奇怪なことに、著作権法は権利者が自発的にコントロールを手放すことを非常に難しくしている。合衆国における著作権法の歴史ほとんどに渡って、著作権を放棄する無数の方法が存在していたが、いまではそれが可能かどうかさえ定かではない。
ある人々にとってはこれが問題となる。たとえばPaul O'Neill前財務長官に取材してThe Price of Loyaltyを著したRon Suskindは、裏付けとなる記録文書類がパブリックドメインにあることを保証することによって、だれでも自由に本の内容を検証または批評できるようにしようとした。原則からすれば、それら政府の公文書はパブリックドメインにあるはずだ。だがいつでも、誰かが異議を唱える方法はいくらもある――デジタル化によって別の権利が発生する、文書中の特別の記章には特別の権利が、などなど。それらすべてが、デジタル化された問題の文書の利用にいかなる法的コントロールも行使しないというSuskindの明解な望みを不確実にしてしまう。
Suskindはクリエイティブコモンズのパブリックドメイン・マークを利用した。われわれは文言を改め、著者がその作品をパブリックドメインに献じたこと、もしくはこのマークを付加した人物が、対象の素材がパブリックドメインにあることを保証するための手続きを踏んだこと(同時に、対象について主張したかもしれない権利を放棄すること)を表明できるようにした。
関連した取り組みはRSSの分野でも役割を果たしているようだ。しばらく前、Dave WinerはRSS 2.0の規格書をクリエイティブコモンズのAttribution-ShareAlikeライセンスで公開した。かれが述べる目的は、規格に対するコントロールを手放し、保持していたかもしれない支配力をすべてコピーレフトの条件へと変換することを示すためだという。
Suskindの場合については、そもそも素材に対してどんな権利をもっていたのかという疑問があるかもしれない。だが、わたしからすればそれは要点を外している。どちらの行動も、常識が通用しない不確実性の領域に明解さを確立するものだ。規格やプロトコルの発展と普及全体からすれば法的コントロールの問題は小さな部分のひとつにすぎないとしても、こうした取り組みは確かに不要な疑問を取り除くものだ。