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iPodには何曲貯めるべき? 

2008/06/02 00:16
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 今回は、「iPodに何曲貯めるべきか?」、ということをネタにエントリを作ってみたいと思います。

 これまでのエントリでは、どちらかというと、iPodについて、携帯デバイス、音楽、通信といった異分野融合の観点を前に出してきたのですが、実は、もう一つ、従来の携帯音楽端末とiPodをわける大事なポイントがあるのではないかと思っています。それが、この、ユーザがiPodに入れる楽曲の数の問題です。

 情報は、ある閾値を超えて大量に保存すると、次元の違う別の効用を示す。そんな話をしてみたいと思います。

  

1.iPodに何曲貯めるか

 

(1) CDの背表紙の向こうにあった曲が飛び出してくる

 iPodユーザは、自分のiPodに平均何曲程度の音楽データを入れているのか。ちょっと興味がありませんか?今iPodのお持ちの皆さんは、だいたい何曲程度入れていらっしゃるのでしょうか。僕は、かなり多くの方が、1000曲以上、入れているのではないかと思っています。

 ちなみに、iPodの機械的な容量の方はというと、最新のiPod Classicでは、160GBの容量で40,000曲、ノーマルの80GB20,000曲入るようですから、1GBのShuffle(240曲)や4Gのnano(1000曲)を別にすれば、音楽だけでiPodのメモリを使い切るのは、なかなか大変なことではないかと思います。 

 僕の周りにもiPodのヘビーユーザはたくさんいますが、実は、多くの人が、iTunesとは余り関係なく、自分のCDから音楽データを山のように移してiPodを楽しんでるような印象があります。もしiTunesと関係ないんだったら、どうしてiPodなんだろうか。従来のデジタルウオークマンでも良いんじゃないか。若しくは、CDをそのまま再生すれば良いのではないか。実は、そこも、一つの鍵かなと。

 僕の個人的な考えですが、それが、この曲数の問題なんじゃないかと思うんです。iPod自身が、ユーザに大量の曲を入れる気にさせる仕組みを持っている。だって、あのCDラックに並んでいる背表紙をみるしかなかったCDの世界が、突然、生の音楽データとなって、持ち歩ける手元の端末から、自由に、ランダムに音楽を吐き出し始めるんですよ。しかも、ランダムに出てくるばかりでなく、最近再生した曲、最近追加した曲、90年代の曲、色々な設定が出来る。

 また、それを可能にするために、それぞれの楽曲に付すべきタグ情報もiPodがネットから自動的に取ってきてくれる。タグ付けのすんだ大量の音楽データが手元に簡単に持って歩ける。そこで「シャッフル」モードで再生すれば、自分は、こんな曲が好きだったんだ。そうそう、この曲はこんな時に聴いたんだ。そんな、聴くたびに自分そのものに対する発見も呼び起こしてくれる。

 あのCDラックで背表紙を向けていた大量のCDの中の楽曲が、突如手元に出てきて、リアルに踊り出す。これは、嬉しいですよね。   

 

(2) 音楽空間が広がる

  iPod成功の一つの鍵は、この、山のようなタグ付けされたデータが、個人のライブラリとして簡単に作成できてしまう、その尋常でないライブラリの量の多さにあるのではないか。

 逆に言えば、せっかくiPodを買っても、数十曲入れるだけだったら、あんまりiPodでなくてもいい。MDを入れ替えながら使っても良いし、ポータブルCDプレーヤでCD入れ替えながら聴いたた方が、それこそ音もいい。ちょっと見慣れないあの操作画面にわざわざ慣れる必要もない。数十曲程度なら、タグ付けも自分で丁寧にやればいい。

 でもiPodの場合、とにかく、乱暴に、右から左へとiPodにデータを放り込む。iPodが認識できる曲は、タグ情報までiPodの側で勝手に持ってきてくれる。そして、ユーザは、まず、シャッフルで自分の音をきく。これまで自分が買ってきたCDや音楽というものに、改めて耳を傾ける。ちょっと大袈裟な表現とは思いますが、この体験は、もう、一本一本のCDやレコードを、そのたびに選び抜いてプレーヤーにかけて聴く、という行為とは、異次元の体験なのではないかと、思います。

