お使いのブラウザは最新版ではありません。最新のブラウザでご覧ください。

CNET Japan ブログ

「単純なこと」とMANes言い

2004/04/06 12:47
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

プロフィール

lessig

「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
ブログ管理

最近のエントリー

Manes氏がこれほど傷つきやすい人物だったとは知らなかった。ためらいなく人を「低能」「馬鹿」「たわけ」と呼べる人間が、わたしのコメントを「逆上してまくし立てて」あるいは「憤激に満ちて」いると感じたとは少々驚きだ。前回同様、かれのやや大仰ながら手の込んだ罵詈雑言は、愉快ではあってもやはり間違っている。

以下はMr. Manesの今回のコメントから、返答が必要な部分を抜粋したものだ。一部の中傷は省いたから、もしこの人物の本当の姿を知りたければオリジナルを読んでみることを忘れずに。これがかれの見当外れの非難とその誤りだ。Manesの言葉は太字にしてある。

陰険な知識人がとうとう反論され、自分の足に躓いて転ぶのを眺めるのはいつも笑えるものだ。

「陰険」? わたしの知る陰険な人間とは、だれかが躓いて転ぶのを見て笑いものにするようなタイプだけだ。

私が主張したことのひとつはこれだ:「ディズニーは「白雪姫」のようなパブリックドメインの素材を無料で再制作したが、ピーターパンのような著作権付き作品には使用料を払っている」。レッシグは私が間違っているという:

「だがMr. Manesは「パブリックドメインの再制作」の規模を過小申告することで、かの偉大なる巨匠に大変な失礼を働いている。これがその「再制作」のリストだ:『白雪姫』(1937),『ファンタジア』(1940),『ピノキオ』(1940),『ダンボ』(1941),『バンビ』(1942),『南部の唄』(1946),『シンデレラ』(1950),『不思議の国のアリス』(1951),『ロビン・フッド』(1952),『ピーターパン』(1953),『Lady and the Tramp[わんわん物語]』(1955),『眠れる森の美女』(1959),『101匹わんちゃん』(1961),『The Sword in the Stone[王様の剣]』(1963),『ジャングル・ブック』(1967)――早く忘れたほうがいい最近の例『トレジャー・プラネット』(2003)は挙げるまでもない」。

オズの偉大なる賢人の発言ならば正しいはずだ。だが、レッシグは明らかにこのリストを彼の本から、最後の冗談もそのまま不注意にカット&ペーストしている。半時間適当にGoogleしただけで、少なくとも7タイトル――ダンボ、バンビ、ピーターパン、わんわん物語、101匹わんちゃん、王様の剣、ジャングル・ブック――は、制作当時まだ著作権の存在していた文芸作品を元にしており、ディズニー社は使用料を支払っていたことが分かった。『ファンタジア』は音楽を多くのパブリックドメインから、また「魔法使いの弟子」というコンセプトをゲーテから得てはいるものの、ビジュアルのほとんどはオリジナルだし、ミッキーが魔法使いを演じる場面で使われたデュカスの曲やストラヴィンスキーの『春の祭典』に対してウォルト・ディズニーは金を払っていたようだ。寛大なところを見せて、教授殿に伝えるのはこの程度にしておこう。いくつかのサイトではディズニーがテニエルのアリス絵にも使用料を払ったともあったが確認はできなかった。これはひとまず置いておくとしよう。

ここには明らかな虚偽と、明らかに誤解を招く部分がある。

Manesの書評に対するエントリに掲載した、本からコピーしたリストが正確でなかったという点はその通りだ。このリストのすべてが、ディズニーが制作した時点でパブリックドメインだったわけではない。これはBlogエントリの軽率さであり、誤りには謝罪する(ジャングルブックについては、下にも記すとおりManes氏の示唆するより複雑だと書いておくが)。

だがそれはこのリストの本の中での使われ方ではないし、わたしが本の中でこのリストの作品がパブリックドメインであるかのように見せようとしているという主張は明らかな偽りだ。本にはそんなことは書かれていない。この段落を見ればわかるように、このリストを導入する際にわたしはこう書いている:「他者の作品を基にして作られたディズニー作品の一覧は驚くべきものになる」。「パブリックドメインにある作品」ではなく「他者の作品」だ。要点は、「ディズニー的創造性」がどのようなものか――他者の作品を基に、それを重要な創造的方法で変化させる――ということだ。ウォルトはパブリックドメインの作品だけを基にしたと主張しているのではない。

Mr. Manesのポストで誤解を招くのは、ディズニー的創造性に関するわたしの主張が、ディズニーが時には使用料を払っていたという事実――前回のコメントでも述べたように、ディズニーは時に支払う理由などなくても金を出している(たとえばピーターパンのように。これは明らかにパブリックドメインにある)――によってなぜか否定されるかのような部分だ。これは要点を見失っている。この例と比較してみよう:音楽ジャンルのひとつにサンプリングがある。ウォルト・ディズニー的創造性と非常によく似たものだ。多くの偉大なサンプラーは、使用料を支払わずにサンプリングを始めている。もしそれが成功を納めれば、かれらもサンプリング元に使用料を支払う。だがどちらの場合でもその創造性は同じ――ある種の「ウォルト・ディズニー的創造性」だ。

