし、この部分のお金の流れ方は、原理としては、ある意味究極の無借金、キャッシュフロー経営ですよね。
例えば、レコードを例に取れば、ある年のレコードの売上が良ければ、その翌年はレコード制作枚数や新人のデビューをちょっと増やす。売上が落ちれば、絞り込む。とにかく、媒体の売上を基点に、制作側から流通側まで、とてもシンプルな構図でつながっていた。
ところが、ITはじめ技術進歩の結果、メディアが多様化して、いろいろな流通手段が使えるようになった。その結果、かつては、実質的に、音楽産業=レコード産業だったかもしれないけれども、今は、レコード産業は音楽産業の一部になってしまった(もちろん、文字通りのとらえ方で、レコード会社自体の多角化と進化を否定するものでは全くありません)。
実際、音楽CDは、この6年間で30%前後売上を落としており、とても深刻な状況です。音楽産業全体で見てみても、カラオケの売上減が激しいので、全体に縮小しています。しかし、逆にカラオケ減少分を除いてしまうと、実は、1.5%しか売上が落ちていない。カラオケ市場の盛り上がりを一過性のブームだと考えれば、パッケージやネット、ライブなどの音楽市場は、ほぼ同じ規模を維持しているとも言える。これに、ネット等で取り損ねている海賊版等を加えれば、むしろ、従来の音楽市場自体は拡大しているかもしれない。
よく、CDの落ち込みをネット販売が埋め切れていないと言いますが、レコードの原盤権に絡む「着うた」形式のネット配信のみならず、原盤権には絡まないが著作権者には裨益のある「着メロ」まで含めると、ネット配信の伸びは、やはり相当大きい。加えて、音楽DVD市場の立ち上がり、ライブ市場の盛り上がりなどを勘案すると、音の市場自体は、必ずしも縮小してはいない。そんな風にも言えるように思うのです。
ただし、ここには大きな問題が一つあります。というのも、音を生み出す産業の仕組みは、これまでレコード会社が背負ってきましたから、制作者側への利益還元がしっかり行える仕組みが担保された媒体は、やはり、CDをはじめとした伝統的な流通媒体が中心とならざるをえない、という点です。
そうした一次流通媒体は、メディアが多様化する中では、どうしても、One of Themになってしまう。市場全体が伸びていたとしても、その媒体自身は、CDのように縮小傾向をたどり易い。そうなると、いわば、市場全体は広がっているにもかかわらず、新たなメディアには必要な仕組みが整っていないために、既存媒体に依存しているクリエーターの集団全体が「既存の一次流通」というタイタニックに乗ってしまった状態になりやすいのではないか。そこの部分を危惧しています。
加えて、既存の媒体からすれば、自分の対置位置が相対化されているにもかかわらず、ことクリエーターの育成に対する投資は一方的にやらされて、果実が採れる局面になって、多の媒体においしいところだけ持って行かれている可能性がある。これは、アンフェアだと。
こうした問題を解決するためには、CDをはじめ、有力な一次流通媒体を基点とした、各コンテンツ産業の既存のヒエラルキー型業界秩序を変える必要が出てくる可能性がある。メディアの多様化が進めば、どうしても、既存の一次流通媒体は相対化する。One of Themになってしまえば、流通の立場はどうしても弱くなる。そうなると、むしろ、複数の媒体を活用する、より制作者に近い側に、業界の重心が移動しなくてはならない。そんなことになっているのではないかと。
実際、ソニーさんやエーベックスさんなどの動きが既にそれを地でいっているようにも見えます。従来業界全体を支えてきた方々の立ち位置、positioningが少しづつ変わり始めているような気がするのです。
しかし、その実現のためには、大きなチャレンジがいくつか待っているのではないでしょうか。ここでは、とりあえず、自分の思いつくことを三つほど、例示をしたいと思います。
(1) 構造変化の重み
第一に、こうした変化を真に受ければ、流通媒体・販路を押さえることによって成り立ってきた業界力学や、お金の流れ方が、大きく変わる可能性がある。しかし、実際に、それを既存の会社の枠組みや経緯の積み上げがたくさんある企業関係の中で実現するのは、なかなか大変なことだ、という点です。
