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情報の質とコンテンツ  〜 経験価値経済の時代へ 〜

2008/09/08 00:35
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 ちょっと前の話になりますが、都内最大の酒販卸事業者の方に話を伺う機会がありました。その時、「フランスのシャンパンの卸問屋がけしからん!」と、大層怒っていらっしゃったので、「何でですか?」と伺ったところ、3万5千円の卸値を、急遽10万円に引き上げられたという。「そりゃまた、何で?」と伺ったら、フランスのシャンパン卸問屋さんは、「『原価+利潤』という発想を変えて欲しい。」と言うんだそうです。「そりゃまた、何で?」としつこくお伺いしたところ、その問いに対する先方の答えは、

     「シャンパンは文化である」

というお答えだったとのこと。へえ〜〜〜。そうして、ある日突然、仕入値が引き上げられたのだそうです。

  これって、ちょっと象徴的な話だなあ、と思いました。今日は、そういう値付けの仕組みの変化から、情報の質というお話を。

 

1.趣味の世界の一般化

 

 シャンパンの卸値が3倍に引き上げられるのは、まあ極端な例だとは思いますが、ワインの値段は、結構激しく変動しますよね。ビンテージの良いロマネコンティなんて、それこそ、100万円以上するものがあるし、市況が変われば、それが300万円以上にあがったりすることもある。その代わり、ビンテージの良くない年は、ロマネといえど同じ値は付かない。そこは、厳しく選別されるんだと思います。

 ある意味、ユーザの目が肥えていれば、素人には思いつかないような高い値段も付きますが、その代わり、悪い条件があれば、厳しく選別される。僕のような素人が飲めば、セカンドラベルでも十分に美味しく、下手をすれば本物とセカンドラベルの区別すらつかないおそれがあるわけですが、プロ級のユーザがいれば、そこは厳しく選ばれる。値段も、天と地ほど違う。

 残念ながらワインは素人なんですが、オーディオで良ければ、もう少し当事者的に似たような感じを持ったことが自分にもあります。当時は、毎月、レコ芸や月刊ステレオを読み(といっても、お金がないので図書館だったりするんですが)、今は亡き長岡鉄男先生の講釈を読みながら、妙にスピーカーの測定結果のインピーダンスの数値などに詳しくなってみたり、アキュフェーズやリンの30万〜50万円クラスの高級アンプの記事を見ては、ため息をついていたりしていました。こういうのって、機種名や価格を妙に覚えてしまったりするものですよね。

 でも、じゃあ、自分が実際に、アキュフェーズの高級アンプと、例えばDENONの中級機種とを聴き較べて音の違いが分かるかというと、当時の僕では、おそらく全く分からない(たぶん、今でも分からないし、実際、個人的に所有しているアンプはDENONの中級機です(苦笑))。でも、自分の中でも最初から、高級機は30万円以上するものだし、中級機は10万円前後で買えるものだという相場観が出来上がっている。市場でも、そういうものだという評価が定着している。後は、長岡先生はじめ諸先生方に酷評されれば、値段が下がるのではなく、店舗に並ばないだけ。値段は、市場に出る前から決まっている。

 こういう高級AV機器が「原価+利潤」という考え方で値段を決めているかというと、おそらく、そういう次元は超えている。最初に、プロ級のユーザの世界があって、そこで通り相場が形成されており、市場に出る前から、製品開発や出荷待ち在庫の時点で、値段と評価は決まっている。もちろん、出る製品の方も、その値段に恥ずかしくない最低限の機能は持っていなくてはならないのですが。

 こうして考えてみると、趣味の世界、プロの世界では、ものの値段が、市場に出てくる前に、おおよその相場観として決まってしまっている。ユーザも、単純にそれを機能として較べることはせず、自分のそのものに対する思い入れまで含めて、いくらが妥当かを考える癖がついている。 

 実は、今、こういう値付けの世界が、プロや趣味の世界を超えて、急速にあちらこちらに広がっているのではないか。ものの値段は市場に出ているモノの需要と供給ではなく、その評判やトレンド作りによって、既に市場に出る前の在庫状態の時点で、値段が決まっているようになっているのではないか。