ディズニー社を(ウォルトその人ではないにしろ)強く批判する議論を展開するものもある。たとえばこの記事は、Mr. Manesの主張に反し、ジャングル・ブックはキプリングの著作権が消滅したちょうど翌年に公開されたとしている。そしてもちろん、ディズニー(社)がライオンキングの制作にあたって手塚治虫の「ジャングル大帝」を「盗んだ」のかどうかについては非常に大きな論争がある(このサイトは議論を整理する良い仕事をしている)。だがわたしはディズニーを批判していない。すくなくともウォルト・ディズニーに関しては。わたしが批判しているのは、ディズニー的創造性をますます困難にしている法文化の変化だ。

どうやら16作品のうち9本でも、パロアルトのエメラルドの都では十分らしい。まあ、エルドレッド裁判の際にレッシグがフニャフニャの弁論でどうにか説得した最高裁判事の数(9人のうち2人)よりはマシだが。

「フニャフニャ」? エルドレッドで判事たちを説得できなかったことについて、わたしは既に責任を認めている。だが、これはManesの主張のなかで最も驚かされる部分だ。議会が既に与えられた著作権を何度も何度も何度も延長し続けることは正当だとManes氏は心から信じているのだ。延長に反対する議論をかれは「フニャフニャ」と呼ぶかもしれないが、Steve Forbes、Milton Friedman、Ronald Coase、James Buchanan、Phyllis Schlaflyおよび大勢の保守派と呼ばれる人々はそうは考えていない。著作権の期間延長は正しいと、Manesは本気で主張したいのだろうか?

レッシグのいかにもブログ的な激怒は

! ミスタ・Manes、もしわたしのあのエントリが「いかにもブログ的な激怒」だと思っているなら、Blogをあまりご存じないようだ。

たんなる非-法律家に反論されて、

この部分は全く誤解を招く。わたしはManes氏が法律の専門家ではないと一度コメントしたが、それは「非-法律家がフェアユースの美点について話すのを聞けて感激だ」という部分だ。

レッシグは現実のパブリックドメインがどんなものか知りもしなければ気にもしていないことを露呈している。ほとんどあらゆるものをパブリックドメインに放り込もうという壮大な願望で目が眩んでいるのだ。

私の意見は、すでに著作権で保護される理由(例えば商業的に利用されているなど)を持たなくなったものはすべてパブリックドメインに置かれるべきというものだ。Manesがこれに反対するなら、既に著作権で保護されるどんな理由もなくなった作品が法の規制を受け続けることは何の問題もないと考えているのだろう。

レッシグは古く見えるものはなんでも――実際古いか新しいかとは無関係に――パブリックドメインなはずで、さもなければそうあるべきだと考えているようだ。

これは良くある混乱だ。もしわたしがグリム兄弟の童話を元に新たな作品を作ったとしたら、それに対して新しい著作権を得ることができる。素材となった作品はそのままパブリックドメインであっても。よって、「一見古く」みえてもパブリックドメインでない作品はいくらでも存在できる。

レッシグは著作権の保護などどうでもいいと思っている真性パブリックドメイン偏執狂だ。レッシグを本当に逆上させるのは――最高裁で彼がお仕置きされることなった理由だが――

「フニャフニャ」な弁論のせいで「お仕置き」。うわお。Manes氏の頭の中にはどんなイメージが渦巻いているのやら。

――創造性を阻害するとされる現在の著作権保護期間の長さだ。だが注意すべきなのは(レッシグは分かっていないようだが)、ディズニーが白雪姫を制作した1937年当時の著作権期間が、仮に現在のあまりにも長すぎるとされる作者の死後70年であったとしても、すでに原作はパブリックドメインであり、ディズニーは自由に利用できていたということだ。弟より長生きしたヤコブ・グリムは1863年に死んでいる。ディズニーがシンデレラ、ロビン・フッド、眠れる森の美女を制作したとき、仮に現行の著作権法が施行されていたとしても、それらの原作はパブリックドメインだった。これでも現在の著作権法はレッシグが見せかけたがっているように厄介なものだろうか?

またもや、まったく論点を取り違えている。(1) Eldredでわれわれが問題にしたのは既に与えられた著作権の期間を延長することだけだ。期間そのものが違憲だと主張したのではない。(2) そしてManesの話から完全に欠落しているのは、1976年以降の著作権法に加えられた根本的な変更――あらゆるものに対して自動的に権利が与えられ、すべての期間に渡って保護され続けるようになったことだ。ウォルト・ディズニーの時代には、まず登録されたものにだけ保護が与えられ、更新されたものだけが保護され続けていた。

ディズニーの話を終える前に、レッシグがここ数年言い触らし続け、この本でもまた繰り返している大ウソについても書いておこう。ディズニー最初の有声映画『蒸気船ウィリー』が、同じ1928年の先に公開されたバスター・キートンの映画Steamboat Bill Jr.の剽窃だという話だ。2002年7月の講演でレッシグはこう言った:

「だが、この1928年の『蒸気船ウィリー』、後のミッキーマウスの誕生についておそらく知られていないのは、ウォルト・ディズニーはこの“ウィリー”を、バスター・キートンの映画『蒸気船ビル』から、今日のディズニー社の言葉を使えば「盗んだ」という事実だ。“ウィリー”は『蒸気船ビル』を基に作られたパロディ、模倣だった。映画『蒸気船ビル』が作られたのは同じ1928年だ。14年間待つことさえなく、ただRip,Mix,Burn(コピー、加工、公開)することで[聴衆笑う]ディズニー帝国を作り上げたんだ」

つい先週放送されたNPRの"Talk of the Nation"では、『蒸気船ウィリー』を「バスター・キートンのパクリ」と呼んでいる。レッシグはこの話が大好きだ。彼が憎む著作権期間延長法を成立させた勢力のひとつはディズニーということにされているから、これは受けが良い皮肉な話だ。だが残念なことに、この話はあらゆる証拠からして間違いであることが分かった。双方の映画を見れば分かることだ(どちらもDVDで出ている)。共通しているのは蒸気船の上のシーンがあることと、タバコを噛む短いジョークが出てくること(それぞれ別のジョークだ)だけしかない。キートンの方は無表情で演ずるサイレント・コメディで、故郷の荒っぽい小さな町に帰ってきた大学生が、父親の蒸気船ビジネスでの競争相手の娘を英雄的活躍で射止める話だ。ディズニーの方は、漫画の巨大齧歯類がいろいろな動物を使って「わらの中の七面鳥」を演奏する騒がしいミュージカルだ。ディズニーの映画がどんな理由でかキートンの著作権を侵害する(著作権の発生しない題名と、ことによるとある種の漠然としたインスピレーションを除いて)と匂わせるだけでも、ほとんど「ディズニーの『Wind in the Willows』は『Gone With the Wind』の翻案」と言い張るようなものだ。難しい判断でもなんでもない。無関係なのだからフェアユースでさえない。レッシグはどちらの作品も「蒸気船ビル」という歌(ディズニーはこれに使用料を支払っている)を元にしていると反論するかもしれない。面倒を省いてやると、この歌の大部分はBillの死で終わる蒸気船レースについてだ。キートンにもディズニーにもそんな要素は登場しない。

これで反論になると考えていること自体が驚きだ。わたしはウォルト・ディズニーを全く批判していない。わたしはかれが示したような創造性を称賛している。だから「盗んだ」という言葉も、引用符で囲んで批判的に使っている。現在では「盗んだ」と呼ばれるという意味だ。だがわたしはキートンやディズニーの使用が盗みだとは思わないし、当時の誰もそんな風には考えなかったはずだ。

わたしが主張しているのは、当時のディズニーが享受していた自由な環境は、現在ではもはや当然とみなすことはできないということだ。例:ディズニーは(Pixarの力で)傑作映画『ファインディング・ニモ』を制作した。ファインディング・ニモのキートン的パロディ『ファインディング・ニミー』を事前の許可なく制作できると本気で考えるものがいるだろうか?

もっと広い話をすれば、著作権の及ぼす規制の適用範囲と内容が変化したことを否定する人をわたしは知らない。だがもしかすると、わたしが読んだものすべて、話した人々全員が間違っていたという可能性もある。現在の法律の下でも、他人の作品を以前と同様かそれ以上に容易に利用・再利用できるという主張の根拠は何だろう?

アップデート:一番大事な部分が抜けていて申し訳なかった。ディズニーの『蒸気船ウィリー』がキートンの『蒸気船ビルJr』のパロディだったという「大ウソ」について。この(正しい)主張はわたしのオリジナルではない。もしMr. Manesが本当にGoogleを使って調べたのなら、多くの検索結果のなかでも以下のサイトを発見したはずだ――なかにはディズニー自身のサイトも含まれている!ここでもまた、Manes氏は間違っている。

  • TalkDisney.com ("インスピレーションとなったのはバスター・キートンの、当時の批評家には「やや単調」といわれた映画『蒸気船ビル』")
  • TutorGig Encyclopedia ("この短編はバスター・キートンの『蒸気船ビル』のパロディとして制作された。公開は1928年5月12日。")
  • This Day in Disney History ("バスター・キートンの1924年のThe Navigatorおよび1928年の『蒸気船ビルJr』がディズニーの『蒸気船ウィリー』にインスピレーションを与えた")
  • Encyclopedia4U("キートンの『蒸気船ビル』のパロディ")
  • DVD.net.au ("[蒸気船ビルについて] ディズニーのもっとも有名な創造物ミッキーマウスのデビュー作となった短編アニメ蒸気船ウィリーにインスピレーションを与えた。1928年の古典『蒸気船ビル』は、キートンがプロデューサーJoseph Schenckと共に独自制作した9作品のうち最後の1つとなった。")
  • DisneyShorts at Toonzone ("この短編はバスター・キートンの映画(さらにはその元となったボードビルの演目である)『蒸気船ビル』を基にしている"