 もちろん、これまでも、こうした自由な音楽空間を楽しむことが不可能だったわけではありません。特に、相当プロな方、音楽の世界に通じた方は、CDの背表紙をみているだけでも、ロックが頭にこだまし、バーンスタインの指揮棒を振っている姿が瞼に浮かび、若しくはBugglesの80年代の流行を先駆けたビデオクリップが脳裏に蘇るなど、自由自在に音楽空間を渡り歩くことができるのだと思います。そして、その時聴きたいと思った気分のCDを手に取ればいい。

 しかし、こういう音楽体験は、その道に通じて、知ること、聴くことに相当の努力を積み重ねたヒトだけに許された贅沢だった。もちろん、iPodだって、プロの鑑賞と同じ楽しみ方の次元に到達するには、相当の努力がいると思います。でも、そこまでやらない人でも、買ったときに聞いてお終いになっていたCDの山を、もう一度蘇らせて、相当程度、自らの音楽空間をぐっと押し広げることができる。そういう新たな生活空間の創出効果があるのではないか。

 

(3) マニアな世界

 こういうマニアな集積が待ち遠しい、ということでいえば、他にも良さそうな例はたくさんあると思います。

 例えば、僕は車が比較的好きな方なのですが、ヒストリックカーから現代の車まで、メーカーなどに関係なく、車情報が大量に保存されていて、自分の思い入れにあわせて内容をカスタマイズできるサイトがあったら、自分は、はまってしまいそうです。

 1963年に登場したアルファロメオのジュリア・スプリントGTの真っ赤なボディ映像が出てくる、1964年に鈴鹿サーキットでスカイラインGTがポルシェを抜いたあの伝説の名場面の写真が見られる、フェラーリDino246GTの美しい車体のディテールについてリアルな映像が出てくる、なんてことが自由に出来るサイトがあって、それをポータブルに持ち歩けるとなったら、僕自身、相当入れ込んじゃうかもしれない。ちょっと欲張りですけど、そこにこっそり、ニューモデルマガジンXの特ダネなんかがリアルタイムで更新されて加わってきて、例えば、フェラーリDinoの復刻ニューモデル版が2010年に販売されるという噂がある、なんて情報までついてくるなんてことになったら、ついつい仕事をさぼって、見入っちゃいそうですよね。

 もっといえば、自分は結構本を買うのが好きで、話題の本を買ってきては、積み上げたり、本棚に並べておいたりして、悦に入っている質なのですが、もし、その積み上げて眠る本の前書き・後書きや目次だけでも、自由にデータとして出てくるような蔵書ブラウザ(若しくは読んできた本の読書ブラウザ)があったら、便利ですよね。

 本棚に本を並べて自己満足してるだけじゃなくて、そのとき欲しいキーワードが大量の蔵書の中から自由に呼び出せて、そうそう、この本のこの辺の、あのフレーズなんだったかなあ・・・なんて時に、ぽんっと、デジタルで手元に出せたら、相当にすごいな、と。それが自分が買い貯めた本という、自分の行為と思い入れが交錯した蔵書でできるとなったら、これはもう、手放せないなと。

 もちろん、王道は、全部きちんと読んで勉強して、学者先生のようにしっかりと自由に呼び出し使いこなせる知識ストックを大量に持つことです。でも正直、仕事だ何だとやっていたら、とても無理な面がある。例えば、本のデジタル化も、ビューやペーパレスの問題だけじゃなくて、こういう情報整理の実需に応えるようなiPod的転換を果たしてくれたら、もっとみんな食いついてくるのではないか。本棚に並んでいる背表紙の向こう側の情報の世界が、リアルに飛び出してくる世界が作れる。もちろん、そんな簡単な話であるわけがありませんが、でも、もしそういうツールが出来たら、学者先生の領域には遠く及ばないとしても、日本全体の知的水準の向上は、相当程度貢献できるのではないでしょうか。

  

2.情報の足し算と情報の積分

 

(1) ある閾値を超えた情報の束

  ここで、情報を大量に貯める、ということに意味を、もう少し別の側面から整理してみたいと思います。実は、今議論しているのは、情報はおそらく、山のように貯まることで、ある違う効果を持ち始める。そういうことではないかと。

