この選挙について友人や家族、親戚と話すことがどんなに難しいかは驚くほどだ。放送メディアの時代以前にはもっと簡単だったに違いない。選挙について話し合うことは当然と見なされていただろう。だがいま、政治は宗教になっている――どちらも意見を異にする人と議論するものではない。われわれは投票自体はなんとも思わないし、Blogで長広舌を揮いさえする。だが、だれかと面と向かって――少なくとも知り合いの誰かを相手に――どの候補者になぜ投票するのかと問うことは、深い胸の内を解説させるのと同じくらい無礼とされている。
普段はそれも気にならないが、しかしこのような選挙のときには、わたしは心の底から辛い思いをする。今回の選挙に関して、わたしの親類一同のあいだではメーリングリストを通じた長く険悪な論争があった。南北戦争で引き裂かれた一族という話はこれまで想像がつかなかったが、いまは理解できる。だがわたしには、この惨状にも関わらず、お互いに話し合うことは義務と思えるのだ。親族とのやりとりで、わたしが影響を与えられたのはただの一人だった。ひとりでも理解してもらえるとは考えてもいなかったが。だが失敗を予期することは、何もしない理由にはならない――例えば、フリーカルチャー運動のように。
これはわれわれ皆にとっての義務であると思う。われわれはこれを平和的にやる方法を学ぶべきだ。もっとよい手段が必要なのだ。そしてわれわれが、bin LadenやRove(Bush陣営の選挙監督)といった手合いの操作に惑わされない民主主義を作れるものなら、理性的な説得の倫理を再び、あるいは初めて、発見しなければならない。
そのために、われわれはp2p-politicsを制作した。だがすばらしい技術的実装にも関わらず、このアイデアは失敗だった。無数の人々がサイトを訪れてビデオクリップを観た。たくさんの素晴らしいクリップが寄せられた。だがそのなかで、誰かに議論を、理由を、せめてビデオクリップを送信する機能を利用したのはごく僅かだった。
道具がなんであろうと、これは市民の義務であるべきだ。いつもそうする必要はないし、もしかしたら必要ない選挙もあるかもしれない。だが今回の選挙に限って、わたしは膨大な時間を(正気じゃないと友人たちはいうが)、あらゆる種類の質問や罵倒(や希に称賛)をメールしてくる見ず知らずの人と話し合うために費やしている。だからわたしにはなおさらそう思えるのかもしれないが、市民であること、コミュニティの一員であることの義務と責任とは、なぜかを説明することを意味していなければならないはずだ。すくなくとも今、この時は。われわれは分断され、怒りに満ちている。その怒りをなにか良いことに使わなければならない。