年の瀬である。2020年はいろいろなことがあった。多くの人がそれには言及するだろうから、ここでは触れない。むしろ変化の激しい時だからこそ、変わらないことに目を向けたい。
たとえば、高齢化。私達の社会は相変わらず高齢化している。実際、私の周りでも、ここ数年で高齢者そのものが目立つようになり、彼らを対象としたサービスや、また彼らによって引き起こされるトラブルが増えたように感じられる。
東京の都心部で子育てをしながら暮らしていると、まだ子供をちらほら見かける機会が多く、感覚としては少し鈍っているかもしれない。おそらく私の住んでいるこの地域が例外であって、日本全体としては高齢者しか見当たらない地域の方が多いのだろう。統計を見るとそう読める。
厚生労働省の予測によると、2025年には人口の1/3が高齢者だという。そしてその高齢者の1/5が、認知症を患っているともいう。いずれも堅牢な予測である。3人に1人が高齢者、15人に1人が認知症、という時代が、あと5年でやってくる…違った、あと4年だ。
これはこれで、功罪は両面あると思う。私は経営コンサルタントを生業としているので、こういう環境変化には「対応する」ということがビジネスだと心得ている。課題は機会なのであって、ビジネスの観点では、変化は必ずしも悲観することではない。
ただし、人間そのものの特性を見つめてみると、やはりこれは厄介な時代になるかもしれない。それは、自らがそこそこの年齢に達し、自分自身や周囲を見渡してみた時に感じることからの、予感である。
よく、大人になると自分の間違いを周囲が正してくれなくなる、と言われる。だから大人は自分で自分のことに気をつけるべきだし、窘めてくれる人を大切にすべし、という趣旨である。
確かに、それは本当にそうだな、と思う。私の記憶が確かならば、自分の間違いを窘めてもらえるのは、せいぜい30代までだろうか。40代になって、誰かから窘められることが減った。
その減少に気づけたからこそ、以前に比べれば言動を慎重にできたような気がする。最低でもファクト、できればエビデンスがある話しかしない。エビデンスについては問われればすぐに開示できる状態にするし、開示できないファクトでも「確からしさ」を説明する。そういう慎重さを「つまらなくなった」と言う人もいるだろうが、そんな無責任な物言いは笑って聞き流すのが吉であろう。
さておき、これは自分の外部に対する態度でも同じで、つまり私が誰かを窘めることが減ったのである。かつてはお節介どころか些か迷惑なくらいにいろいろ物申していたような気もするが、最近は本当に「この人は助けなければ」と思う場合にしか、そういう態度を取らない。
ここからは自分で考えた勝手な仮説なので、そのくらいで読んで欲しい。
おそらく大人の思考というのは、それなりにいろいろな要素を積み上げて成立する、いわば壮大な積み木であって、たとえそれが間違っていたとしても、それを指摘して積み木が崩れる時の影響が大きい。そしてその影響は、逆恨みのようなことも含めて、面倒な返り血として指摘した側にも及ぶ。
この返り血の面倒さは、相当なものである。何しろいろいろな社会関係に影響が及ぶ。そしてその手間は単純に時間とコストとして費やされる。仕事にも食い込むし、場合によってはプライベートのリソースも食い潰される。そんなことで家族と過ごす時間を無駄にするなんて、愚の骨頂だ。
大人とは、自分という資源の有限性に気づき、何にその資源を割り当てるかを考える人たちである。少なくとも大人は、そういう責任を負っている。だからこそ、それがどんなに間違っていようと、丁寧に積み木を組み上げようとする。そして自分という資源の有限性を知っているからこそ、その積み木を崩すことによって生じる影響を予測し、そこに資源を割り当てる余裕がなければ、どんなにそれが間違っていようと、正そうとはしない。
そんなが仮説がある程度は妥当だとすると、ここでさらに一つ、厄介なことが想起される。そんな大人たちばかりの社会は、おそらく間違った積み木が多く組み上げられた社会なのではないか。
間違った積み木は、構造が脆弱である。だから本来ならば、大人ではない存在によるちょっとした揺さぶりによって、どこかで崩れる。しかし、その「大人ではない存在」が統計的に減少していることによって、揺さぶりの絶対量が減り、構造の脆弱な間違った積み木が、崩れそうで崩れない状態のまま大量に残存する。
そうした積み木が崩れる時、その影響はとても大きく、返り血の洪水のようになるだろう。そしてそんな積み木が大量に残存する以上、洪水もまた頻発する。そうして我々は消耗に次ぐ消耗の中で、余生を過ごさなければならなくなる。そういう社会が、これからの日本の姿なのではないか。
もちろん、そんな未来にしてはいけない。しかしすでに手遅れのこともある。さて、どうするか。
そんなことを、年の瀬に考えている。