 もちろん情報をリニアに足しあげることに意味がないわけではありません。しかし、ある限界点を超えて、山のように積み上がることで、その情報の束は、全く別の表情を見せ始めるのではないかと思うのです。

 例えば、iPodも、貯めている楽曲が数十曲で、タグ付けされている曲の数が稼げないうちは、別にこれまでの携帯音楽端末と何ら変わらなかったんだろうと。それが現実的に1000曲単位でユーザも貯めることができる環境が整って、全く別物になった。数十曲の音楽データと、1000曲レベルの音楽データ。この違いは、何か質的に違う感じがする。

 例えば、日々のスケジュールデータをデジタル化して、しっかり管理する。ある商品の生産履歴をきちんと追いかけて、販売する時点でトレーサビリティを確保しておく。工場の生産ラインの動きをデジタル化して、いつでも補足できるようにしておく。それぞれはとても大事なことです。でも、これだと、リニアな変化。積み上げるといっても、大した情報量ではありません。

 iPodの世界にたとえれば、iPod以前の段階から、綺麗にMDに好みの曲を整理し、ライブラリのデータベースを作り、若しくは常に丁寧にCDラックを整理して、いつでも好みの曲が探しやすい状態にしておいた世界。この状態に近いような気がします。

 ところが、これが、どういう形でもいいですけれども、もっと滅茶苦茶な量で貯まり始めて、自分の思いもよらないような発見がそこから引き出せるようになったとき。例えば、商品単位に生産履歴を見るのではなく、数百とあるある企業の商品の生産履歴が一度にみれるようなデータベースができる。また例えば、世界中の工場の生産ラインの状態をいっぺんに社長室に集約し、その様子が一目でモニタリングできるようにする。

 そういう風に、足し上げるにしても、その情報量がある閾値を超えて圧倒的な量に達して、かつ、それを集約してみることの出来るユーザーインターフェースやブラウザとセットになったとき、ある意味、情報の足し算が情報の積分のようになったとき、その情報の束は、バラバラだった事態とは全く別の意味を持ち始めるように思います。

 

(2) 積分した情報の束で成功した事例

 例えば、iPodも、携帯機器としての性能や品質だけじゃなくて、数千曲の単位で、タグ付けされたデータを一挙に処理できるインターフェースと、その作業を各ユーザがやれるようにしてあげたiTunesともセットになったインフラを必死になって考え、作り出した。だからこそ、これまでのCDコレクションとは全く別の意味を持った情報の束に、各ユーザが持つ音楽データの束を変質させることができたのではないか。

 また、Amazonも、あの本のリコメンド機能は、当初は、余計なお世話だとか、怪しいとか、色々なことをいわれてきた。でも、リコメンド機能のためのバックデータを、時間をかけて山のように積み上げた。その結果、今や他ではなかなか真似の出来ない一つのサービス基盤になった。その結果、Amazonは、おそらく単なるネット通販ということを超えて、各ユーザにとってカスタマイズされた本屋空間という新たな地平を切り出そうとしているのではないか。

 Googleも、検索サービスを提供しているうちに、山のようなホームページデータをただひたすらクローリングして集積すること自体の意味に気づいた。大量の情報を貯めることの意味そのものの重要性に気づいたからこそ、Google Earthをはじめとする、別のデータの集積に対しても、情報を集積させること自体に躊躇無く投資価値を高く見いだせる企業になった。大事なのはテクノロジーより処理すべき情報。逆に、テクノロジーそのものから発想するのではなく、そこを基点に必要なテクノロジーを追求したからこそ、マイクロソフトとは全く違った、また、グリッドコンピューティングと先に言い出していた人たちとはまた違うアプローチで、世界中のネットワーク自体を自分のコンピューティングインフラであるかのように使う新たな技術の方向性にも気付いたのではないか。

 YouTubeも、やはりすごい。もちろん、にこにこ動画も凄いと思いますが、若干、コンテンツそのものというよりも、ユーザ同士が互いのつながりを確認するために、その手段として使われている面が強いような気がする。その点、YouTubeは、コンテンツの集積勝負。話題になるようなショートクリップを、しっかり持っている。ちなみに、今年、YouTubeとFaceBookの合計ページビューは、YahooとGoogleの合計ページビューを抜いたらしいですね。変わった言い方をすれば、もはや、検索サービスだけだったら、ネットサービスの主役はとれなくなっているのかもしれない。ちょっと極端かもしれませんが、世界は、大量の情報をどうやって集積するか、出来ないか、といった次元ではなく、集積する情報の束の中身をなににすべきか、そこを競争の対象とし始めている。