そのほか多数のどれでも。

ああ、ところで、わたしもこの両作品の購入をお勧めする。わたしは短編『蒸気船ウィリー』をディズニーが売っているとてもいいコレクションの一部として手に入れた。Amazonのこちらで買うことができる。またManes氏が書いているように、蒸気船ビルのDVDもここで手に入る。蒸気船ビルを買おうとしたなら、そのページに「トリビア」として次のようにあるのが見つかるだろう:「この映画は蒸気船ウィリー(1928)のモデルとして使用された。」

さらに:1928年から1929年にかけての『蒸気船ウィリー』評の数々もこれを支持している。

書評のなかで私は、著作権法は非常に広範囲なフェアユースの考え方を提供していると記した。基本的には、他人の著作権を合法的に侵害できる権利だ。

「合法的に侵害」――なかなか興味深いトリックのようだ。

これをレッシグは「フェアユースとは弁護士を雇う権利だ」と吐き捨てる。ここでもレッシグは事実を完全に逆に捉えている。最近の真実は…

「最近」?

…著作権こそ弁護士を雇う権利でしかなくなっているということだ。著作権は四六時中侵害されお咎めなしに放置されている。フェアユースという例外が非常に多いことも理由の一部であり、著作権侵害を訴えて勝つのが非常に高くつくのも理由の1つだ。

もし作品の利用がフェアユースであれば、それは「侵害」ではない。そもそも「お咎め」もありえない――認められた行為なのだ。

レッシグの愚痴を聞かされていると、著作権者はまるで家畜を檻に追い込むように侵害者を法廷に引きずり出しているように思うかもしれない。実際には、著作権訴訟は驚くほどわずかしかない。こちらのページで確認できる。1988年から2002年の16年間の平均は2252件/年であり、連邦裁判所で扱われたすべての訴訟からすれば1%以下でしかない。では、レッシグの大好きなカット&ペーストのWeb時代になって件数は劇的に増加したか?:否。訴訟件数が最高を記録したのは1994年の2828件で、当時はwebの一般利用がどうにか始まったばかりだ。2003年にはわずか2448件、これは米レコード協会が弁護の余地のないファイル「共有」者に対して起こした訴訟も含んでいると思われる。件数は微妙な減少傾向にある。ウェブページから映画まで数十億もの著作権付き作品が存在していることからすれば、著作権侵害で訴えられる確率はおそらく雷に撃たれるより低い。そして著作権侵害(大部分はフェアユース)は絶えず発生しつづけている。偉大なるオズの賢人レッシグも現実のことはあまり分かっていないようだ。だが現実には、どう見ても「フェア」とはいえない利用であっても――多くはそうではないが――ほとんどは見逃されているのだ。

ひとつの部分について、Mr. Manesは全く正しい。現在の著作権法の条文と、それがネット上で一般の人々が日常的におこなっている行為に適用される結果として、「著作権侵害(大部分はフェアユース[原文ママ])は絶えず発生しつづけている」。わたしが主張するのは、一般の人々が「絶えず」おこなっていることを違法とする法律には再考の余地があるということだ。

だが、それ以外は救いようがなく馬鹿馬鹿しい。訴訟件数を数え上げることで著作権が及ぼす規制の影響を測ることができるという発想は噴飯ものだ。著作権法はビジネスを直接規制する。規制の負担はクリエータたちに課される。フェアユースの規定と実際の負担のあいだにはほとんど関係がない。

わたしの言葉を信用する必要はない。かわりにPosner判事とWilliam Patryの言葉を吟味してみることだ。California Law Reviewにこれから掲載される論文(こちらのリストに含まれているがまだオンラインにはなっていない)では、出版社が作家に適用する「フェアユース」のルールについて調査している。論文によると:

台無しとはこのことである。著作権者およびその弁護士はコピー希望者に対して、実際にはフェアユースの場合でも著作権侵害にあたると忠告しつづける傾向にあり、コピーする側は訴訟を提起する意志を削がれることになる。Little Rascalsのケースについては既に触れた。The Copyright Society of the U.S.Aはそのウェブサイト上で、映画やテレビ番組のわずか数秒の複製もフェアユースにはあたらないと忠告している。「映画やテレビ番組等をソースとしたビデオクリップまたは画像を映画に使用する場合、長さに関わらず著作権者からの同意が必要となります」。既に指摘したように、これは法が定めるところではない。
先日New York Review of BooksはVirginia Woolfの新たに発見されたノートを出版したが、その末尾にはこのような注意書きがある:

「Copyright ©2003 by the Estate of Virginia Woolf. Hesperus Pressによる書面による事前の許可を得た場合を除き、テキストのいかなる部分の複製も禁ずる」。

