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絵画の価格高騰 〜批評家は間違えられない

2008/05/11 23:50
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プロフィール

村上敬亮

長年、官の立場からIT業界に携わり、政策の立案、実行をしてきた経済産業省 資源エネルギー庁の村上敬亮氏が、ITやエネルギー、様々な角度から、日本の発展のための課題や可能性について語ります。
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 ある集まりで、著名な芸術家の方に、今、絵の価格が大高騰しているという話を伺いました。確かに、田中宇さんのページにもこんな解説記事が出ていますし、最近はこんなも話題のようです。大変印象に残ったので、今日は、それについて、少し。

 具体的に伺ったのは、こんな感じのお話です。

 今、絵画がオークションを通じて異様な高値をつけている。その高騰ぶりは尋常ではない。また、その値段の決まり方も、投機的なマネーのそれに近く、通常の批評や評価とはほぼ全く関係なくなりつつある。このまま放置しておいたら、健全な芸術や批評は死んでしまうのではないか。

 加えて、市場における膨大な情報量と動きの速さで、その時良いとされた作品以外の作品が忘れさられるスピードを加速している。本来、芸術作品は、同時代による評価ばかりでなく、後から発見され評価をされる時代性を有したもの。ところが、それが忘却の彼方に押しやられてしまっては、時代による評価の余地も減らしてしまっている可能性がある。そういう意味でも、芸術の健全な立ち位置は、難しくなっている。

 こうした現象は、バブルか? 若しくは、バブルと言って、放置しておいて良いのか?

 

1.価格高騰の問題

 

 価格高騰が著しいといえば、その代表格は原油でしょう。在庫は積み上がっているし、需給要因が価格上昇ほどに厳しくなっているわけでもないのに、値段はどんどん上がっている。これは、バブルか?

 原油の場合、要因はいろいろな形で議論されています。今は直接の担当をしていないので、正確なことは申し上げられませんが、担当だった頃の記憶を基に簡単に整理すると、こんな感じだと思います。

中国の需要増や原油開発の動向などをはじめとする需給要因で上がっている部分はもちろん大きいですが、おそらく、120ドルのベースで考えれば、それで説明できるのは半分程度?最近の価格の伸びの主役は、商品ファンドを核とした比較的中期の投資マネーと、ヘッジファンド的な価格動向自体にコミットしてくる極めて短期の投資マネー。特に、商品ファンドを核とした投資マネーは、極めて理論的なアプローチをもって、将来の需給動向を読み込んで市場に入っている。

 自分は、商品ファンドが入ってくる際のある種理詰めの動きを勉強させていただいたので、原油の場合、必ずしも短期的なマネーゲームに振り回されているだけとも、言い切れない、という印象があります。また、経済学者の方によっては、今までが過小評価だっただけで、その絶対的な水準の当否は別にして、原油価格の上昇は経済に織り込んでしかるべき性格のもの、と仰る方も出てきているように思います。原油の場合、なかなか、評価と対応が難しいところです。

 

 では、絵画の場合は、どうなんでしょうか。同じように、理詰めの投資なんでしょうか?それとも、一過性のバブル現象なんでしょうか。正直なところ、絵画の値段を押し上げているマネー構図をもっと勉強してみないとわかりません。しかし、第一印象では、理詰めマネーの動きというよりは投機的、少なくとも、原油よりは、バブル性が強そうな気がします。

 

 第一に、この話を伺っていて、日本のバブル時代後期に、一部のスーパーカーに狂ったような高い値段が付いていたことを思い出しました。その時の異様な価格高騰分は、車の中身の評価があがったというよりも、その希少性だけに着目して他分野からお金が流れてきていたような印象があります。

 バブルが加速するときは、投機対象に対する評価と、投機対象が本来持つべき批評とが分離してしまい、供給の希少性だけで投資する側のポートフォリオが組まれ始めます。実際に使うというコミットが無い状態で、値段が決まり始めると、価格は、実体経済とは遊離する。今の絵のオークションを通じた高騰も、このトラップにはまっているという意味で、芸術家先生から伺った懸念は全く正しいのではないかという気がします。

 ただし、じゃあ原油もバブルなのか?という点では、ちょっと注意が必要だと思います。確かに、よく指標に使われるWTI原油の場合、実際の取引量は世界全体の需要のうちの極めてごく一部であるという特徴はあるのですが、それでも、それに連動して他の原油価格が実際に動きますし、それらは実際に消費されています。そういう意味では、事情はもう少し違ってきます。

 絵画の場合、オークション後、スーパーカーと同じように、「使われず」に倉庫入りしてしまっているのだとすれば、原油よりもバブル性が強いんだと思います。となると、絵画を「使う」というのも不適切な表現ですが、そこがどうなっているのか、検証するまでもないのかもしれませんが、調べる必要があると思います。

