少し前に『「あきらめなければ夢は必ずかなう」ほど悪質な言説はない』という物言いを目にして、ふと思ったことなど。
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まず「努力すれば夢がかなうとは限らない」、つまり努力してもかなわない夢はあるというのは、普通に考えれば当然のことです。たとえば三十路の後半を迎えた男である私が、どんなにがんばっても女子ソフトボールの日本代表に選ばれることはないわけです。そう考えれば、ごく当然のことを述べられているに過ぎない、とは思います。
ではこの物言いの主は何を言いたかったのか。文脈から察するに、「夢がかなう」という甘言で誰かに努力を強いるのはなんと罪深きことよ、ということのようです。では仮にそうだとして、それは妥当と言えるでしょうか。
私は、夢をかなえるためには、努力の積み重ねの上に幸運(ラッキー)が必要だと考えています。
これは議論の前提として、努力の積み重ねだけで到達できそうなことは〈夢〉のうちに入らない、と定義しているということの裏返しです。実際、健康な成人がちょっと太って、いまから夏までに5kgくらい痩せたいな、というのまで夢に含めることはできません。それは単に「黙って喰わずに走ってこい」というだけの話です。
ちなみに、こうした見立ては、結構大事です。3-4ヶ月で5kg痩せるというのも、体重が40kg台の人にとっては相当困難かつ危険ですし、また運動や食事制限の経験がまったくないまま100kg台後半に達してしまった人も同様です。あなたにとって鼻歌交じりに5分でできる仕事も、新人にとっては1日を要してもできない仕事、なのかもしれません。このあたりの目標設定と進捗のモニタリングは、マネジメントの基本的な所作といえます。
閑話休題。健康な人が無理なく目指すダイエットではなくて、努力だけではどうにもならない、何か幸運がないと届かない、そういうものが〈夢〉なのだと、私は思います。
だとすると、夢をかなえるためには、やはり努力が必要です。さらにいえば、必要な努力を限界まで重ねたところで、はじめて幸運をつかめるかもしれないチャンス(挑戦権)が訪れるのでしょう。ならば、努力を促すためのニンジンとして夢を掲げるのは、一つの方法として悪いものではない、ということになります。
というわけで、ここまでの議論であれば、冒頭の議論は「でもまあアリじゃね?」ということになります。ただ、その行間にある「夢で努力を強いる風潮に物申す」という気分も、確かにそうだという気分になります。それはなぜでしょうか。
一つは、夢をかなえるための幸運をつかむチャンスを得るために、どの程度の努力をしなければいけないかが、定量的にも定性的にも定義されていないということ。いわば、どれだけ走ればぶら下げられたニンジンを食べられるのかが分からないまま、ずっと走れと言われているようなものです。これでは馬は死んでしまいます。
そんなことは定義できない、という向きもあるでしょう。確かにそういうこともあるかもしれません。しかし定義できないなら、闇雲に努力を強いるだけです。それは単なる根性論であり、いわば玉砕主義です。努力という過程は大事ですが、過程は結果が出てからはじめて吟味され、評価されるものです。ちなみにこれは反対もしかりで、過程をおろそかにして手に入れた結果は、価値が劣後します。
もう一つは、努力を重ねて幸運をつかめるチャンスを得たにもかかわらず、夢をかなえられなかったという不運に対して、救済の見通しがないということ。ヘタをすればそんな不運に対しても「努力が足りない」という言葉が投げかけられそうな、そういう空気に対して、冒頭の議論は抗っているのかもしれません。
これは本来、実に大切なことです。すべての準備が整ったのに夢がかなえられないというのは、残念ながら現実としてはしばしばあることです(だから私は幸運が必要だと思うのです)。そして私たちはその結果に対して、挑戦者を十分に労うと同時に、再起を促したり、場合によっては諦めさせなければなりません。そうでなければ、不運の挑戦者を待ち受けているのは、おそらく死という結末だけです。
何を、どうやって、どれくらい、何のために、がんばるのか。そして、チャンスを得たにも関わらず夢をかなえられなかった挑戦者に、「そして人生は続く」ということを、どう納得させるか。
このあたり、最近の私たちの社会は、いずれも苦手としている分野でもあります。しかし苦手だからといって、そこから逃げていては、いずれ挑戦することさえも諦める向きが台頭してくるでしょう。日本がベンチャーを興しにくい社会なのだとすれば、金融や事業の環境ではなく、こういうところに根っこの原因があるのだと思っています。
なお蛇足ながら、そうした社会特性について「日本は昔からそうだった」とは言えないと思っています。それを滔々と語れるほど歴史に明るくはないのですが、産業界の諸先輩にいろいろお話をうかがう限り、戦後しばらくの間はそうした「合理的なヒューマニズム」を社会が共有していた時代はあったはずです。そしてそうした要因もあって、その時代に様々な新産業が勃興したのではないでしょうか。
まとめると、「努力すれば夢はかなう」という物言いそのものには罪があるわけではない、けれど、努力を定義して挑戦することが必要で、そして夢がかなわなかった時にどうするかを、諸々全部セットで考え続けなければならないのだと、私は思います。