少し前に、37歳になりました。
「久しぶりの素数だ、わーい」と一人おどけてみて、この前の素数から6年が経過したことに気づき、いろいろ思いに耽ってみました。
6年前、私はまだ三菱総合研究所の会社員でした。ただ、その年の終わりに、会社を辞めて独立することになります。委細は割愛しますが、会社が悪かったということでは決してありません。ただ、おぼろげながらも考えていた、自分にとって好ましいと考える生き方との折り合いがつかなくなった、というところです。
転職も当然考えました。すでに結婚していた手前、いくら兼業で当時は子供がいなかったとはいえ、収入の安定は大事なことです。ただその時、いろいろなことをすべて飲み込んで、「まあやってみたら?」と家人が背中を押してくれたことで、転職ではなく独立という決断を下せたという背景があります。
独立後しばらく、概ね順調に仕事を進めるようになって、家人にこの時のことを聞いてみたところ、まああまり考えていなかったけどね、と笑いながら「失敗してもどうにかなる年齢だったし、我慢を重ねて心身を傷めるくらいなら、一度好きなようにやってみた方が、いろいろ納得できるだろうから」と、冷静に判断してくれていたのでした。
恥ずかしい話ですが、この時はじめて「誰かのために生きる」ことの喜びを知ったのだと思います。家族がいて、自分のことを肯定してくれる。だとしたら自分はそれに応えたいし、自分にとって好ましい生き方をすることが、家族に対して報いることにもなる。帰る場所があるということの意味というのは、多分こういうことなのだろうと思った次第です。
以来、馬車馬のように働きました。いまでは朝4時に起きて仕事をし、月に一回は欧米のどちらかに出張する--そんな生活を送っております(このエントリもバルセロナへ向かう機内で書いたものです)。コンサルティング業界の残業時間の多さは有名なところですが、結果的に会社員の頃よりも猛烈に仕事をするようになり、「もう少しラクな生活を」という目論見は崩れましたが、充実はしています。
もちろん独立してから、仕事上の失敗もありましたが、致命傷に至ることなく、また幸いなことに家族を含め健康で、総じてここまで順調にやってこれました。独立後ほどなくして設立した法人の共同経営者である渡辺聡氏をはじめ、取引先や諸先輩等、とにかく人の縁に恵まれたこと、そして家族が私のわがままを許してくれていることが、何より大きいと思っています。
また私のようなピン芸人を、政府、通信事業者、放送事業者のような巨大企業や、総合商社や投資銀行等も含め、様々な企業が取引先としてフラットに受け入れてくれるようになったという、社会環境の変化に、ものすごく助けられたと思っています。おそらく10年前であれば「どこの馬の骨?」と思われたでしょうから、私自身が現在もこうして自立できていること自体、日本の経済社会も柔軟に変化した証しともいえそうです。
そしてそれは、ITの発達と普及による正常なレバレッジによって、大きく支えられていることでもあります。比喩的に言えば、自動車が普及してタクシーが生まれた、といった流れの中に、私自身も助けられているのでしょう。自分都合で独立した以上、すべてはたまたまの結果論ですが、いろいろな歯車が噛み合っていることを、日々実感します。
いろいろなラッキーとタイミングが重なり、その中で私なりに努力を続けたことで、ひとまずここまでやってきました。そんな中、最近改めて思うことがあります。それは「私に何ができるのだろう?」という自問です。
振り返れば、節目を迎えた時に、いつもそんなことを考えていました。前職の三菱総研に入った直後の駆け出しだった頃、退職から独立直後にかけての頃、少し前に政府からとある重大なミッションを与えられた頃。そして今、改めてそのことを考えるのは、いくつかの理由があります。
まず単純に「いい年齢になった」ということ。弊社はピン芸人の寄り合い所帯なので、部下というものが明確に存在するわけではないのですが、手本を示したりマネジメントの役割を期待されることが客先で増え、自分やそのカウンターパートナーが満足すればいい、という程度を超えるパフォーマンスを、明に暗に求められるようになりました。
特に、企業のトップマネジメントと直接向かい合うことが増えると、その先にある組織全体に対して、自分がどんな価値を提供できるのか、自ずと強く意識するようになります。とはいえすべてを受け止めると、責任が重すぎて何も身動きが取れなくなりますし、それを回避するためにもどこかで「馬鹿になる」ことが同時に求められるのですが、これもまた難しい。
また、世界が大きな変革期を迎える中で、自分がどのような役割を果たせるのか、常に考えるようになりました。これは子供に恵まれたことも正直大きくて、「将来子供たちに後ろ指を指されないような、健全な社会を維持するために、自分は今何をすべか」というアジェンダを、常に念頭に置くようになりました。
そして、東日本大震災。縁あって震災直後から被災地に足繁く通っていますが、被災者の方々と膝つき合わせて話すたび、これは単に一地方の問題なのではなく、日本社会の課題の縮図であることを、あらゆる面で痛感させられます。そしていろいろなお手伝いをするたびに、これまでの実績や信用も含めた、私自身の能力が問われます。
総じて、いろいろ難易度の質と水準が上がる中、先の「私に何ができるのだろう?」ということを日々自問しつつ、立ち止まらずに仕事を続けてきたのが、ここ1年くらいでした。そして最近、少しずつ「できること」が分かるようになってきたかな、と感じることがあります。
その意味で、今年から来年くらいにかけては、一方ではさらにその先を見据えた仕込みを続けつつ、いくつかの仕事については具体的なサービスやコンセプトという形で、より多くの方々のお目に触れていただけるよう、準備しています。
とはいえ、まだまだヒヨッコであることには、変わりがありません。前述の通りですので「ご指導ください」という言葉に甘えるわけにはいきませんが、とはいえまだまだご指導を賜りたいとも思っております。「できること」が分かるということは、「できないこと」も分かるということであり、今年は少し腰を落ち着けて、その両方と向かい合いたいと思っています。
次の素数は41歳なので、その頃にまたどこかで答え合わせができればと思っています。家族と弊社共々、引き続きよろしくお願いいたします。
タイトルはフェリーニの傑作からそのまま拝借。子供の頃にこの映画を観て、多分死ぬまでこの映画には囚われるのだろうと思った通り、今でも事あるごとにふと思い出します。