 こんな風に、ある閾値を超えて情報が集まり出すことの異次元の意味というのは、理解してこれるのではないかと思います。

 

(3) 山のような情報とブラウザ

 さて、もう一つ、この山のように貯められた情報の束を積分にたとえる意味を説明するため、別の側面から、ややかわった仮想事例を出してみたいと思います。

 例えば、経済産業省には100を超える課があります。仮にですけれども、各課の課長さんの心拍数の高低を、赤青黄色でリアルタイムで一つの画面でまとめて表示できるような、組織活力ブラウザを作ったらどうでしょう。

 縦軸に、全部の課の名前を官制順に並べる。横軸に24時間の時間の流れを配置する。それを、課の名前なんて最後見えないくらい小さくなっていいから、とにかく、一つの画面でスクエアにそれを表示をしてみる。そうすると、今経済産業省の中の、どの課がどう仕事で緊張した局面を迎えているか、どの変の課が落ち着いているのか、組織全体の息づかいが、なんだか見えてきそうですよね。

 もちろん、これはたとえ話で、別に仕事と関係なくても心拍数は増減するでしょうし、管理職とはいえ、ヒトの心拍数を勝手にとって開示するなんて、という問題もあるし、実現可能性を真剣に考えて申し上げているわけではありません。しかし、もし一枚の画面の中で、組織の活性化や緊張度が一覧できて、そのブラウザを起点にして、各組織の現状がのぞけたら、とても便利じゃありませんか?それが日本全体で見えるようなものになるんだったら、もっと欲しくありませんか。ブラウザということの意味を理解するには、面白い例なんじゃないかと思うんです。

 例えば、各課の現在の業務状況をいくら説明して貰って、その説明を足しあげても、経済産業省という組織の状態は、複雑すぎて、余りよく見えてこない。でも、心拍数という"dx"を切り口に各課のアクティビティを積分してみれば、ある種の組織の活動状況が見えてくる。逆に微分的発想で、組織活力ブラウザで赤く点滅している心拍数の高い課にフォーカスして、その心拍数の増減理由をミクロにのぞき直せば、組織の中で起こっていることが見つけやすくなる。

 経済産業省という組織の実在は、各課の今起きている業務と繋がっているはずです。でも、各課の業務説明だけいくら積み上げてお、組織全体がなんなのかということは見えてこない。もちろん、心拍数だけで全体が見える訳じゃありませんけれども、ある切り口から、情報を山のように積み上げて、それに一覧性を持たせると、組織のある側面が見えてくる。そういう積分的展開を持ち込めると、全く新たな整理が出てきて、ある全体像が見えてくる。

 この辺の発想を、同じように、情報という切り口全体に拡げてみてみた場合、情報も山のように積み上げて、足し算的限界を超えたときに、別の次元の情報の束に変質する、それをまた、いろいろな切り口から割り出して微分してみると、全体の束が、どういう性格の束なのかが、部分が見えてくる。例えば、自分が潜在的に持っている音楽空間、自分が持っている読書空間、そういうものの全体像が見えてくる。逆に、ある切り口からミクロに微分していけば、特異点となるような音楽や書籍が何だったのか、自分自身のミクロの質が見えてくる。こういう発想につながっていけるような気がするのです。

 

(参考) 田邊元の「種の論理」

 こうした発想は、当然ですが、僕のオリジナルではありません。そのものズバリではありませんが、一つの発想の元ネタは、京都学派で西田幾太郎の時代のもう一人の論客、田邊元先生の「種の論理」という思想です。

 微分的思考そのものは、ライプニッツ、カント、コーエン等々と、思想的に長い議論の系譜があって、田邊先生の専売特許というわけではもちろんないようですが、個人的には、その議論を踏み台にしつつ、全体の束(類)と個々の要素(個)との関係をダイナミックに整理したということでは、田邊先生の「種の論理」の論考が、もっともすっきりしているような気がします。