いかなる部分? 無茶苦茶である。ヴァージニア・ウルフあるいはLady Ottolineについて書くジャーナリストや伝記作家、批評家、歴史家はフェアユースの原則により問題のテキストから一部分を引用する権利がある。注意書きは純粋なハッタリではあるが、Hesperus Pressの弁護士に法的措置をもって脅されたパブリックドメイン出版者はごく短い部分であっても同意なしに出版することを躊躇うだろう。Eldredと同様の立場にある者が懸念するのは、出版を望む作品に存命中の著作権者が存在しないことを確認するために多大な労力を費やした後でも、仮にどこからともなく著作権者が現れ出版を差し止めようとすれば、それに続く法的係争のコストは得られる価値を上まわることである。Margaret Atwoodの最近の小説Oryx and Crakeには、著者による次のような謝辞がある:

「John Calder PublicationsとGrove Atlanticへ。Samuel Beckettの小説Mercier and Camierから8語を引用する許可を与えてくれたことについて」。

8語? 冗談ではない。大いに成功している作家Atwoodは2つの出版社と交渉する費用を負担できるが、他の作家たちには不可能だ。いずれにしても、こうした要求を処理するために必要とされる時間と費用は社会的な損失である。ある著名な大学出版局の著作権担当者によれば、引用の許可が求められた場合、その利用はフェアユースの範囲内にはないと仮定して扱うという。許可を求めてきた人物が完全な素人――担当者の言葉でいえば「物知らずの馬鹿」――だと判断した場合にはフェアユースの例外について教えるが、それも度々あることではない。同出版局はフェアユースについて著者たちに次のように指導している:

「学術的評価や分析、援用のための短い引用であれば許可は不要。それは明確に“フェアユース”とされる。利用が“フェア”であるかどうかの判定には数多くの要素が考慮されなければならないが、ひとつの章や記事からの広範な引用、あるいはイラストレーションや独立した詩の複製が“フェアユース”とされる場合は非常にまれである」。

この定義は曖昧であり範囲は非常に狭い。また別の著名な大学出版局による著者への指示は:

「一般的に、文学的研究や批評以外の目的で詩を引用するには許可が必要とされる…。フェアユースの範囲内であれば、著作権の存在する散文の出版物からの引用ができる。どこまでが「フェア」とされるかは明確ではないが、引用元の表題・著者・出版社を明示する限り、一冊分の長さを持つ著作からは通常1000語まで無許可引用ができる。より短い出版物(例えば記事、短編小説、書簡など)については、フェアユースと見なされる引用語数ははるかに少なくなる。仮に1000語以下であっても、来歴や書簡あるいは完結した形容など、ひとつの完全な単位を許可なく使用してはならない。」

上記の引用中には次のような誤りが含まれている。詩の引用はフェアユースと見なされないかのような記述・一律1000語の「安全範囲」・フェアユースにあたる複製にも引用元の表示が義務づけられているかのような記述・「完結した単位」の引用はフェアユースと見なされないという主張。これらの指標が与える印象はフェアユースの特権を法が認めるよりもはるかに狭く、よって著作権者の権利をはるかに広範なものにしている。
先に引いたCrewの研究も、大学は教職員や図書館員に対してフェアユースに関して非常に保守的なガイドラインを適用するという同様の結果を得ている。

これらの実例は際限なく列挙することができよう。

著作権法の本当の効果は出版者のルールを通じて伝えられる。そしてこれはテキストに関してのことに過ぎない――侵害の訴えに対するフェアユースに基づく弁護が広く確立されている分野だ。映像や音楽の文脈では、保護はさらに限られたものになる。すべてのショットの権利をクリアすることなく映画を公開しようとしてみることだ。

盗作に対して訴訟を起こす者は誰ひとりいないようだ。より一般的な例でいえば、昨年販売された20億ドル以上のブランクCDのうち少なくともある程度はハードディスクのバックアップ以外の用途に使用された。著作権侵害で法廷に連れ出されたければ、通常は完全に弁護の余地のない行動をとる必要がある。たとえば盗んだMP3のコレクションを会う人全員に配るといったことだ。だが、レッシグはこの種の行動には問題がないと考えているようだ。

わたしの本を実際に読んだ人物がどうして「盗んだMP3のコレクションを会う人全員に配る」のは問題ないとわたしが考えているなどと言えるのか正直理解できない。もちろんわたしの主張は正反対だ。

レッシグは「単なる技術ライター」である私は法律の専門家ではなく、従って著作権の歴史のエキスパートのふりなどできるわけがないと軽蔑を隠さない。職業法律家の一員でないことについては有罪を認めるが、この「技術ライター」は、フィクション/ノンフィクションの何冊もの著書や映画・テレビ脚本そしてソフトウェアの数々を出版してきた。どうしたことか、法教育に関する連続セミナーや著名なロースクールで法律家相手の講演にも招かれている。フェアユースの権利を支持するためにワシントンを訪れたこともある。また私は著作権の歴史の一部を実体験してきた。レッシグが我々を連れ戻したがっている旧著作権法での契約にサインしたことがある程度には齢を重ねている。米国がひとり雄々しく独自の著作権を貫き、他の全世界が従う女々しい協定など撥ねつけていたオズの国のような楽園だ。

