(Richard Posner判事によるゲストBlog)
ラリー・レッシグが先見の明をもって長く強調してきたように、法と技術は利益を守るための方法として互いに代用が効く。不法侵入者を訴えることもできるが、しっかりしたフェンスを設置するほうが安いかもしれない。技術的手段が満足なものであれば、それは法的手段に勝るとわれわれは考えてきた。現に法律もまたみだりな訴訟を思いとどまらせるために自助要件を課していることがよくある。そしてわれわれは、法によって保たれてきたバランスを技術がかき乱すことがあるとは(ほとんど)考えてこなかった。法はどんな技術的変化にも対応できると思われてきた。だが、現代技術の目も眩む発達はそれらの前提を破壊してしまった。
ファイル共有がよい例だ。一方では、暗号化技術とインターネット流通(小売業者を経由せず消費者に直接販売することで、契約条件を通して著作権法で定められている以上の制約を課すことが可能となる)の発達は、フェアユースの特権を消滅させてしまうかもしれない(Lydia Lorenは、著作権者が契約によって(あるいは暗号化技術によって)著作権法を逸脱した制約を課す行為は著作権の悪用(ミスユース)と見なされるべきであるという興味深い提案をしている)。強固すぎて消防隊員も進入できないフェンスと門を設置するようなものだ。不法侵入を禁じる法律は消防隊員の進入を許すが、この場合のフェンスは家の所有者に法律を超える保護をあたえていることになる。
だがまた一方で、Groksterや類似のサービスは著作権を侵害するために要するコストを大幅に低下させる。Groksterの合法性を認めた第七巡回区裁判所の判決があろうとも、著作権者は直接の侵害者、すなわち著作権つき音楽ファイルを許可なくダウンロードした者を訴える権利を持っているが、その訴訟にかかるコストは侵害に要するコストがほとんどの人にとって高すぎた以前ならばそもそも発生しなかった。
われわれは暗号化技術と複製技術の軍拡競争のただなかにいる。もし後者が勝利することになれば、著作権法はひとつの領域から追放されることになるだろう。
レコード産業およびファイル共有者それぞれの利害には大いに敬意を払うものの、この争いは法と技術の関わりが社会全体へ与える影響からすれば比較的些細なものだと考えている。わたしはむしろ法やその他の政策手段が、科学と技術の容赦ない発展がもたらす諸問題に対処してゆく能力――あるいは無能力――についてよほど懸念している。続くポストで例を挙げよう。