[Cass SunsteinによるゲストBlog]
民主主義に関する論考のなかで、ユルゲン・ハーバーマス(Jurgen Habermas)は集団による討議が備える道徳性と重要性を強調している。理想的な条件の下では、「より優れた議論のもつ強制なき力」が勝利を収めるとハーバーマスは考える。討議民主主義 (deliberative democracy)に対する評価は、かれの憲法理論をめぐる議論の中心にあるものだ。当然ながら民主主義の制度もまた、事実と価値観双方に対する多様な意見を集約する仕組みとして捉えることが可能だ。ハーバーマスは民主主義について際立った論を展開する。
だが、ここにも重大な問題がある。たとえ理想的な条件の下であっても、より優れた意見が勝つとは限らないのだ。数々の周到な実験によれば、集団は個人の誤りをただ広めるだけでなくときには増幅することが示されている。これまで論じてきたように、集団分極化はたとえ正当な根拠がないときでさえ先鋭的な意見を生みだしてしまう。少数やただ一人の持つ情報は、集団の最終的な決断にほとんど、あるいはまったく影響を与えないことが多い。情報のカスケードが討議を望ましくない方向に導くこともある。さらに人々は自分の評判を気にするため、自分の知ることが真実であり重要だと分かっていても沈黙を守るかもしれない。
確かに、ハーバーマスが設定した条件には平等の原則および戦略的ふるまいの禁止が含まれている。だがそうした条件が満たされたときでさえ、既に述べたような問題のいずれかが討議に悪影響を及ぼすことは可能だ。
ハイエクはもちろん、かれの見方では分散情報を集約する極めて優れた方法である価格システムの利点を強調する。ハイエクが重視した経済的インセンティブについて考えれば、それがハーバーマスへの疑問の核となることがわかるだろう:討議と熟慮のプロセスにそのようなインセンティブは存在しないかもしれず、人々は自分が持つ情報を口に出さないかもしれない。
価格システムが集団による討議と同じ原因で失敗する場合についてもすでに見てきた(たとえば予測市場に影響を与えたClementカスケードなど)。またハイエクへのハーバーマス的批判を考えることもそれほど難しくはないだろう。だがすくなくとも、集団による討議は、たとえ理想的な条件の下であっても、説明可能な理由によって間違った方向に進む場合があるとはいえる。