例えば、ある映像制作企業から伺った話を基に、結果的にややハッピーな仮想例を挙げてみます。
今までは、テレビ局からの映像制作発注に依存して生きてきた。テレビ局の側も必至になって制作資金を提供してくれたし、仕事も回してくれた。だから、極端に言えば、権利主張をする必要も無かった。しかし、テレビ局の番組制作経費が厳しくなり、とてもコンテンツ制作費全体をテレビ局からの資金提供だけではまかなえない事態に追い込まれた。その時に、テレビ局からの資金は制作費の半分でも良い。その代わり、権利をくださいと。あとは自分で、コンテンツのマルチ流通展開を考え、単品では無理でも、例えば年間10作品全体のポートフォリオの中で、何とか収益の黒字化を考えよう。そう考えるようになった。戦略的に考えそうしたわけではない。ただ、追い込まれてそうせざるをえなくなっただけだ。でも、その瞬間、気がついてみたら、下請企業のpositioningから自立していた。
今後は、おそらく、こういうパラダイムシフトが、あちらこちらで必要になってくるのではないでしょうか。この仮想事例は、かなり都合の良い、若しくは偶然を含んだ幸運な事例だと思います。敢えてこの都合の良い方の事例をだしているのは、結果ハッピーな事例の方が、課題解決に向け色々な示唆の広がりを含んだ、重要な構造変化を示唆できるような気がするからです。
ただし、書いてしまえば簡単に見える成功事例も、いざ自分も実行に移すとなると、とても大変なことになるのではないでしょうか。例えば、こうした重心のシフトを実現するためには、次のような課題も待っています。
(2) 投資概念の欠如
一つの基本的な問題は、そもそも業界に、「投資概念」、若しくは、「利回り」の概念が無いということです。
これまでのコンテンツ産業には、半導体産業はじめものづくり産業が今まさに世界と争っているような「投資」競争という概念が必要ありませんでした。タレントさんや技術者さんを始め、人を育てるという意味での投資は、盛んに行ってきましたが、それは、ビジネスモデルの話としてではない。ビジネスモデルとしては、基本的に、CD販売や広告費など一次流通が売り上げてくる既存収益の中から制作費を捻出するという不変の構図に依存していましたから、その枠を超えて、事前に資金調達を行い、事業計画を立て、回収を図るというビジネス・サイクルを作るという発想が無かった。したがって、かなり厳しい人材育成競争を強いられているとはいえ、それぞれのコンテンツ作成プロジェクトには、利回りという概念は必要なかった。
これはある意味、業態が安定しているという良い面もあるのですが、それでは、既存の流通媒体にしがみついて生きていくしかなくなってしまうという負の側面もある。だからといって、伝統的な媒体以外の他の流通媒体に頼って、きちんと利益還元があるかというと、どうもそこも怪しい。そうなると、制作に近い方が自ら、「投資」概念を持ち込んで、資金・人材調達をしなくてはならない。
製作委員会方式のファイナンスの広がりがそれに近いのではないかという指摘もあるのではないかと思います。確かに、それは一つの進化だと思います。実際、リスクテークの概念を持ち込み、投資対効果を図りながら、それぞれの利益配分比率を案分されている面があります。
しかし、ソフトの場合、単品を確実に当てるということは、製造物以上に難しく、事実上ほぼ不可能です。だから、単品を対象としていては、博打にはなっても、ファイナンスにはならない。論理的に考えれば、個別作品ごとの製作委員会方式ではなく、もう少し、ファンド方式に近いスタイルが必要になる。
かつて、一部の有力コンテンツ企業の中には、自ら投資ファンドの組成に取り組み、こうした課題解決に向けた実践を試みた例が既にあります。しかし、今のコンテンツ業界全体を見ると、この発想自体が、なかなか現場には理解されにくいというか、リアリティがあまり無いというのが正直なところではないでしょうか。
また、仮に意図はあったとしても、なかなか、そこで手の組める相手が見つからない、そんな悩みに陥っているような気がするのです。
(3) 愛?とネットワーク