わたしは他人の職業を悪く言うことに強く反対しているし、もしMr. Manesがわたしの言葉をそのように受け取ったのならば謝罪したい。だがわたしが実際に書いたのは:「著作権法の歴史に関してこれほど自信を持つ技術ライターの手になる書評がこのようなものだという事実は、なさねばならないことがいかに多く残されているかを示している」。また「フィクション/ノンフィクションの何冊もの著書や映画・テレビの脚本そしてソフトウェアの数々」を書いたことは誰でも誇るべきだ。だが著作権法の歴史についての研究――Ray Patterson, Mark Rose, Kaplan判事の著作――を読んだ上で、わたしの主張が極端なものだとなぜ思えるのかは理解できない。

当時米国内で出版したものについて著作権を主張するためには、著作権表示を追加したうえで政府に登録しなければならなかった。登録を忘れたり必要を知らなければ作品はパブリックドメインとなってしまう。だがずっと昔の1886年に、ベルヌ条約ははるかに単純な方法を提供していた。現在まで、一枚一枚すべてのウェブページや写真や音楽を著作権表示で汚す必要もなく立派に機能している方法だ。これはまた、作品を世に送り出した時点ではその素晴らしさや潜在的な経済的価値に気づいていないかもしれないクリエーターも同じく保護する。さらに保護は公表されていない作品にも及ぶ。他の方式では混乱の元となっていた問題だ。

ベルヌの下では、どんなものでも紙やレコードといった実体的な形に固定されると同時に著作権が発生する。登録も著作権表示も不要だ。単純なことだ:もし他人の(パブリックドメインでない)作品を複製や改変したければ、許可を得なければならない。それでも事実、アイデア、引用、パロディなど、無数の例外がある。

「単純なこと」!なんの冗談だ? インターネット以前には比較的単純だったとしてもいい。著作権者の独占的権利に触れるかたちで著作物を「利用」したがるのはおそらく商業出版者だったからだ。商業出版者ならば、手続きの負担を比較的簡単に処理することができる(映画を除いて。だがそれはひとまず置いておこう)。

しかし今や、コンテンツをインターネット上で扱おうとするあらゆる人々に同じルールが適用されている――おなじ「単純な」ルールがだ。コンテンツに著作権の手がかりが付いていないために、何がパブリックドメインで何がそうでないのか知る方法はない。また利用したい作品の権利を持っているのは誰なのかを知る方法もない。仮にそれが可能で、権利者が特定できたとしても、利用する前にあらかじめ「許可を得なければならない」。

これこそが問題なのだ、Manes殿。誰かの作品を「利用」するまえに誰もがオリバー・ツイストのように許しを乞わねばならないソビエト的な世界がお好みなのかもしれない。わたしも限られた分野に関して、真に限られた期間であれば、その世界に住むことに文句はない。だが、現在許可を乞うことが必要とされている範囲が、われわれの歴史上ほとんどの時点と比較して圧倒的に拡大していることは明白だ。ここにわたしの主張がある:われわれは自由な文化[a Free Culture]から、許可制の文化[permission culture]へと移行しつつある。

「事実、アイデア、引用、パロディなど、無数の例外」について。わたしはこれらの例外を独自の秤で計測してみた。結果はきっかり6オンス、170グラムだ。「事実」はたしかに例外だ――議会がデータベース保護法案を可決するまでのあいだは。「アイデア」はテキストに関しては重要な例外だ。だがガーシュウィンのラプソディの「アイデア」とは何だ? 「引用」――出版社に教えてやれ。そして「パロディ」?!ジョークに違いない。そうだろう?

この本や最近新たに開始した裁判で、レッシグは我々を過去の使い物にならない著作権表示・登録制の時代に連れ戻そうとしている。世界の他の国々と共にベルヌ条約に参加するため我々が数十年も昔に捨て去った過去に。

実際には、本の中でも説明している通り、わたしはそんなことはしていない。わたしが提案するのは、同じ結果を達成するためにいまよりもずっと効率的なシステムを採用する未来だ。著作権の規制をそれが必要とされている場所に限定し、規制がなんら有用な目的を果たさない場合には文化を自由にする仕組みだ。

著作権表示のないものについて、レッシグは「誰かが文句をいうまでは自由」というルールが良いらしい。では、もしどこかの子供の脚本を盗んで映画を作ったとして、サンダンスに持ち込むときになってその子供が文句を付けてきたら? レッシグはこれが問題になるかもしれないと脚注で認めている。ならば最初から許可を申請した方がマシではないのか? しかもこのやり方はレッシグが憎む巨大メディア企業に有利になるだけではないのか? 企業には著作権表示と登録を確かめる弁護士がいるが、それほど知識のないアーティストは損をすることになる。

かつてのシステムの効率の悪さは実にひどいものだった。そして著作権局だけに依存したどんなシステムもひどいものになるだろう。だがこの国のどの知的財産システムも登録と維持が要求される――特許しかり、商標しかり――著作権だけを除いて。なぜだ?

レッシグは米国vs世界という男らしい時代に起きた奇妙な問題については触れようともしない。

「男らしい」?