 原書を読むのはとても難しいという感じでしたが、中沢新一先生が、「フィロソフィア・ヤポニカ」という比較的わかりやすい本(それでも、哲学慣れ若しくは社会思想慣れしていないと読むの苦しいですが・・・)を2001年に出されています。ご関心を持たれた方には、是非、一読をおすすめいたします。この本は、もっと広く読まれていい本のように感じています。

  

3.情報の積分の作り方

 

(1) 事前の設計主義

 じゃあ、こうした情報の集積はどうやったら起こせるんでしょうか。これが、結構難題です。

 ある閾値を超えた情報の集積の束は、こういう風に情報が貯まると、こういう風に面白い、役に立つ。そういうユーザの個々の気づきの積み上げがあって、はじめて積み上がり始める。そういう意味で、非常に経路依存性が強い性格を持っているのではないかと思っています。

 例えば、iPodの機能って、できあがったものを後から見てしまえば、どれも技術的に難しいモノは全くありません。教えてくれさえすれば、iPodより数年先に、日本のメーカーでもできたはずです。もっといえば、携帯音楽端末機メーカーでなくても、日本の通信インフラ企業でも、類似のサービスは提供できたと思います。着メロの世界も、もう少し別の発想で攻めることが出来たかもしれない。携帯には、ライブラリにしてしまうという発想は、余り無いですよね。大事なのは、その時、その場の自分という空間の演出。

 日本のメーカが得意とするのは、事前設計主義的なアプローチ、すなわち、計算され尽くした技術と品質で一発勝負する。そういうアプローチのような気がします。実際、かつての耐久消費財の世界がそういう市場だったから、当然といえば、ある意味当然だと思います。

 しかし、この経路依存性の強い市場では、そのやり方では、なかなか成功が掴めない。というのも、個々のユーザの思いを積み上げるように獲得していく、それを柔軟かつ継続的に追いかけ続けるプロセスそのものが、この市場では、非常に大きなバリューを持っているからではないかと思います。だからこそ、サービスが共通に必要とするような技術の設計は、実際に顧客を追いかけ掴もうとするサービス事業者そのものが取り組まなくてはいけない。

 もちろん、iPodにだって、事前に仮説があって、全体構造設計のイメージを作って市場に製品を出しているわけですから、事前の設計可能性が全くないわけではありません。でも、少しづつスペックアップしながら、一歩一歩、確実にユーザを取りに行っている。全体の構造設計が、将来の拡張性を見据えた抽象度の高いモノになっている。それが故に、たとえ個々の部分部分の性能では劣るところがあっても、ユーザを増やしに行くときのパスのイメージがしっかりしているから、同じ基本構成のまま、次々と新たなコンテンツを取り込んだり、容量を増やしたり、少し性格の違うユーザを取り込みにいったりといった拡張性を持つことができる。そうやって、ユーザや、違う要素を持つサービスを少しずつ積み上げていっている。

 このアプローチの中では、案外大事なのは、機械の設計や品質だけじゃなくて、実は、「シャッフル」、「80年代」(70年代という初期設定はない)、「最近追加した曲」などのライブラリの設定や、自動的にタグ付けされるときのタグ付けの分類、iTunesの方で揃えてくる曲といった、機械的では余り無い部分だったりするのではないでしょうか。

 また、自らこうしたユーザ獲得の積み上げ作業をやっているからこそ、具体的メリットを実感したユーザを味方につけることができる。そのユーザの勢いを市場拡張の核としてうまく利用することができるからこそ、一挙に、プラットフォーム化に向けて動くことができる。そして、最後は、商品提供者側にも、「ここはここで、文句を言わずにコンテンツを売りに行った方がよい」という流れを作ることにも成功する。

 

(2) ユーザのコミットこそが味方

 本来、これだけの情報を貯めさせるプラットフォームとなれば、著作権の処理をどうする、タグ情報をどうやって集めるなど、難題と反対勢力は山のように出てくるはずです。そういう事情から、情報が積み上がる前に、困難な理由の方が山のように積み上がってしまい、途中で社内の稟議をあきらめざるえないケースも、多々あるだろうと思います。