実は、96年に記事にしていただいたのも、このコンテンツ業界のファイナンスの話でありました。経済産業省では、その後も、業務として、LLPという法人形態の制度化や、信託法改正による信託業務の対象への知的財産の追加、プロジェクトマネージメント手法の業界への導入など、ファイナンスする側からの制度整備などを、ずいぶんと熱心に進めてきたつもりです。
信託法の場合、96年に着想してから、文化庁にご協力を頂き金融庁に法改正を実現していただくまで、10年前後の時間をかけて経済産業省あげてお願いを続ける時間を要しました。96年当時は、ようやっと有限責任投資事業組合が使えるようになった段階でしたから、それだけ、現在の資金調達環境の進捗には、目を見張るものがあると思います。また、こうした潮流を受けて、コンテンツ業界に対するファンドの組成や、それを念頭に置いたマーケティングコンサルといった業態も、ずいぶんと拡張してきたように思います。
しかし、現実を冷静に見ると、せっかくこうした外部環境の整備や新たなプレーヤーの参入が起きてきていても、コンテンツを中心的に製作している業界コアの部分に、その動きがなかなかつながっているように思えない。仕組みは整え、プレーヤーも出来たけど、でもやっぱり、コンテンツのコアのところつながらない。そんな反省が猛烈にあります。
他に表現する方法がないので、ちょっと恥ずかしい表現なのですが、僕の一つの結論は、やはり、この両者をつなぐためには、両者が共有できるコンテンツへの愛が必要だということのように思います。
コンテンツ業界が頑張ってファンド組成案件を作ったところで、現状では、あまり大きな額は組めません。そうなると、ファイナンスのプロ達から見れば、よしんば同じ利回りが確保できるとしても、ファンド一つ一つを回す手間暇がたいして変わらないとすれば、規模の小さいコンテンツのファンドにわざわざ手を出す必要はないでしょう。
それでもこの業界に投資が入ってくるのは、やはりコンテンツが好きだから、ということになるんだと思いますが、それだけでは、コアな制作サイドとはつながらないし、無理矢理つなぎ込んだとしても、なかなか結果が出せない。
ここは、本当に難しい。
やはり、クリエーター側とプロモート側の信頼関係や人のネットワークがつながっていかないと、単にドライなビジネスだけではどうにもならないのが、この業界の特徴のように思います。
今までは、この人のネットワークを、既存の流通媒体を基点に、きっちり秩序化していくことができたし、また、それだけの人的資産の積み上げを持っていたんだと思います。しかし、メディアの多様化は、ビジネスのハブも多極化させつつあるので、こうした人間関係のネットワークの構築を非常に難しいものにしてしまっている。むしろ、多極化によって、せっかく積み上げてきた信頼関係の輪が、バラバラにされ始めているような気がする。
ましてや、論理だけならまだしも、愛や信頼関係がベースにつなぐことが不可欠となってくると、ビジネスに必要な人脈や事業上のつながりを、従来の各メディアごとのヒエラルキー型の構図ではなく、多極型のネットワーク型の構造に組み替えるのは、本当に至難の業かもしれません。そこにどう応えていくのか、今後の議論が求められているように思います。
やや大袈裟に書きましたが、こうした議論には、次のような冷静な議論をはじめとした反論も沢山あると思います。
- 実は、国内のエンタメ業界は既に十分に成長しきっているだけなので、こんな難しい議論は必要ないのではないか。もし無理にコンテンツ市場を大きくしたいのなら、単純に海外展開だけを考えるべきで、国内はもっと別の視点の議論をすべきではないか。
- 業界の重心移動といっても、結局、制作側と流通側は、持つべきノウハウも知見も全然違う。多少、接点の取りようが変わるといった問題はあるのかもしれないが、所詮、大きな変化はないのではないか。
これらも、重要な指摘だと思います。こうした考え方も含めて、コンテンツ学会的には、是非一度、各メディア分野に共通の構造変化があるのかないのか、この重心移動の問題の視点などを取り入れながら議論していただければなあと、個人的に期待しているところです。
3.コンテンツ産業と他産業との連携強化
〜 トレンドセットとコンテンツ 〜
