昨日のHoward Rheingoldさんの講演を聞いて、改めて感じたことなんだが
彼は、携帯電話など人間の行動範囲をそのまま通信圏に変える自発的なメディアと、ユビキタスやらパーベイシヴといった環境をセンサリングするツールをネットワークで組み合わせることにより、本来生物個体が内部に保有し、機能させるであろう神経系を外部化し、より広範囲の生活圏を確保することに注目したのではないかな、と感じた
会場で購入した彼の新著は、まだ目次と訳者解題といったような部分しか目を通せていないが、もし上記のようなコンセプトなのであれば、ある意味当然であり、そして、その結果生まれ出でた仮想集合的な生命体=モブス(群集)が、一種、究極の民主主義を顕在化したものであるとしたのであれば、それはそれでテクノロジーによって武装された過剰に理想主義的な社会進化論に聞こえなくもない
もう少しニュートラルに考えてみると、携帯が神経系となり、その利用者がエージェントとなり、無意識的な集合体があたかもひとつの生命体のように振舞う。しかも、その生命体の知性は分散化されているために、個別の細胞であるエージェントそれぞれとは成り立つ合理的な交渉も、全体に対しては必ずしも成立しえず、むしろ「過剰な」欲求の発現など想定していなかった行動が創発することがある・・・これって、古くはル・ボンらに遡る群集論そのものとも聞こえるし(彼はプリントジャーナリズムに神経系を求め、その後継はジャーナリズムに意思を求めた)、あるいは複雑系研究におけるマルチ・エージェントの振る舞いの記述のようにも聞こえる
要するに、古くも、新しくもある話題なのだ
このアプローチや興味そのものに疑問を呈するものではない。むしろ、同じような興味を持っていると自白してしまってもいいだろう
しかし、意識的にか無意識的にか、自然合理的な進化の結果が、民主主義の理想に行きつくというのはいかがなものか
また、歴史主義的に現象を後世から俯瞰し、それを説明つけるというのは、あまりスマートには聞こえない。悪く言えば、(解釈者による)ご都合主義的な理解が介入する余地が大きいからだ
# この印象は、前日にテレビ朝日であった同社の視聴「質」調査「ResearchQ」の発表を聞いていても同じような傾向を感じるところがあった
僕の個人的な興味は、もっと個人のミクロな振る舞いが、どのようにして全体の動向に昇華されるのかというメカニズムであり、そこにおいてのそこで発生した文化の役割とはどのようなものになるのか(学習のメカニズムの規範としての文化)が、興味対象なのでちょっとずれたことを言っているだけなのかもしれないけれど・・・
いずれにしても、この週末にでも、著作を読んでみれば、何らかの回答を得られることは間違いない。乞うご期待