あけましておめでとうございます。
年始のご挨拶(リンク)の通り、元旦は国立競技場におりました。中に入って観戦するのは初めてでした。
観戦しながら、昔の国立を思い出していたんですけど、あれはなかなかボロだったんだな、さすがにあれでオリパラは無理だったかもしれないな、と思いました。昭和世代なんで、当然ながら趣は感じるんですけど、やっぱりなんぼなんでも、ね。
一方、新しい国立はどうかというと、デザインは相変わらずザハ案に魅力を感じる私ですが、新しいだけあって、さすがにきれいです。VIPゾーンしか体験していないヤツが何を言うかと怒られそうですけど、可能な限りあちこちをジロジロ拝見した限り、たぶん全般にきれいで現代風だと思います。
ただ、コスト削減の余波は、あちこちで感じられました。VIPゾーンでも手すりが鉄パイプだとかね。まあそういうミニマルな感じも個人的には嫌いではないんですが、狙ったミニマリズムではなくて「やむを得ない感」があって、ちょっとチープかな、と思ったりしました。
何を言いたいかというと、たぶんこれでも「贅沢は敵だ」的に言われてしまうくらい、我々は貧しさを是認してしまっているのかもしれない、ということです。気がつけば、私たちの身の回りにあるものって、結構古くてボロくなってきているんですよね。
ちょうど先ほど終わった箱根駅伝を先導した警視庁のバイクが、BMWの電動バイクだったという話を見かけて、ふと思いついてこんなことを書いています。
https://kuruma-news.jp/post/332428
もしかしてぼくらって、新しいものを作れなくなってるんじゃないかな、ということです。そしてそういう現実を正当化する論調も、すでにあちこちで見かけます。
たとえばEVの話をするとき、先日の豊田自工会会長の記者会見を引いて「EVとか夢語ってるんじゃねーよ産業ぶっこわれるぞ」みたいなアンチテーゼをよく見かけます。言いたいことは分かりますが、これまでのパラダイムをキャッシュカウにして稼げるうちに、新しい社会と産業の在り方を同時に構想して成長を模索しないと、いずれじり貧です。
で、じり貧になったその時に、「かつての国立競技場もまだまだ使える!!」みたいな論調と一緒に全員で沈んでしまうんじゃないのかなと、そんな心配もあるんですね、ぼくの心の中には。
実際には、全員で沈むなんてことは幻想です。経済が成長を止めると、格差がものすごく広がります。成長を止めた時点で、資産とリテラシー(これも一種の無形資産ですね)を持つ人とそうでない人の間で、機会を得られるか失うかという、絶望的な格差が広がる。人だけじゃなくて、地域間格差とかも、同じですね。
まあ、一億総中流が内閣府調査(当時は総理府かな)によって作られた幻想であって、もともと格差は結構あったんだという論考が結構有力です。そしてもしかすると、現在が最も格差が小さい瞬間かもしれない。だとするとなおのこと、このあとはジェットコースターだろうな、という気もするわけです。
なので、もうちょっと真剣に成長を指向しないと、いろいろな格差が一層激しくなって、社会がこれまで以上に壊れそうだと改めて感じている、2021年三が日最終日の午後です。