[Ian AyresによるゲストBlog]
非公開の事前警告と承認を義務付ける新法というわたしたちの提案は、個人のレベルにも応用することができる。警告を単なる法的義務と考えるのではなく、差別的方針をもつ組織とそのメンバー個人の道徳的義務として考えてみることができるだろう。
わたしの通う教会を例にすれば...
私は監督派教会員(Episcopalian)だ。(そして過去三年間は日曜学校で教えている)。監督派教会はいまだに同性カップルを差別している。わたしは愛する女性と教会の名のもとに結婚することができるが、同性愛者であるわたしの妹は愛する女性と教会が認めるかたちでは結婚することができない。
[この結婚の禁止を差別のひとつとして認めない読者もいるだろう。だが一時、これが許しがたい差別だと考えていることにして読み進んでいただきたい。あるいは、あなたの信じる教会が何か他の認めがたい差別(たとえばジェンダーによるもの)をしていると考えてほしい。]
この差別についてわたしはどう対応すべきだろう。Jenniferとわたしは所属するNew Haven, St. Thomas教会区の役員に呼びかけ、同性同士の聖婚式希望者にも異性同士の聖婚式希望者とおなじ扱いを求める決議を聖職者に提出しようと努力した。この働きかけの先頭に立ったのは、自分の子供は真に平等を重んじる教会のなかで育って欲しいと願う異性愛者の夫婦らだった。
しかしわたしたちはすぐに主教に呼び出され、教会法は同性結婚を認めていないと叱られた。主教はまた、わたしたちが同性結婚への宗教的な差別を終わらせようとすることを禁じた。
事前警告の道徳的義務という考えが浮かんだのはこのときだった。わたしの教会区は同性カップルの結婚を許さないが、教会法も主教も、監督派教会は同性カップルと異性カップルに異なる扱いをするという事実を潜在的な信徒に対して伝えることを禁じてはいない。また現在の教会員に対して、教会が結婚に関して性的傾向に基づいた差別をする組織であることを認識しており、そのうえで信徒となることを選びましたという声明に署名を求めることさえできるかもしれない。
人々が受け入れがたく思う可能性がある事実についてあらかじめ警告することは道徳的な義務といえないだろうか。自分自身がそれを受け入れがたいと思っている場合はなおさらだ。理性的な人々は差別的方針を組織の内部から変革しようとするか、外部から働きかけるかを選択することができる。だがもし内部からの変革を目指しているならば、少なくとも潜在的な加入者に対してこの選択肢について知らせるべきだ。
単なる私的な合意にさえ、変化を後押しする力がある。何かできることはないか意識することもなくそうした警告や承認をしようとする組織や個人は少ないはずだ。
事実、認知(Acknowledgement)から謝罪(Apology)そして行動(Action)への流れは自然なものだ。差別的方針についての事前警告と承認という過程を通じて、一時は加担していた差別について謝罪し手を打つことを教会に求める声が集まるだろう。そして究極的には、差別の存在を認識し謝罪することは差別自体を変えようとする行動への強い原動力となりうる。認知と謝罪は穏やかな平衡点ではない――何かにつながるものだ。
差別組織に協力していると認めるのは簡単なことではない。ここに今すぐ、自宅やキュービクルのなかでこっそり行うことができる私的なエクササイズがある。結婚について性的傾向に基づく差別をする教会に通うことについてあなたはどう思うだろうか。では、このような文言に署名することは?:「私は性的傾向に基づく差別をする教会の一員となることを選びます」
告白しよう。Jenniferとわたしはこれをするつもりだったが、紙にペンを近づけることができなかった。
わたしたちは牧師によってこのジレンマから救われた。主教は同性カップルの結婚を許さないが、 Father Michael Rayは別の方法で差別を終わらせた。いまSt. Thomasでは、同性・異性どちらのカップルにも聖婚式を行っていない。
Ian Ayres