学術会議の任命拒否について、議論が盛り上がっています。私はこの任命拒否が望ましくないと思っていますし、取り消しを求める署名にも参加しました。学術とは何でしょうか。それはなぜ必要なのでしょうか。
知識の体系化
私たちの社会は、膨大な知識の体系の上に形作られています。あなたが今、無人島に取り残されたとしましょう。どうやって生きのびて行けばよいでしょうか。目の前にある木の実は食べられるものでしょうか。畑を作るには鍬が必要ですが、そのための鉄はどこで見つかるでしょうか。
知識には、個人の頭の中だけにあるものもありますが、社会にとって重要なのは体系化された知識です。体系化されているという意味は、知識が関連付けられているということです。目の前にある赤茶けた石が鉄鉱石だとわかっていても、それが製鉄の知識と結びつかなければ役に立ちません。また同時に、その知識は他の人に伝えて、一緒に製鉄のプロセスを構築しなければなりません。体系化された知識とは、記録され個人の枠を超えて伝達されていくものです。ジョゼフ・ヘンリックの著書「文化がヒトを進化させた」[1]は、人類の進化が生物学的な進化ではなくて、知識の伝達によることを示しています。私たちが平安時代よりも良い生活ができるのは、私たちが平安時代の人々よりも賢いからではなく、私たちが、農学、冶金、医療、工学、数学など、現代の知識体系の恩恵にあずかっているからなのです。私たちが社会全体で持っている知識体系とは、私たちの人類文明そのものであると言っても過言でないと思います。
学問とは知識を追及し体系化する営みです。歴史の初期には学問は個人の興味によって行われてきましたが、私たち社会の繁栄にとって知識の体系化が極めて重要であることが理解されるようになってから、学問を職業として行うことが常態化してきました。これが学術と呼ばれるものです。私たちの社会は、様々な専門職業に支えられています。農業を職業とする方々がいなければ、私たちは食べていくことができません。様々な道具は鉱工業に従事する人々の手によるものです。学術とはこれらの職業のベースになる知識の体系化を推し進めるものであり、私たちの社会に必要不可欠な専門職です。学術とは私たちの社会の進化そのものであり、その重要性を私達は認識しなければなりません。これが学術の第一義的な価値です。しかし、私はそれだけではないと思います。
学術の営み:議論の方法論
学術に携わる方々は、私たちの住むこの世の中が、なにかの原理に基づいて動いているということを仮定していて、それがどのような作用なのかを解明しようとしています。同時に、今現在の自分たちの理解がまだ完全でないことも、当り前のように自覚しています。ニュートンの運動方程式は画期的なものであり、一時期には物理学がすべて理解されたと思われたこともありました。その後マックス・プランクの量子力学やアインシュタインの相対性理論が出てきてニュートン方程式が成り立たない領域があることがわかってきました。現代の学術に携わる方々は、今の時点で正しいとされる様々な理論が「現在得られる証拠に基づく最善の合意にすぎない」ことを認識されていると思います。
「最善の合意」はどのようにして達成されるのでしょうか。それは、批判的な検証を繰り返すことによって行われます。学術において何かの命題を主張する際には、それに対する批判的な検証を受け入れます。すなわち「自分が間違っている」という可能性を常に意識しているということです。様々な批判的検証を受けても生き残っている命題は「差し当たって正しい」と認められます。「自分が間違っている可能性」を認める態度は、自己の無謬性を主張する一部の政治家たち(某国の現大統領を思い浮かべてください)の態度とは、明らかに一線を画すものです。
私は、今の社会における学術のより大きな価値は、学術に携わる方々が当たり前のように使っている、この「批判的な検証を通して合意に至るプロトコル(規約)」にあると思います(このことは前回のブログ[2]にも書きまました)。意思決定のプロトコルには様々な形態があります。軍隊や会社の意思決定においては、上位の者の意思決定が優先されます。不完全な情報の下で、限られた時間内の意思決定をしなければならない状況においては、そのような上意下達のプロトコルが必要なことは理解できます。一方、民主主義社会では、議論を通して合意を目指しますが、それで合意を得られないときには多数決というプロトコルを用います。時には、多くの民衆の熱狂によって多数決が悲惨な結果につながることも、良く知られていると思います。