 趣味の世界における値付けが、一般的な消費の世界に広く広がりつつある。だから、ワインやシャンパンの世界にも、そういう需要や情報が大量に流れ込み、全体的に、底上げが起きる。例えば、高級ワインは従来から趣味の世界があると思いますが、少なくとも、普通のシャンパンがそんなに極端に高い値を付ける世界はなかった。それが、嗜好型消費をしたがる、さほど詳しくないユーザが大量に市場に流れ込んできた結果、シャンパンの市場まで「原価+利潤」の相場を離れた値付けが起こり始めた。そのことを敏感に察知したフランスの卸問屋さんも、「シャンパンは文化だ」、そんな風に言い始めたのではないでしょうか。

 

2.消費価値経済から経験価値経済へ

 

 こうした変化を一言で表現すると、 「消費価値経済」から「経験価値経済」の時代とでも言えるのではないかと思います。

 ものの消費自体に目的があるのではなく、ものを消費するプロセスを通じて何が経験できるかが問われる。最後は程度の問題なので、両者の区別を厳密に定義することは難しいと思いますが、ここで大切なのは、製品の品質や性能そのものではない。それを使う自分の時間に対していくらを支払うか、そんな感覚なのではないかと思います。

 例えば、高級AVアンプの世界は、「原価+利潤」ではなく、高級AVアンプをたしなみ、楽しむ人達が、その趣味の時間にいくらのコストをかける気があるかで決まる。そういう趣味人がいる限り、メーカーは最初から、その価格にあわせて商品を提供するし、贅沢な作り方が許される。

 自動車の値付けも、軽自動車やリッターカーでは、とにかく価格帯性能比が徹底して求められる。でもレクサスクラス以上になってくると、その車に乗ることで得られる時間、ステータスなどが目的となり、性能・品質は、それを実証するための手段でしかなくなる。極論をすれば、高い車であること自体が目的となる市場がある。

 100円ショップが無くなるわけではないし、消費価値経済が日本から消えるわけではないと思います。また、世界全体を見れば、むしろBRICsは、これから消費価値経済の本番を迎えることになる。インドのタタが発表した「ナノ」は、まさにその典型。かつてのカローラやスターレットを思い出させるような世界ですよね。

 でも、日本では逆。例えば、生活必需品である食料をみると、確かに、スーパーが日々作る安い・うまいの世界が引き続き中心ではありますが、他方で、「大地を守る会」、「OISIX」といった良い野菜を高く売る市場ができ始めている。筆記用具なども、廉価なシャープペンシルやボールペンが強さを残しつつも、少しづつ、いつかは万年筆といったユーザも増えてきている。ファッション市場でも安いだけでは売れない市場が徐々に増えてくるし、カメラも高級一眼レフを一般の方が手にするようになる。

 こんな形で、従来価格弾力性が低いと思われていた生活必需品や、趣味人以外手を出さないと思っていた市場で、高級嗜好品と一般用品との境界線が融解し始めているのではないでしょうか。僕は、こうした変調を、「経験価値経済」へのシフトと考えています。

 「経験価値経済」という言葉は、まだ一般にはあまり流布していません。しかし、こうした議論自体は、マーケティングの世界ではある程度常識的な議論になってきているように思います。有名なところでは、「経験経済」(B・J・パイン、J・H・ギルモア著)という本があり、経験価値を基点に、様々な議論を展開しています。最近では、日経リサーチさんも、経験価値の数値化を試みて、こんな調査を公表していらっしゃいます。「老舗ブランド企業の経験価値創造」(長沢伸也)という本もあって、松栄堂さんなどをとりあげていらっしゃるようです。

 

3.企業の価値観の変化と提供する「情報の質」 

  

 こうした経験価値経済で市場をリードするのは誰か。ポイントは、趣味人の世界がもう少し一般的なユーザに広がっていくプロセスを誰がリードするか。どうすれば、特定の人の経験価値をヒントに、色々な人が色々な経験価値を創造し始めるか。

 もちろん従来型のマス・マーケティングも全く無効になるわけではありません。しかし、それだけでは辛い部分がある。作り手だけが発信する情報は、こうした経験価値経済時代には通用しにくい。マス・マーケティングというのは、基本的に作り手側に売りたいものがあって、それをマスに対してアピールしていく世界が中心だと思いますが、こうした作り手からの発信だけでは、作り手は、性能や価格をコントロールすることはできても、それを利用するユーザの経験値はコントロールできない。でも、顧客は、先行するユーザの生活を見て、その商品の経験価値を判断するわけでですから、一方通行的なマス・マーケティングだけでは満足できない(双方向性ということで言えば、最近は、カンバセーショナル・マーケティングみたいなコンセプトも出てきているみたいですね。)。

