あー、ルミネ、削除したんだー。
ルミネが“女性応援CM”炎上で謝罪 YouTubeの動画も非公開に
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1503/20/news118.html
「ルミネがWebで公開した“女性応援CM”が炎上していた件で、ルミネは3月20日、公式サイトで「この度は、弊社の動画においてご不快に思われる表現がありましたことを深くお詫び申し上げます」と謝罪しました。併せて、動画も現在は非公開になっています。」
ネットで不快感を表明されていた皆様、おめでとうございます。「消すなんて卑怯」「むしろその対応が女性軽視」みたいな声も少々聞こえますが、一つ一つの不快感の表明がソーシャルメディアで束になれば「バルス」という滅びの呪文になるのは自明ですし、堂々と勝ち名乗りを受けるべきだと思います。
一方のルミネの対応も随分と早かったですね。なにしろそれなりにお金がかかっている以上、「即刻全部ナシにする」って、企業としてなかなかできない判断だと思います。
束になったネットの声によって発火した炎上に、マスメディアが乗っかり、それがさらなる延焼を呼ぶという、最近の日本の情報メディアにおける「ありがちな構図」も、意識されるようになったのかもしれません。
ルミネ “不適切な表現” でPR動画を削除
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150320/k10010022631000.html
ルミネが動画を謝罪 セクハラと非難集まる
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0114031.html
かくいうぼく自身も昨日まで、TBS系列の朝の情報番組「いっぷく」で、金曜のコメンテーターを務めていたので、その先棒を担いでいた人間の一人ではあります。しかし、北海道新聞まで扱うというのが、いろいろ興味深いですね。ルミネって北海道にあったっけ。
そしてこういう展開になると、仮にキャッシュやコピーや二次生成物が残っていても、オリジナルが消えていたり、検索エンジン等の情報が集約されるノードからのリンカビリティ(linkability)が低下しているというのは、それなりに意味があるのでしょう。
「忘れられたい・忘れてほしい」というのは、それはそれで一つの正当な意志表示です。それに対して「いつまでもどこまでも忘れない」というのは、個人的な思想信条としては当然認められるものの、社会的にどこまで許容されるかは、議論されてしかるべき問題です。
このあたりの議論は、スペインのゴンザレスさんの社会保障費未払いと不動産競売という話から始まった、欧州の「忘れられる権利」の議論を横に置きながら考えてみると、さらに味わい深い話ではありますが、それはまたいずれどこかで。
それにしても、SUICA履歴の転売、東京駅100周年記念SUICA、そして今回のCMと、JR東日本グループの皆様はこのところネット民の琴線をアルペジオしまくっているように見えます。
これはJR東日本グループ固有の問題なのでしょうか。そうかもしれませんし、さらにいえば大きいグループゆえにいずれも別セクションなので、グループの問題ではなくそれぞれ「たまたま」という可能性もあります。
しかしもう少し一般的な問題として考えるべきではないか、という気もしています。消費者と対峙する際の基本的な態度について、企業側に変化が求められているのではないか、とも思えるのです。
それこそ鉄道会社のような「マスプロダクションそのもの」という企業であっても、すべての消費者には人権があり、それを尊重することが求められるという、日本企業がこれまでおざなりにしてきた問題が、ソーシャルメディアによって可視化された消費者の声によって、突きつけられているのかもしれません。
ただ、だからといって、ソーシャルメディアの声に闇雲に従えばいいのかというと、それもまた違うのでしょうね。ソーシャルメディアで声を挙げる人はそもそも消費者全体の中ではマイノリティであり、それだけに従うと「声の大きな人が世界を制する」という修羅の国になります。
そういう意味でも、人権を考えるということは、企業が消費者という人間と向かい合うための哲学と倫理を持たなければならない、ということなのでしょう。こうなると、日本企業(さらにいえば日本の市民)にとって、猛烈に難易度が上がりますが、でもそういう時代なのだと思います。
とりあえず、安易に彼らを悪者にして、リベラルを装うことはせず、もう少し考えてみたいな、と思いました。