それに対し、学術における合意は、人々の主観や様々なバイアスを排し、客観的な証拠に基づき批判的検証を繰り返すことが重視されます。研究者が陥りやすい誤謬の一つは、実験や観察において自分が期待する結果を望むあまり、実際には存在しないもの見てしまうことです。このため、学術の各分野において、主観・バイアスに因われないための様々な工夫が行われています。客観的なデータをどのように収集するか、それを統計的にどのように処理し、推論するか、などです。さらに、その結果を論文の形で出版し、オープンな場において批判的な検証にさらされ、それを生き延びたものが合意として認められます。
もちろん、研究者も人の子ですから、自分の判断が様々な要因によって影響されます。研究には資金がかかりますから、研究資金を出してくれる民間企業の都合の良いように結果を解釈しようというインセンティブが働くかもしれません。自分の業績を実際よりも多く見せるために、データの捏造や改ざんを行うことも、残念ながら時折見受けられます。学術の世界には、ルールを強制的に守らせるための仕組みがありませんから、研究者たちは高い倫理観を持って自らを律していかなければなりません。
このようなプロトコルは、学術の世界において長年に渡って形作られたもので、人類の叡智の1つであると言ってよいと思います。学術の世界がまがりなりにも社会から信頼されているのは、このような自浄作用があるからにほかなりません。
学術と社会
学術とは職業として学問を行う営みのことだ、と申し上げました。職業ということは、私たちの社会が学術の価値を認め、それに対価を支払う、ということです。2019年における全国の国立大学に対して支払われる運営費交付金の合計はおよそ1兆円でした。私たち国民は税金を通して我が国の学術に対してそれだけの負担をしています。
当然、学術に携わる方々は、その負託にこたえなければなりません。とはいえ、個別の研究がただちに社会に応用可能であるべきだ、という意味ではありません。学術の成果には、応用までに長い時間を要するものも少なくありません。マクスウェルが19世紀半ばに電磁方程式を導いたときに、その応用がどこまで広がるのか、マクスウェル自身には想像もできなかったに違いありません。
むしろ、総体としての学術は、先に上げた学術の2つの価値、すなわち(1)社会の進歩にとって必要な、健全な知識の体系を構築すること.、それからこちらはあまり明示的に意識されていませんが、(2)批判的な検証にもとづいて合意に至る議論の有効性を示すこと、を社会に提供し続けることが大切なのではないでしょうか。
当然、社会の負託にこたえるためには、これらの活動が社会の価値観を反映したものである必要があります。大量破壊兵器の開発につながる研究や、優生思想につながる遺伝子工学、人々のバイアスを利用して意思決定を誘導する技術の開発などは、私達の社会の価値観に反する可能性があり、このような研究については、学術コミュニティは常に慎重であるべきです。ここに、日本学術会議を頂点とする、日本の学術コミュニティの使命があります。社会における価値観というのは不変のものではありません。時代によって変遷していくものです。今の時代の価値観のうち主要なものは、例えば個人の尊厳の尊重と、社会の持続可能性、といったところでしょうか。学術コミュニティはこのような社会の価値観を強く意識し、それに基づいて自らを律しているのです。
残念ながら、学術に対する風当たりは、今までになく強まっているようです。なぜ学術の独立性が重要であるか、私達は学術のやりかたで議論しなければなりません。すなわちそれは、批判的な検証を通して行われるべきです。学術が存在せず、なおかつ人々が繁栄し幸せに暮らしている社会がありえるとしたら、どのような社会でしょうか。そのような社会は私達の今の価値観に合うでしょうか。
間違っても、学問の自由を天賦の権利のように議論してはなりません。それは学術に携わる者の態度ではありません。学術に対する風当たりが強まっている今こそ、学術のあり方について批判的に検証してみることこそ、必要ではないでしょうか。
1. ジョセフ・ヘンリック、文化がヒトを進化させた―人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉、ISBN-13 : 978-4826902113、2019.
2. 丸山宏、ブログ「騙されない自分」、https://japan.cnet.com/blog/maruyama/2020/08/04/entry_30023014/、2020.