 ポイントは、経験値まで含めて、その製品やサービスに関する情報を誰が束ねるか。その分野について、作り手側の事情からユーザ側の評価や、どういう人がユーザなのかも含めて、奥深い部分まで含めた全体像を、誰が束ねて整理してくれるのか。どのような形で、その世界の世界観を伝えてくれるか。その部分にかかってきているような気がします。

 情報を束ねた人が、値付けをリードする。関連する情報を先に握った人が市場をリードする。近代経済学の教科書は、製品自身の需供バランスによる価格決定理論を教えてくれたわけですが、今や、ものの値段は、市場に出てくる前の在庫の段階で決まっている。需給というよりも、どういうことが経験できるか、どの経験にどのような価値があるか、ユーザの生活におけるその経験の付加価値の事前評価作りによって、そもそも、その製品・サービスの値段の相場観がある程度決められてしまっているのではないかと思います。少なくとも、そういう売り方を考えないと、コモディティ化を進める商品を巡る厳しい価格競争と利益率の下落の前に、企業は、次への投資指針を失いかねない状況になってきてるのではないかと思うのです。

  この情報の束ねに大きな役割を果たしているのが、ITです。Googleの検索結果が企業価値評価に影響する、山のようなユーザの声があっという間にサーチできる、そういう環境の中で、米国はもう一度、製品やサービスの市場で、その巨大な内需も背景としつつ、大きな影響力を回復している。

 逆に言えば、こうした状況の中で、日本の多くのメーカーも、自分自身でコントロールできなくなった市場の行方に焦り始め、急速に自信を失い始めているような気がします。

 2003年に原研哉さんが出された「デザインのデザイン」という本の中に、次のような一節があります。

「メーカー」という企業形態に変化が出始めている。これまで「メーカー」は製品を製造し、流通させ、販売することが事業であった。自動車メーカーはクルマを生産し、時計のメーカーは時計を生産しこれを販売する。メーカーの創業に関しては、良いクルマを作りたい、良い時計を作りたいという創業者の思いからスタートしたものも少なくないはずだ。しかし企業が業績を上げ事業規模を拡大し、担う経済が大きくなるにつれて、ものづくりに対する熱い思いだけではすまなくなる。すなわち事業性が企業の存在意義となる。事業というのは収益を上げること。企業のみならずその企業に投資している株主などにいかに高い利益をもたらすことが出来るかが企業の目標になる。・・・(中略)・・・資本主義というのは、こうした「マネー」あるいは「富」を手に入れるためのワールドルールのようなものである。そういうルールが、事業を興したり収益を上げたりすることに非常に長けた国によってコントロールされ、世界に拡げられようとしているのがいわゆるグロバーリゼーションである。本来問題となるべき経済格差をむしろ前提条件と見なしてそこに利益を生む構造を持ち込もうとする。おそらく未来においては糾弾されるであろう不平等な時代・社会の中で僕らは今、生きている。日本はそういう力に押されて翻弄されつつも、先頭集団に遅れまいと食い下がるマラソンランナーである。

 なかなか厳しい文章です。しかし、経験価値経済に太刀打ちできずに迷っている日本のメーカーの置かれた立ち位置を、非常に正確に予言している文章だと感心してしまいました。事業性を重視すれば、気になるのは、マーケティング。マーケティングといっても、行うのは、市場の正確なスキャンです。でも、今本当に必要なのは、そのことなんでしょうか?

 好きなモノを作って先手を打とうとすれれば、事業性が危うい。事業性を追求して方程式にしたがえば、結局、後塵を拝する。誰にとっても方向性の見えているものもないわけではないけれど、そうなると今度は、投資体力勝負。金融力勝負。しかし、これが本当に、我々が目指すべき競争なんでしょうか。

 ここで、原研哉は次のような主張を展開します。

問題は、いかにマーケティングを精密に行うかといことではない。その企業がフランチャイズしている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを同時に意識し、ここに戦略を持たないと、グローバルに見てその企業の商品が優位に展開することはない。これが問題なのである。ブランドは架空に出来上がるものではなく、やはりそのフランチャイズとなる国や文化の水準を反映している。