当時の著者たちは、アメリカの出版社が作品を同時にカナダでも公表するように要求した。ベルヌ条約で認められた権利を全世界に主張できるようにするためだ。著作権表示と登録が復活したレトロ・レッシグランドでは、きっとカナダのサーバ会社が著作権表示や登録をしなくても保護を受けられるホスティングを提供するに違いない。米国がベルヌ条約批准国として尊重せざるを得ないものだ。レッシグランドの二重基準の下では、「クリエイティブな」再利用をしたがる人間は、外国のサーバにある著作権表示のない素材を使わないように用心しなければならない――著作権表示の問題は以前よりもよほどややこしいことになる。国際的に一貫した著作権法の利点と同様、こうした細部は偉大なオズの賢人の眼中には全く映っていない。

確かにひどい、愚かな仕組みだ。そして現在のシステムもまたひどく愚かなものだ(待った。つい忘れていたが、現行のシステムは「単純」だった)。

ポピュリスト扇動家の偉大な伝統に従い、レッシグは先制して相手をラディカル呼ばわりする。実際に爆弾を投げているのは自分であるにも関わらず。レッシグはBlogで「わたしは1975年の著作権法ならば何の不満も持っていない」と発言した。にも関わらず、当時のルールさえはるかに逸脱するレッシグ核弾頭の一発は、未登録作品の二次著作物制作を認める義務的ライセンスという考えだ。

実際には、Manes殿、たった今あなたが説明して見せたその理由によって、わたしの提案は1975年のルールを全く超えない。上に書かれている通り、当時は作品を登録しなければ保護はまったく受けられなかった。つまり誰でもあなたの作品を義務的ライセンスさえ必要なく利用できたということだ。よってわたしの提案は当時のルールほどラディカルではない。

要するに、もしレッシグランドで小説を出版して、著作権表示や登録をなおざりにしていたら、だれでもその小説を基にした映画を作れるということだ。あるいはテレビドラマでも舞台でも、キャラクターを使ったマクドナルド (nyse: MCD)のハッピーミールでもなんでも。再利用者はただ利益のわずかなパーセントを支払うだけでいい。レッシグはそのうえ、登録された著作物の著作権も制限することを提案している。

上記と同じ。

これは作品をライセンスする独占的権利はクリエーターのものであるという、長きに渡って確立してきた法律からの言語道断な逸脱だ。レッシグのいつもの主張と同じく、本当に新しいものを創造したクリエーターが馬鹿を見る一方、他人の作品を盗作する「クリエーター」にはフリーパスが与えられる。レッシグのオズの国では、世界の他のどの場所とも違い、白紙から創作を始めることは減点対象となる。ことによると彼は、参照でぎっしり埋まった法律文書こそ創造性の極致だと信じているのかもしれない。

これもまた非常に誤解を招く書き方だ。「長きに渡って確立してきた法律」では、登録・表示・更新といった手続きを満たさなければ完全に保護を失うことになっていた。つまり「作品をライセンスする独占的権利」など全くないことを意味する。わたしは古いシステムが煩わしく困難だったということは認めている――政府が運営するものに何を期待できるだろうか? だがわたしが本の中で説明したように、現在の技術を利用すれば、それは煩わしくも困難にもならずに済む。そして政府によって運営される必要もない。

レッシグが採用するモデルは歌の「カバー」版の仕組みであり、オリジナルのアーティストに一定の料金を払えばだれでも制作できるというものだ。だがレッシグはこれが実演の権利にだけ適用される特別な例外であり、演劇などの他の表現には適用されないということは省略している。

この部分で読むのをお止めになったようですね、Manes殿。わたしはそれらのどの部分も省略していない。Trevor Smithが作った、直接パラグラフにリンク可能なバージョンを参照してみればいい。わたしははっきりとカバーの権利を音楽作品だけに限定している。そして続く段落で、この権利がどれほどユニークなものか説明している。

そして曲の歌詞を基にして映画を作る場合には、法律は他のすべての場合と同じように機能する:許可を受けなければならない。

そう、許可だ。より多くの許可、もっとたくさんの許可!

作品がどのように利用されるか決定する独占的権利がクリエータに与えられる理由のひとつは、クリエータに手綱をとらせるためだ。映画や演劇を制作するなら、気に入ったスタッフと一緒にやるなり、一番高い値段をつけた相手に売却すればいい。結局、創造したのはクリエータなのだ。独占権はまた、競合するバージョンに台無しにされる危険を冒さずにプロデューサが大金を投資できるようにする意味もある。

すでに書いたように、わたしはこうしたケースでの派生物制作権に反対していない。もしかするとまた見落としたのかもしれないが、Mr. Manes。

これは長年のあいだ問題なく機能してきた。だがレッシグはこれが建国の父祖たちの考えと異なるという理由でなにか間違いを見つけだす。建国の父祖たちの時代には「メディア」といえばほとんど印刷物だけに限られていた。