 

 第二に、当たり前ですが、ドルの信認が相対的に急低下し、グローバルマネーが行き先を探している中、絵画の希少性に着目してマネーが逃げ込んできているんという面が、強く影響しているんだろうと思います。

 ただし、だからといって、即「安直なバブル」とも言い切れません。それが構造的に安定した資金流入の流れなのであれば、一過性のバブルにはならないんだと思います。中東のオイルマネー当たりが主役だろうという想像はつきますが、そうだとすると、逆に構造的な資金流入であり、ひょっとすると資金供給サイドの事情としては、継続しそうな気もします。中東からの資金流入自体が本当に継続的かとか、それも含めたグローバルなガバナンス構造はどう変化するのか、といった、より本質的な論点はありますが、いずれにせよ、絵画の価格高騰問題は、これはこれで、根の深い絡みにはまっていそうな、そんな感じがします。

 

 以上から考えると、確かに絵画の価格高騰問題は相当程度バブルっぽいと思いますが、これが希少性だけに着目した乱雑な価格高騰だとしても、ゆはり、この価格高騰を前提に、芸術市場の再設計を考えはじめておく必要があるのではないかと思います。

 

2.批評の問題

 

 となると、念のため、ということかもしれませんが、今のような価格高騰メカニズムを前提にしても、芸術批評が力を持つような仕組みはないのか、考えておく必要がある。個人的には、特に、そこにITが何か役に立てないのかなあと。

 

 素人理解ですが、絵画の場合、歴史的には、その評価はサロン的な場で語られ、行われ、そのサロンと一体的に活動している美術商によって商われていたものと理解しています。しかも、通常、そのサロンって、極めてリアルな集まりや関係性である場合がほとんどだと思います。

 しかし、現在、そのようなご指摘を頂戴するほど価格が高騰しているということは、そういうリアルなサロン的な機能とは遊離したプレーヤーによってオークションが進められているのでしょう。

 

 とすると、では、サロンの方をバーチャルに組み立て直し、オークションを通じて値をつり上げている人たちを取り込んでしまうようなことは出来ないんでしょうか。

 そういう問題意識から先行事例を探すと、やはり、この10〜20年間の間に、値付けに関わるネットワークを急成長させたのは、株価のアナリストの世界ではないかと思います。今や資本市場の評価は特定の専門家やその業界筋の評価ということを超えて、更にオープンかつ複雑に行われています。その評価やその評価インセンティブに基づく関連事実に関する情報流通速度は、積分的な勢いで強烈な加速度で増しているように思います。

 かつては、ある業界のプロがある業界の動向を評価し、それぞれの企業価値を評価する、そういうタテ割り的な棲み分けが可能だったんだと思いますが、対象自体の複雑な進化とあわせて、評価する側もそんなに単純な評価体制ではのぞめくなってきた。加えて、直接金融へのシフトと経済のグローバル化によって、扱うマネーの量が一挙に増え始めた。

 そこで何が起きたか。おそらく、第一に、資本市場で動くマネー量の急増とアナリスト需要の拡大も踏まえながら、アナリストの数を急速に増加させざるをえなくなった。第二に、そもそも投資対象の間の関係づけが進んだ。かつては、ある企業の評価が、その業界動向を超えて、別の世界の動向によって大きく評価を変えると言うことはあまり無かったんだと思いますが、今は、様々な事情によって、企業同士の評価も複雑に絡み合うようになった。またそれを得意とするアナリストの間の有形・無形ネットワーク的なモノが発達した。

 その結果、特定のサロンがIT化して拡大するのではなく、業界となどで棲み分けていたある種の評価サロンが複雑に絡み合いながら、成長する資本市場から得られる果実を動機付けとして、別の新しいネットワークを形成した。いわば、積分的に積み上がってちょっと性格の違うモノに昇華した。その結果、ITも巧みに活用した巨大な評価サロンができあがってきた。僕は、そんな視点でみています。ちょっと変わった見方かもしれませんが、一昔前の哲学者の田邊元の議論のようなイメージです。

 

 これが芸術の世界に応用できるのであれば、絵画の異様な価格高騰に健全な批評もついていけるのではないかと思ったわけです。でも、ちょっと考えたみただけでも、これは結構難しそうですね。

 アナリストの世界での動きを応用して考えると、芸術の場合も、おそらく、特定分野の批評だけで、このような大きな批評ネットワークを作って、いい加減な希少性に対する投資評価を飲み込んでしまうというのは、難しそうな気がします。市場でエスタブった絵画だけが対象で、それ以上に評価対象に広がりがないんだとすると、売買する方から見れば、今まで以上に評価サロンにカネを落とす必要がない。今以上に批評家を養う必要は無いだろうと思います。