 しかも、これらのケースのほとんどが、技術的な問題とは関係のない、ビジネスモデルや法制度上の理由。日本のメーカーやサービス提供者も、そういうことに長時間時間をかけて戦うことには、あまり慣れてない。また、そこで相談を受ける権利者や関係者の方々も、ユーザが一挙について行く流れがなく、ユーザが何を具体的にメリットとして感じているのか、その点に確証が持てなければ、おそらく、相談に来られても、「無理な理由」を述べ立てて、お帰りいただくしかないでしょう。

 だからこそ、iTunesのようなサービスが先行して認知されていなかった我が国で(もちろん、music.(co.)jpを育ててこられた佐々木さんのように、90年代半ばから必至にネット音楽市場の立ち上げに取り組んでこられた方々はいらっしゃいますが)、デジタルコピーマシーンとしてiPodもどきを作っても、なかなか市場の立ち上げに成功するのは難しかったのではないでしょうか。

 

(3) アプリとコンテンツで融合が起きて、それがプラットフォームに下がってくる

 一度、サービスやコンテンツの側で、ユーザの支持を集め、融合(デジタルコンバージェンス)を起こすことに成功してしまえば、後の拡張性は、それまでよりは楽についてくる。iPodだって、音楽データから始めましたが、今や映像データにゆき、通信端末機能まで拡張することで膨大なプライベートデータの情報蓄電池のようになろうとしている。Googleだって、テキスト検索かと思っていたら、メール、画像、学術、写真、地図など、インターネット上で、様々な「情報を集めて整理する」プラットフォームとして急拡大しようとしている。

 ある種、プラットフォーム的な機能というのは、インフラ側で事前に設計して用意してもだめで、コンテンツとかサービスといった、より上位のレイヤで融合を起こしたところからスタートするもの。その融合の範囲が広がることによって、だんだん、そのサービス自体が、広がりとともにプラットフォーム的性格を持ち始める。いわば、上で融合を起こすことに成功したサービスモデルが、そのまま下に落ちてきて、プラットフォームになる。そういうパターンが、今後も世界で強みを発揮するのではないかという気がします。

 ちょっと余計なコメントですが、また、だからこそ、全世界規模でのコンピューティングインフラ(クラウド?)を押さえつつある有力米国企業に加え、膨大な人口を抱える中国のネットサービス企業が、今後の動向の鍵を握る怖さを持ってくるのではないでしょうか

 我が国も、iPod的な強い機能を持ったデバイスを育てようと思えば、その後の拡張性を見通した先見性のある全体構造設計という技術的な問題もありますが、やはりコンテンツやサービスで、広く情報の集積を促すような融合を地道に積み上げて達成していかないといけない。そこの努力を怠って、技術的に、課金とか権利処理とかプラットフォーム的機能を論じても、おそらく勝負にならない。

 考えてみれば、我が国だって世界第二位の大市場。その市場で培われた強さで世界にモノを売ってきたはず。ITの世界だって、同じことが出来ないはずはない。それが出来ないのは、ITだからではなく、ITになった瞬間、ユーザのコミットの積み上げを丁寧にやるという作業を忘れてしまったからではないのか。技術と品質でユーザのコミットに応えるのは得意でも、ビジネスモデルや情報の整理学、生活空間のデザイン力でユーザのコミットに応える術を、磨いてこなかったらからではないのか。

 大事なことは、この背表紙を向けている本やCDの向こう側が、どうやったら自由に手元で引き出せるようにできるのか、どういうように引き出せたらユーザは面白いのと思うのか、その原点に早く立ち帰ることではないかと思うです。

 

*   *   *

 
 今回は、情報の積分という視点から、久々にiPod問題本体に戻ってみました。

 この話を書こうと思ったのは、実は、前回の芸術批評のエントリでデジタルによる評価ネットワークの復活のさせ方、という話をしましたが、この話と今回の発想が僕の頭の中では密接につながっているからです。しかし、例によって、今回もまた、既に十分に長い。また別の機会に、その問題も整理できたらいいなと思います。

 しかし、そう言いながら、毎回のエントリのエンディングで自らに課した宿題も大分積み上がってきているような気がします。情報は、積み上げると良いことがあるんですが、宿題のやり残しだけは、いくらくらい積み上げても、単に破綻するだけですね。(苦笑

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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