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1798年 外国人および治安法

2004/12/19 00:15
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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(Geoffrey Stone教授によるゲストBlog)

多くの優れたコメントや質問をいただいた。ではそもそもの始まりに、アメリカが憲法を導入してから十年にも満たない時点に遡ってみよう。1798年、誕生して間もない国家は、John AdamsおよびAlexander Hamilton率いる連邦派と、Thomas JeffersonおよびJames Madison率いる共和派のあいだで深刻な政治的分裂に見舞われていた。連邦派は1796年の選挙で両院を支配下に収め、Adamsはわずか三票差の選挙人投票でJeffersonを下した。歴史のこの時点において、アメリカ人たちは国家の未来についてまったく予測がつかなかったことを理解しておかなければならない。民主主義は機能するのだろうか? 良い前例は存在していない。民主主義はまさしく実験であり、国家が瓦解してしまわないとは誰にも保証できなかった。連邦派は富裕階級を代表しており、安定と国家の保安を重視し、一般市民の激情と責任のなさに不安を感じていた。一方の共和派は安全よりも自由を尊び、連邦派に強い不審を抱いていた。

この時代、ヨーロッパでは英国とフランスの間で戦乱が吹き荒れ、合衆国は中立を保つことによって戦争を避けると同時に両陣営を相手に貿易を続けようとした。だが1798年、アメリカは英国と協定を結びフランスを激怒させる。Adamsは国を戦時体制に置き、連邦派議会はより多くの兵と海軍を大統領の指揮下に置いた。いまやアメリカは宣戦布告の瀬戸際にあり、共和派は怒り狂った。かれらは王政を覆したフランスに同情的であり、いまだ王室の支配下にある英国に敵意を持っていたからだ。連邦派が外国人法および治安法(Alien and Sedition Act)を成立させたのはこのような状況だ。

外国人法はAdams大統領に、国家保安への脅威であると判断したあらゆる非米国市民を逮捕・勾留・追放する権限を与える。対象とされた人々には抗弁の権利も、潔白を証明するための証拠を提出する権利も認められない。共和派は憲法違反であると異議を唱えた。連邦派は、外国人は「われら人民」に含まれないゆえに、憲法で保証された権利を持たないと主張した。一方の治安法は大統領・議会・政府へのあらゆる批判を実質的に犯罪とするものだった。共和派は(言論・出版の自由および政府へ抗議する権利を定めた)憲法修正一条違反だと猛然と反発した。対する連邦派は、戦時に政府への批判を封じることは不可欠である、なぜなら政府への信頼を失った市民は戦争が求める犠牲を払おうとしなくなるからだと論じた。

連邦派の検事と判事たちは治安法を共和派の人間に対してのみ、特に大統領を批判した共和派議員と編集者に対して適用した。連邦派の主張は国が戦争の淵にあるからこそこの法律が必要なのだというものだったが、かれらの本当の狙いは共和派の批判を封じ、1800年大統領選にAdamsを当選させることだった。

計画は裏目に出た。アメリカ人はこうした法律に抗議して立ちあがり、Jeffersonを当選させたのだ。これは後の連邦党の衰退へとつながった。Jeffersonは同法によって有罪を宣告された全員に恩赦を与えた。15年ののち議会は1798年治安法の違憲を宣言し、以来最高裁は、治安法には「歴史の法廷で」違憲の判断が下されたと断じる機会を逃したことがない。

この出来事から学べる教訓は(少なくとも)二つある。ひとつ、狡猾な政治家は党派的利益のために戦時の空気を利用すること。二つ、市民の自由を守る役割は、しばしば国民自身の手に委ねられるということ。選挙で選ばれた役人や判事が常に市民の自由を守ってくれるわけではない。

この話のなかに、どこか現在の状況と通じる部分はあるだろうか?

[オリジナルポスト 12月15日午後2時57分]

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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