上野千鶴子さんの東京大学入学式の祝辞が話題になっています。
平成31年度東京大学学部入学式 祝辞
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
文字で読んだだけなので、現場での印象はさっぱり分かりません。なのである意味「コタツ評論」です。その前提で、論旨はそれなりに「なるほど」って思うんですけど、ぼくはつい先日の卒業式祝辞の方が、内容的にはずっと好きだなあ。
平成30年度東京大学卒業式 総長式辞
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message30_10.html
あくまで私見ですが、若者というのは常に未来志向であるべきで、そのためには現実の問題から少しだけ離脱していてもいい、と思っています。それは言わば学生の「特権」なんだけど、そうした特権を有限に認めることで、「なんで?それおかしくない?」というつぶらな瞳を備えた若者たちが育まれるはずだし、そうした経験をした若者こそが、新しい社会を作れるんじゃないかということを、期待しているんです。
逆に、そうした特権を認めないと、社会なんて現実の劣化コピーに溢れるわけですよ。なにしろ現実の圧力って強いし、若者は弱いもの。みんな若い人に「もっと積極的になれ」って言うけど、実績ゼロで自信はマイナスなんだから、そりゃ酷な話です。
そういう学生たちが、経験を積んでいずれ責任を負うときに思い出してほしいのは、上野さんのような物言いではなくて、五神総長のような主張や言い方、もっと言えば総長が式辞の中で引いた見田宗介の"consummatory"の視点の方であるべきなんじゃないかなあ、とそんなことを思ったわけです。しかもさすが総長だけあって、「この言葉を私たちはどのように日本語として訳するのか」という難題を示している。
あともう一つ、娘を育てる親として日本社会の女性の地位にはそれなりに真剣に考えるようになり、上野さんの論旨は首肯するところも多いです。しかしその危機感を自ら強めたからこそ、むしろ「あなた(上野千鶴子というクレデンシャルを持った人)が、そこ(東京大学の入学式)で、言うべきなのか?むしろ目的の達成には逆効果ではないか?」という気がするんですね、申し訳ないんですけど。
ま、すべては、主観です。いろんな方のいろんなご意見があると思うし、それを喚起したという一点において、上野さんの祝辞には(学生のためになっているかはさておき)副次的な効果や意味があったと思います。
そしていずれにせよ、若者に幸多からんことを、ちょうど20年前に学生生活を終えた人間として、願っています。
【2019年4月14日(日)13:55追記】
facebook上でいただいたご意見(
外部リンク)を踏まえ、それからさらに考えを足してみますと、
上野さんの物言いは、昔からずーっと変わらず、「誰に」の視点が欠如しているのだと、ぼくは思っています。だからうっかりすると逆差別にもなる。それを彼女は十分以上に自覚しているはずで、ゆえにおそらく見田宗介の弟子筋である小熊英二から「活動家としては正しい」という批評を受けるに至るのではないかと思っています。
ぼくが記憶する限り、彼女が本当に他者へのまなざしを備えながら物を申したのは、「アグネス論争」しかありません。もしかすると他にもあるかもしれないからその場合は申し訳ないですけど、それ以外はほとんどが「誰に」がない。常に「女性」という想像上の産物に向けられています。
当然ですが、女性という属性(または記号)の下で、人間はもっと多様かつ複雑であり、そこにこそ「痛み」が存在しているはずです。しかし上野さんが論じるのは多くの場合において、そうではない「女性という記号で表される何か」だった。それこそが、活動家の活動家たる所以に思えます。
もちろん、そんな活動家を全否定するつもりはなく、時としてそれが社会を好ましい方に動かすこともあります。また活動家が国立大学の入学式の祝辞を贈る自由は保証されるべきです。一方でそれをそのように受け取る準備が入学したての学生たちに備わっているとは思えないし、「誰に」の視点が欠如している彼女もそれを配慮するはずもない(そして実際にそうした演説になっている)。
たぶんこの祝辞の内容を(ぼくも含めて)ある程度でも評価しているのは、若者ではない人たちなんです。そしておそらく学生たちは、置き去りにされている。彼らが主役である入学式において、そうした自由が認められる以上、それを「つまらない」と表明する自由も、あるいはたかだか数週間前だったがゆえに、総長が引いた"consummatory"の話と比べて見劣りしたと表明する自由もあるのではないか、というのがぼくの所感です。
それに加えてさらなる敷衍としては、結局、誰しもが上野千鶴子を甘やかしてきたんじゃないのか、だからこんなふうに捻れたまま問題が硬直化しちゃったんじゃないのか、ということです。特に彼女が提起した問題そのものは日本社会において深刻であるがゆえに、なおのこと彼女を甘やかしたことがその問題解決を遅らせたのだとすると、娘を持つ父としては些か受け入れがたい、という思いもあります。
そしてこう書いてみて気づいたのは、もし日本社会が上野さんを甘やかしてきたとして、それが「うるさい女はしゃべらせておけ(そして放置しておけ)」という態度表明とそれに基づく合意形成の結果なのだとすれば、もはやその構造自体が日本社会の病理に近くて、なおかつ割と絶望的であるようにも思えます。これが私自身の思慮の浅さに基づく杞憂であることを願うばかりです。
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