以前のエントリーで2010年に大学のキャンパスが「推奨スマートフォン」を提示して学生に導入を促す、という話を書いた。もしかしたら、教育環境で、2010年4月が「スマートフォン元年」になるだろう。キャリア、端末メーカーはなにより、キャンパスは、学生はどう備えればいいのか。
半年かけて考えてもあまりあるテーマである。では現在のケータイとスマートフォンとで、どのような違いがあるのだろうか。
シルバーウィークにアメリカ・ニューヨークとメキシコ・カンクンをめぐる旅をしてきた。そこで、ケータイやパーソナルな情報端末、特に通信端末に関して考えるチャンスがあった。日本へ向かう飛行機に乗れず、図らずも空港で5時間も、人を観察する時間があったからである。
国際線に乗るはずが国内線に乗るハメになったこともあって、ニューヨークで仕事を終えた人たちが帰りのフライトの前のコミュニケーションタイムに被っていた。
飛行機に乗る前のゲート前のロビーは、非常に多くの人がスマートフォンを触っている風景である。iPhone、BlackBerry、その他のQWERTYキーボード搭載の端末を両手で抱えてタイピングしたり、電話を何本もかけてこれからのフライトに備えている。漏れてくる音を聞いていると、iPhoneのSMSでチャット状態になっている人もいたようだ。
ニューヨークのJFK Airportには、電源コンセント付きのSamsungの広告塔が何本も立っていて、ここからノートPCやケータイのケーブルが百花繚乱に広がっている。あるいは公衆電話に備え付けられた、これもまたモジュラージャックで通信するPC向けに用意されたコンセントも、iPhoneの充電器が刺さる。
公衆電話でiPhoneを充電しながら立って電話をしている風景はなんとも皮肉に映る。もっとも、もしPCで通信をしたいとしても、空港には当たり前のように配置されているWi-Fiを使うに決まっているのだから、公衆電話の役割はもはや給電スタンドのようなモノかもしれない。
今この原稿は、東京の地下鉄日比谷線の中で書いている。ちょうど下校途中の中高生や、仕事で移動中のビジネスパーソンの多くがケータイで一生懸命何かしている。メール、ゲーム、音楽を聴く。優先席に座っているご高齢のおばあさんまで、眼鏡越しに目を細めてケータイでゆっくりゆっくり文字を打っているのだから、この国はすごいと改めて感じる。
JFK Airport、日比谷線の中、この2つの風景を比べたとき、決定的に違うのは、その人が持っている端末をどのようなつもりで使っているか、ということだ。もっといえば、ケータイの毎月のペイメントにかけているコストを、どう捉えているか。
日本でケータイを「個人」が使うとき、その理由は楽しさや便利さに紛れて、ネガティブからの脱却に聞こえることもある。
「ないと連絡が付かない」「友達とのコミュニケーションのため」「こどもが安全かどうか知りたい」という理由から、「持っているのが当たり前だから」という大前提を造るような動機まである。どれも納得がいくし、その通り効果的だが、持っていないことに対する不安感も見え隠れする。
では北米地域でのスマートフォンに対するペイメントについて、果たして「ネガティブからゼロに戻す」という意識で使っているのだろうか。もうちょっと、コミュニケーションコストに対して「投資」という視点があるのではないだろうか。
前に述べた通り、2010年、キャンパスにおけるスマートフォンの本格導入が始まると感じている。この時に、スマートフォンをポジティブな教育ツール、学習ツールへの投資と感じられる使い方がいったいどんなものか、考えるチャンスだ。
もちろん現在のカルチャーやライフスタイルとしてのケータイの状況を、「先端のモバイル・ネイティブな生活を体験する日常」としてポジティブに捉えることも可能だ。
いずれにしても、とある瞬間、何げなくではなく意図的にモバイル環境に対する評価をする瞬間を、我々は作るべきではないかと思うのである。