 こういって、彼は「欲望のエデュケーション」が必要だと言います。クルマの市場では、レクサスが孤軍奮闘していますが、靴、オフィスファーニチャーにしても、日本の市場の水準はまだまだです。逆に、寿司なら、攻守は逆転するでしょう。

 今こそ、日本の近代が分離してきた産業デザインと文化デザインの再融合が必要なのではないか。産業デザインを擁した日本製品の成功が、技術過信主義を生み、国内市場を非常に受動的な市場に育ててきてしまったおそれはないでしょうか。日本人独特のきめ細かさ、潔癖主義などは、安全・安心、品質の高さなどである種の世界に発信できる価値観を育ててきましたが、その向こう側には、生活価値がなかった。生活そのものがプアなまま、その欲望の水準を上げることに失敗してしまった。

 早すぎる技術進歩が、欲望の好循環を埋め尽くしてきたと思ってきたのに、実は、日本人の生活そのものに、あまり大きな変化も進歩も無かった。IT革命に対する虚無感のようなものも、そんな、技術進歩に対する生活リアリティの欠如が生んでいるような気がしてなりません。原研哉は、同書でこうも表現しています。

誤解を恐れず直言するならば、テクノロジーはもっとゆっくり、じっくり進化すべきであった。時間をかけ、試行錯誤を経て熟成された方が良かった。過度な競争に狂奔して不安定な土台に不安定なシステムを接ぎ木し、それを反復することで進化した様々な基幹システムは、不確実で破綻しやすい体質を持ったまま走り出し、その走りをとめられないまま疲弊している。・・・(中略)・・・そういう状況に対処していく思想や教育が間に合わないまま、いたずらにはびこるだけのものづくりやコミュニケーションは美しくない。

 では、こういう時代に、欲望の水準を上げていく鍵は何か。第一に、大量の情報を束ねることで、今見ている市場とは別の見え方をする市場があることを見せることが必要だと思います。これはクラウドにつながるような世界ですね。

 まずは、作り手・ユーザ双方の動向を見据えた特定の嗜好の母集団を、ある程度統計的に正確に掴めるような情報の束ねを行うことが必要だと思っています。これをまずは見せないと、特定の人による趣味の世界が、大きな広がりを持っていかない。ないしは、マスマーケティングによって消費される一過性のブームに終わってしまうおそれがある。

 そして、第二に、その世界の奥行きを表現するため、発信する情報の質を高めていく作業が必要ではないかと思います。原研哉の言葉を借りれば、ネットを飛び交いモニターに再現されうるようなラフな情報ではなく、諸感覚を総動員して関知するにたる情報の「質」の複雑さと奥行き。そういうものが求められていくような気がします。

 もちろん、こうした情報の質をテクノロジーの側も追いかけ続けていくと思います。バーチャールリアリティの分野で、ハプティックな感覚に関する研究、すなわち、触感を中心とした繊細な感覚に関する研究が話題を集めているのもその一環だと思いますし、このブログの最初の方でご紹介した、Tokyo Fiber'07も、同じ路線かもしれません。

 ただ、こうした技術の成熟を待つまでの間、やはり重要なのは、既存の技術でも表現できるリアルの世界ではないでしょうか。特定の媒体や、ネットばかりを見るのではなく、リアルの世界をもっと重視する。リアルの空間の編集能力、リアルで経験できる五感への刺激、そうしたものを積極的に活用して、伝える情報に奥行きを回復することが大事になってくるのではないでしょうか。僕は、まさに、この部分が、今後一番市場としても成長が期待される「コンテンツ」市場だと思いますし、その「コンテンツ」の奥行きの深さが、日本経済の成長余力を決めていくような気がしてなりません。

 

        *       *        * 

 

 例によって長文になってしまったので、この辺で、いったんうち切りますが、情報の束ねとITインフラ。情報の質とコンテンツ。この二つのテーマには、今後しばらく、折りを触れて拘っていきたいなと思っています。これが、「知識組み替えの衝撃」(この分野にご関心のある方、是非ご一読くださいませ)を踏まえて、変わっていくべき日本経済の大きな指針となるような気がするからです。

 次回にすぐ、この話題を続けられるかどうか、余り自信ありませんが、とにかく、間をあけすぎないようにエントリを出しつつ、これらの問題にも着実にリーチできればなあと、思っています。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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