 となると、少し性格の異なる芸術分野などのサロンを複数・大量に関係づけるような事態が必要になる。例えば、絵画以外の芸術や、芸術的な絵画以外の絵・映像とコラボしたような市場のフレームワークがデザインできるか。それによって色々な市場関係者を巻き込み、多様な評価のコンプレックスを必要とするような評価市場を作ることが出来るのか。芸術素人なので何とも申し上げられないのですが、難しそうな気がします・・。

 でも、芸術市場の再設計が必要なんだとすれば、果敢にトライしていかないといけないのかもしれません。自分たちとしても、逃げてはいられない課題ですね。

 

3.「批評家は間違えられない」

 

 今回の集まりでは、批評家の方々もご出席されており、お話を伺う機会がありました。そこで、批評そのものをめぐっては、前述のようなシステム的な問題とは別に、更に厄介な時代的問題があることも痛感しました。

 詳細に触れる余裕も能力もありませんが、関係部分だけかいつまんで申し上げると、こんな感じです。

 1968年以降、構造主義=>脱・構造主義の流れの中で、批評界には、言語学的世界に立脚した唯言論とでもいうべきムーブメントが起こった。けれども、それは未来の他者によって評価される覚悟を伴った言説ではなく、社会の実体面は、淡々と消費社会の論理と経済的な市場メカニズムに流されていった。

 その間も、特に文学については、文学は政治を代替できるといった感触に近い、ある種の思いこみに支えられて、文芸批評というジャンルを生きながらえ支えてきた。しかし、90年代に入り、政治の失墜とともに、批評界が内在してきた脱・構造主義的な虚構の限界が一挙に露出し、その社会的役割を厳しく問われる状況に追いつめられた。

 そういう時代にあって、将来を見据えた評価を貫き続けるのは、そう簡単に割の合うような仕事ではなくなっている。脱・構造主義的な流れが行き詰まってくると、ハバーマスがそうであるように、「集まって同意する」ことで社会像を描こうとするような、繋がり自体にリアリティを求めるような、そんな社会が現実のものになる。そんな中で、集まりもせず、同意もせず、ただ自ら考え抜いた結論を信じ、常に他者による反論を予期しながら、その結論のリライトを続けるという作業は、「せつない」作業だと。

 その批評家先生は、「批評家は、間違えられない。少なくとも、そう思って自分はやってきた。」 そう仰られました。そのお言葉が、僕には非常に重く感じられました。一人で孤立しようとも、将来を切り開けるような理念(正確には、「統制的理念」)を据えながら、現在起きていることに評価を下す。間違えれば、いつでも失職しかねない。しかも、同業者は、どんどんそういう信念や覚悟を持った言説からは逃げたところに移行しようとしている。そうした状況の中で、誠実な批評を展開するリスクの、如何に高いことか。職業である以上、当たり前といえば当たり前のことなんだとは思いますが、こうした緊張感の喪失は、批評の難しさであるだけでなく、我が国全体に通奏低音のように流れるテーマともなっているような気がしました。

 ある種の統制的理念の欠如ということでいえば、政策の現在的状況も似ていると思います。小泉時代は、まだ、「構造改革」という同時進行形の理念の提示はあった。しかし、将来を見据えた理念かというと、そうでもないし、ましてや、今はそれすらない。政治の問題と言えばそれまでですが、自ら反省するところも多くあります。 

 そんなこんなを考えますと、美術品の大高騰の前に、「それは芸術批評家の怠慢だ」なんて、間違っても、簡単には言えないですね。。

 しかし、某かを生み出すという作業と、それを批評し育てるという作業との切磋琢磨、バランスは、やはかり、どこかで回復しなければならない。どうすれば良いのか?それとも、使い手側も含めて全員が作り手側に回ってしまうといったような、全く別の展開が待っているのか?それも含めた、全く新たな価値ガバナンスが現れるのか。考えなきゃいけないことは、たくさんあるなと。

 というわけで、大変、いろいろなことを勉強させていただいた集まりでありました。

 

           *       *       *

 

 これ以上、何か結論めいたモノがあるわけでは、今回はありません。ただ、今回のような文化人の集まりに混ぜていただいて、他にも、とってもとっても色々なことを考えさせられました。

 将来を自らのビジョンで語る覚悟。自ら実行する意志を持って語る批評の言葉。それが、今、最も社会的に求められていることなんでしょうか。言うは易く、行うは難し。当たり前と言えば当たり前なのですが、「実践」を伴う覚悟のある思考が足りない。自分も・・・。

 まあ、これはこれで、また別種のリアリティから遊離した世界かもしれませんが、いずれにせよ、同業種の間におぼれていては、いけないですね。そんなことを強く感じました。

  

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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