長くなってしまったので、出来るだけ簡潔に書きますが、もう一つ、コンテンツ学会でも是非深めて欲しい第二の話題は、コンテンツ産業と他産業との連携強化の方向性であります。
シンプルに過ぎる例かもしれませんが、ミシュランで紹介された道後温泉へのフランス人観光客は、ユースホステルベースで一年間で倍増の勢いで伸びています。同じく、金沢の兼六園は、一年間でアジアからの観光客が4割増です。ちょっと前になりますが、「ラブレター」という映画が韓国ではやった結果、アジアから小樽への観光客は、3年間で10倍に増えました。
女性ファッション誌のRAYが中国語版を発行したら、国内販売部数が4万部だったときに、75万部を中国で売り上げたと伺っています。また、上海とシンガポールには、本当に、「SHIBUYA」というお店があり、中身はほぼ全て、裏原宿トレンド系のファッション。街のファッショントレンドチェック用のサイトでも、NYやパリを差し置いて、裏原宿系の映像へのアクセスが群を抜いていると伺います。
残念ながら、このファッションの事例については、トレンドセットという前工程には成功しても、その次の後工程にあたる製造物の生産・販売の部分で、模倣品に毒されて回収し損ねています。そこは大変残念ですが、他方で、同時に、日本のコンテンツのトレンドセット力の凄さも、実感させられます。
ちなみに、今年で9回目を迎えた、パリで行われているJapanEXPOは、入場者数が12万人を記録したそうです。これは、かの有名な、フランスのカンヌ国際映画祭の入場者数の約半分に上ります。フランスの例は、やや極端かもしれませんが、でも、凄いものだと思います。
情報の質とコンテンツ 〜経験価値経済の時代へ〜 というエントリでも、くどくどと書かせていただきましたが、これからは、家電製品をはじめとしたものづくりの世界も、その製品の性能や品質の良さだけでは、なかなか利益があげられない時代になると思っています。
技術者がその粋を集めて、軽い、早い、長持ちといった家電製品を作っても、それだけでは、すぐに価格競争の波に飲み込まれてしまう。結局のところ、そのものを買うことで、何が経験できるのか、どういう生活や時間が手に入るのか、そこが無ければ、商品の機能や性能だけで高付加価値性を維持するのは難しい。そうなってくると、「みんなも持ってます」「みんな買いましょう」的なマス広告ではなく、「今だけ、ここだけ、あなただけ」といった、個人の感性を刺激し経験価値を訴えるサービスが、とても大事になってくるのではないでしょうか。
現在、コンテンツ産業の売上統計の中には、ファッションや、観光や外食といった産業、スポーツや娯楽産業といった市場の売り上げは、厳密に切り分けて組み込まず、雑誌まで、放送番組まで、といったように狭義に整理しています。
統計をどうするかは、また別の問題ですが、こうした他の産業の成長力を高めるようなトレンドセット力、それを活用した他産業との連携強化は、コンテンツ産業ならではの将来の可能性を秘めた市場ではないでしょうか。
いわば、従来のエンターテインメント中心のコンテンツ産業がToCの市場だったとすれば、ビジネスを直接顧客とするToBの市場に、今後、大きな可能性が出てくるのではないか。そのように思うのです(最後は、こちらもBtoBtoCということだと思いますが・・・)。
* * *
以上、ぐたぐたと述べましたが、ことコンテンツ学会に関しては、せっかく中立的な立場を堅持した学会が、若手の学者先生や学生さん達の力を基点に立ち上がろうとしている。素晴らしいことだと思います。個人的に学会に期待するものは大きいものがあります。
ただし、行政としては、過剰に入りすぎないようにすることが大切だと思っています。そこは心して取り組まないと、道を誤るのではないかと。(苦笑
是非、色々な方の問題意識をうまく吸収しながら、良い議論の場を、論壇を、また若い人達がコンテンツ業界の力に関心を持ってくれるきっかけとなるような場作りを、コンテンツ学会が進めていってくれることを、期待しています。
・・・
ということで、今日は、そんなようなご挨拶をさせていただきました。杉山先生にご挨拶できなかったのが心残りですが、懇親会まで含めて、大変楽しい半日でした。