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知的財産の論理

2004/03/24 06:28
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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いまとなってはあまりにも出遅れてしまったが、しばらくずっとこれについて考えている。これがバージョン1だ。

Scott Matthewsは才能あるコーダーだ。Andromedaの、また興味深い思考実験Baudioの作者であり、ファイル共有論争における価値ある貢献者(salon.com)ともなっている。

DaveのIPメーリングリスト(かつてはわたしも登録していたが、アドレスを変更する必要があってから復帰できないようだった――もはや興味深くなかったのだろう)に、Scottはわたしの意見とクリエイティブコモンズのあいだにある「矛盾」を指摘する投稿をしている。こちらがそのメールと、Dan Hunterによる返信だ[抄訳]。

Danは多くのことについて正しいが、Scottの知性についての評価は正しいと思ってはならない。

わたしの意見が必ずしもCCの意見ではないというDanの言葉は正しい(たとえば、CCライセンスは「永遠」だ。わたしはCCに「限られた期間」のライセンスを導入させることに失敗している)。また、CCは単に現行の著作権システムなかでひとつのライセンス・フレームワークを提供しようと試みているだけであって、法そのものを変革する仕事は他者に委ねているという点についても確かにDanのいう通りだろう。

だが、わたしの仕事に対するScottの批判に関しては、わたしは少々違う捉え方をしている。このことに気づくまでにはあまりに長い時間がかかったが、これがわたしの考え方だ。

Scott Matthewsは、すでに述べたとおりコーダーだ。優れたコーダーは論理的に考える。論理的に考える者にとって、ひとつの対象に強く適用される原則は他にも影響を及ぼす。例外はエレガントではない。

よって、例えばわたしのような人間が、知的財産の宇宙のなかのある部分について自由な利用、または強制ライセンスを推すとき、かれら論理的なタイプは、その原則がなぜひとつの領域に限って適用されるのかと疑問を持つ。かれらにとって、いったいなぜその原則がひとつの領域に限られなければならないのかは理解しがたい。考えとはミームであり、ミームは拡散につれ感染してゆく。だからこそ、かれら論理的なものたちは、それが別の分野にも適用されては困るという場合、あるひとつの領域における変化についても抵抗することになる。

すなわちかれらにとっては、The Grey Albumのような作品について強制ライセンスを支持することは、あらゆる創造活動に対して強制ライセンスの導入を主張することに等しい。あらゆる種類の派生作品を認める一般化された強制ライセンスへと至る、引き返すことのできない道へと一歩を踏み入れることと同様なのだ。

これはMatthews――コーダーにとっては正当な懸念だ。そしてJohn Grishamのような人間にとっても当然懸念すべきことだろう。かれの本を原作にした映画を許可なく(使用料は払うにしても)制作できる権利? 作品の派生的な利用をコントロールする権利は作者にあるべきだと(正当にも)考える広い範囲のクリエータたちにとって当然の懸念だ。

だがわたしは、この心配は誤解に基づいていると考える。著作権法そのものが、これが誤解だという最良の証拠だ。多くの人が繰り返し指摘し続けているにも関わらず、多くの人が見落としているようだが、音楽分野のある種の派生作品をカバーする強制ライセンスの権利は、95年前から著作権法に定められている。にもかかわらず、この権利はあらゆる著作物に対して一般化されてはいないし、そうなる様子もない。

ここでわたしがいう強制ライセンスの権利とは、もちろん機械的複製権[mechanical reproduction right]のことだ。これにより、音楽家には他の音楽家の録音された曲を「カバー」する権利が――法によって(間接的に)定められている使用料を支払う限り――認められている。

この権利がどれほど「ラディカル」なものか確認しておこう。

Grishamが小説を書けば、かれは独占映画化権を売ることができる。もしその権利が売られれば、他の誰もその小説を元にした映画を制作することはできないと法は定めている。単純なことだ。

だがもしGrishamが歌を作り、ひとたびその録音を許可したなら、だれでもその曲のべつのレコードを制作する「権利」がある。法定料金をGrishamに支払う限り。

この「カバーする権利」は"non-dramatic"な(演劇などの一部ではない歌・楽曲の)録音に適用される。以前にも書いたように、この作曲者の権利の譲歩こそ、音楽産業の発展にとって決定的な役割を果たしてきた(1967年のレコード業界の証言をもう一度読んでみること)。

結論はこうだ。派生作品をコントロールする作曲者の権利の、このラディカルな譲歩を良いと捉えるにしろ悪いと捉えるにしろ、この譲歩が著作権法全体に拡大されていないことは認識しなければならない。1909年には、これを支持する特定の論拠が存在していた。だがその論拠はどこにも一般化されていないし、その必要もない。強制ライセンスの権利を正当化する論拠が事実に即している限りは。

この事実は、コーダー的思考の持ち主に、はっきりと表明されるものであれ暗黙のものであれ、あまりに短絡的な一般化を警告するものだと思う。まさしく、著作権法に関するどのような一般化に対しても戒めとなるものだ。この法律は矛盾に満ちている――あるところでは正当な理由で、またあるところでは不当な理由で。だが歴史は、「わたしはXの分野に対する強制ライセンス制を提案する」という発言から、派生利用に対する権利すべてが変更されることになるという推論を支持してはいない。

[オリジナルポスト 3月20日午後5時40分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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