レッシグが批判的検討を免れてきた理由のひとつは、彼が耳障りのいいキャッチフレーズ作りの名人だからだ

明らかにわたしが話すところも教えるところも一度も見ていないようだ。

彼にかかれば何もかも単純なことになってしまう。

待った。「単純なこと」と言っていたのはそちらだったような気がするが。

残念ながら、これは複雑な問題なのだ。これこそ考え深い法学教授たちがお粗末なインタビューをしがちな理由だ。だが真実は、著作権は総じてうまく機能しているということだ。著作権は時代と共に新しい技術に――特に潜在的な著作権侵害に大きな可能性を与える技術に――対応して変化を重ねてきた。著作権が保護するのは寝室でソフトウェアを開発する子供であり、指輪物語のような壮大な映画の製作者であり、着信メロディーの提供者であり、そしてあなたでもある。もしあなたが何か他の人々が欲しがるものを創造したなら。同時に著作権は、大量の無害で有益な侵害をそのまま見逃している。

なるほど。

だが著作権にも常に改良の余地があり、訴訟ではなく立法がそれを達成する伝統的な方法だった。

まったくだ。RIAA[米レコード協会]にそう言ってやるのを忘れずに。

ラディカルな異端派のレッシグは、自分の気違いじみた提案を議会が取り入れる望みはないと知っており

スティーブ・フォーブスも支持を表明している提案のことだろうか? かれもまた「ラディカルな異端派」に属する「馬鹿」で「間抜け」で「低能」なのだろうか?

再び法廷へ戻り、28年の歴史をもつ法律に向かって、憲法修正一条に反する部分を含むゆえに違憲だと主張している。

その通りだ。われわれはBrewster KahleとRick Prelingerを代表して、1964年以降の著作権をすべて自動的に更新するという、議会が1992年に下した決定の無効を求める訴訟を提起している。

歴史的に、著作権者の少なくとも85%は一度もその著作権を更新しなかった。にも関わらず、この議会の決定によってあらゆる著作権が自動的に延長された。おかげで絶版となった作品のデジタルアーカイブを作ろうとしているBrewsterや、ネット上で映画を利用可能にしようとしているRickは、それらの著作権の現在の保有者を捜索しなければならない。だが、RickとBrewsterにはあなたからのアドバイスを確かに伝えておこう。「単純なことだ」と。

だが前回の裁判でRuth Bader Ginsburg判事がレッシグに平手を見舞ったように、

また暴力ですか、Mr. Manes。

「憲法修正一条は表現者自身の言論、もしくはそれを拒む自由を保護するものであり、他者の言論を利用する場合にはより軽く適用される」

Ginsburg判事はこうも述べた:「議会が伝統的な著作権保護の内容までは変更していない場合、憲法修正第一条に基づくさらなる審査は不要である」。今回の訴えはすべて、議会が「伝統的な著作権保護の内容」を変更したことに対するものだ。わが国の歴史始まって以来201年のあいだ、更新手続きのフィルターを通過しない著作権が延長されたことは一度としてなかった。議会は1992年にこの伝統を変更した。われわれは法廷がこの変更を修正第一条に照らして審査することを望んでいる。

創造性に関する主張のどれをとっても、レッシグはいかなる本物のクリエータの味方でもない。彼が著作権への猛攻撃で擁護するのは、著作権のある素材を直接再利用せずには何ひとつ作り出すことができないからといってコピーを「創造」だと言い張る惨めな拾い乞食どもだ。(ディズニーの再利用に関する作り話の創作だけは例外だが)。ミッキーマウスがパブリックドメインに叩き込まれて初めて、彼らの本当の「創造性」とやらが解放されるのだ。

まあ、わたしはそんなことは主張していないが、すくなくとも私の名前の綴りだけは正確だ。

当然ながら、もしあなたがラリー・レッシグという名の法律屋か、彼の愉快な仲間たちの一員でない限り、なぜコピーが創造行為である一方で独創性が僅かな保護にしか値しないのか理解できる望みはない。

コピーは知識と文化を広める――そして憲法の起草者たちは「限られた期間」の後はそれが制約なしにおこなわれることを望んだ。Manesの主張は憲法の起草者たちに対するものだ。また独創性は大きな保護に値する。わたしの本のどこにもそれに反対するところはない。

レッシグは私が明らかに本を最後まで読んでいないと主張した。予想よりも長い時間がかかったことは認めよう。余白に何度も「この馬鹿!」「間抜け!」と書き込んでいたためだ。だが確かに最後のページまで読み通した。その直前で、レッシグはお得意の単純化しすぎた提案をしている:「弁護士を大勢クビにしろ」。

それは節のタイトルです、Manes殿。議論ではありません。わたしの議論は最後の段落にまとめられている:

法は文化の一定の領域は規制すべきだ。だがそれは規制が善をなす部分だけに限られるべきだ。それでも法律屋たちがその力や彼らの利用する力を「それは善をなすのか?」というシンプルで実際的な問いでテストすることは滅多にない。法の範囲を拡大するかどうかについて問われた弁護士の答えは「なぜ悪い?」

われわれは「なぜ?」と尋ねるべきだ。あなたの主張する文化への規制はなぜ必要なのか、そしてその規制はどんな善をなすのか。このふたつの問いへの答えがない限り、法律屋たちを近寄らせてはならない。

これにも反対だと解釈しておこう。

[オリジナルポスト 4月2日午後8時10分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
運営事務局に問題を報告

最新ブログエントリー