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「クリエイティブ・コミュニティ」という言葉

2004/05/11 15:08
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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[Siva Vaidhyanathan氏によるゲストBlog]

Joe Buckが先日のポストに対して、「クリエイティブ・コミュニティ」といった言葉を使うとき、われわれ(わたし)はコーダーのこと軽んじる傾向があると指摘した。「大勢のギークたちが不愉快に思っていることは置くとしても、こうした言葉の使い方は不必要な壁を作ってしまう。Jack Valenti側にいる“クリエータ”の多くは、自分たちの創造の自由は後生大事に守り、邪魔しようとするものは誰でも噛みつこうとする」とBuckは書く。

まったくその通りだと思う。恐らくわたしは、著作権やフリーカルチャーや創造性といった話題について話すとき、われわれが扱っているのは広い意味での創造活動全般だということを当然の前提と思いすぎているのだろう。そして読者もまた、創造性が恣意的に設定された境界を超えてゆくさまを目にしていると(もしかすると間違って)信じていた。いずれにしろ、「コンバージェンス/収斂」とは単なるマーケティングや工学の概念ではない。それは心を奪う創造性の精髄なのだ。作品がピカソの彫刻であろうと、モーツァルトのオペラであろうと、最新のビデオゲームであろうと。

だから、われわれはこの点をもっと明確にしなければならないだろう。Buckが言うように、クリエータのどの下位グループ(ミュージシャン、作曲家、脚本家、監督、ハッカー、コーダー、写真家)も結局、問題を自分たちのローカルな文脈から考えるのだ――「Kelly対Arribaの裁判はわたしにどう影響するだろう」というように。

公開の場で話すときわたしは、例えばミュージシャンたち向かって、Alice Randallが『The Wind Done Gone』の出版にこぎ着けるまでに体験したことは、かれら自身も直面するかもしれない問題なのだと理解してもらおうとしている。いずれにしろ、文化市民にとってRandallの例は懸念すべきことだ。

ところでThe Anarchist in the Libraryでは、控訴裁判所がThe Wind Done Goneを出版させるためにずるをせざるを得なかったことについて論じている。The Wind Done Goneは『風とともに去りぬ』の単なるパロディではなく、『風とともに去りぬ』を新たなアイデアのために変形させて用いた独立した“トランスフォーマティブ”作品であり、それに基づいて認められるべきだった。だが法廷には、Campbell対Acuff Rose[プリティ・ウーマン事件。パロディもフェアユースであると認めた最高裁判例]のもっとも狭い解釈からさらに踏み込む気がなかった。われわれは前例の制約を逃れるためだけに、パロディでないものに無理にパロディの衣を着せようとするはめになっている。

[オリジナルポスト 5月7日午前8時54分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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