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ラルフ・ネーダーへの憤りについて、最後のコメント

2004/02/18 13:12
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「CODE」「コモンズ」等の著書や「クリエイティブ・コモンズ」などで知られるスタンフォード大学ロースクール教授ローレンス・レッシグ氏のBlogの日本語版。著作権や特許などの知的所有権の問題やオンラインカルチャー関連のトピックスを紹介します。
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Ralph Naderを批判した(ここここここ)ことで多くの怒りを買った。わたしが憲法に違反したと考えるものさえいたほどだ。以下のエントリでわたしからの最後の返答を述べよう。どちらにもまだ言い分があることはわかっているが、わたしはこれ以上コメントする時間を取ることをWillem氏に禁じられているのだ。

すべてに答えることはできないし、乱暴な意見には答えない(無礼な言論にわたしが課すコストだ。これも修正一条違反だろうか?)

Aaronは最初のポストに多少追記している。かれが要約するとおり、その立場は「発言がもつ効果について人を咎めることは、法的にも道徳的にも間違っている」。

たしかに、「咎める」というのが法的な、たとえば罰金や訴訟を通じた処罰という意味なら、それはあきらかに間違っている(以前のコメントではこれを十分明確に伝えられていなかった)。だが、人を批判するという意味で「咎める」のが「道徳的に」間違っているというのなら、それには同意できない。自分が尊重する価値に害をなす人々を批判するのは道徳的な義務だ。Naderの立候補はその通りのことをおこなうだろう。

JB Nicholson-Owensは次のような正当な質問をした。「一体なぜ、選挙に出るために、あなたが支持する候補者の害にならないことを証明しなければならないのか」。これは一般化しすぎだ。候補者一般が出馬の言い訳をしなければならないとは思わない。だがもし立候補が勝者を決定するなら――自分でも、共通する主張をもった候補者でもなく、支持者も自分もあきらかに反対している候補者を勝たせることになるなら、その時は出馬の理由を正当化する必要がある。なぜなら発言は同時に行動でもあり、行動は結果を伴う。そして行動の結果を説明する義務は、その結果を招いたのが単なる言葉だったというだけで免れうるものではない。それは法的な処罰の対象ではないし、そうあるべきではないが、法律がモラルの領域のすべてではない。

Phillippe Mouginは、Naderの出馬が長い目でみて及ぼす影響は、短期的な代償に値するのではないかと尋ねた。たとえば、Naderの出馬によって民主党が環境などの問題をより重視するようになるのではということだ。

それが立候補の意義であることは理解している。Naderがそう主張するなら、かれの行動を正当化する大きな理由になるだろう。それが十分だとは思えないが――おなじ長期的な影響は、選挙を無駄にせずとも得られるとわたしは考えているからだ。また、それが今回の大統領選を犠牲にするほどの価値があるとも思わない。だが、すくなくともこの主張は考慮に値する。

Ernie A.を含めた数人は、2000年の大統領選では、仮にNaderが投票日を前に辞退を表明していたとしても結果は変わらなかっただろうと信じているようだ。わたしの批判はもちろん反対の見方に基づいており、もしそれが間違いであれば、Naderへのわたしの批判も間違いということになるだろう。だがコメントとして寄せられたいくつかの有用なリンクによって、わたしは2001年に得た確信をさらに強めている。

Bruceは、(彼のいう)「政治的過失」がNaderにあるとするわたしの主張は「馬鹿げている」という。Naderには過失もたしかにある。また繰り返しになるが、わたしは法的な責任を主張しているのではない。だが、問題は単なる過失にとどまらない。投票日直前の週末におこなわれた世論調査によって、危険の存在はだれの目にも明らかだった。わたしが主張しているのは、もし発言を含む自らの行動が大きな危害を及ぼすこと、またそれが避けられることを知りながら、あえて避けようとしなかったならば、その判断について批判を受けてしかるべきだということだ。わたしが責任の理論を持ち出したのは、かれにどんな意味での責任があるのかを説明するためだ。しかし、ただひとつの本当の問題は、Naderが批判を受けるべきか否かだ。彼を批判することは「検閲」にあたるといったのはNader本人だ。

SusannaとJasonは同等に有力な議論をしているが、これもまた、少なくともわたしの論点からは外れている。Naderを批判することは、Goreを(あるいはClintonを)批判しないことではない。もちろん他の候補者たちは、Naderが当選者を決定するような事態を招かないようにもできただろう。わたしは民主共和どちらの党にも多くの同意できない点をもっており、二大政党による支配を強化したいとは思っていない。

しかし政治的行動はただの象徴ではすまない。それは結果を招くものだ。そして責任というものに対する私自身の考え方――それゆえに、わたしはさまざまな理由から多くの眠れない夜を過ごしてきた――からすれば、なんらかの発言や行動の前には常に、それが自分の強く信ずるものに害を与えることがないかどうか自問しなければならない。ほとんどの場合、われわれの大部分にとって、この問いに答えることはたやすい。ほとんどの場合、われわれの大部分にとって、決断はいずれにしろ大した違いを招きはしない。だがもしそれが問題になる場合、みずからの言葉が大きな違いをもたらす場合には、なにを発言するか、あるいはしないかに責任を持つべきだ。

これらはすべて2000年の大統領選に関してのことであり、今の問題は2004年だ。われわれは、ふたたび接戦が予想されていることを知っている。また今回の大統領選には、Naderに近い立場をとりながら、はるかに明晰で情熱的な、力強い候補者が出馬していることも分かっている:Dennis Kucinichだ。そして自由貿易に関する話を除けば、わたしはDennisの主張こそ正しく有効なものだと誰よりも思っている。だがそれでも、われわれは彼の主張に投票で報いることがない国に生きている。Naderの主張もまた、かれを大統領にするために十分な票で報われることはない。そのかわり、それはBushを再選させるには十分なのだ。

それを実現させる行動をおこすことは、私の意見では、間違っている。そして最初のポストで述べたように、それが間違っていると告げることは、言葉のどんな意味においても「検閲」にはあたらない。

ああ、ところで、Ken Hirschが書いていたが、結局Corvairは欠陥車でもなんでもなかったようだ。

[オリジナルポスト 2月15日午前8時47分]
※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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