社会におけるネットの価値について、思うところを雑記的に書き残しておく。
こう書き出すと、韓流の台頭に係るフジテレビのバッシングを、想起される向きもいるだろう。しかしここでは特にそれを論じるつもりはない。業界構造的にはニセモノの良心氏、あるいはやまもといちろう氏のエントリで、大体論じ尽くされていると思う。
「CXは別に売国奴じゃない。みんながユニクロに行くようなもの」
http://soulwarden.exblog.jp/14236392/
ただし、大金をかけて視聴率をとる番組を編成するのは、費用対効果が悪い。結局シェア争いと言うのは、利益を上げるためにやっている訳で、そこで利益率を落としても意味がない。
そんな中CXがお昼の時間帯に韓国ドラマをかけているのは、別に韓国の陰謀でも電通の陰謀でもなんでもなくて、単純に安いから。そしてその割に視聴率をとるから。(もっと言えばCM枠量設定も多い。)
「フジテレビ不買運動が導く新たなるウェブの古戦場巡り」
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2011/08/post-c1e3.html
強いて書き足すならば、視聴者と事業者の双方にとって、韓流ドラマは「古き良きテレビ」なのだろうということ。キャスティングしかり、ストーリー展開しかり、テーマ曲しかり。第2次ベビーブーマーより年上であれば、慣れ親しんだ世界観が、しっかり作り込まれている。
また、最近の日本のテレビドラマは、枠という概念の一部崩壊によって、「読み切りの連続」という作り方になっている。しかし韓流ドラマは、「クール全体でストーリーが展開する」という、伝統的な手法で構成されている。そしてフジテレビも他事業者に比べ、しっかりとした枠作りをしている。メインターゲットである、保守的なF2・F3層に、愛されるだけの理由が、そこにはある。
が、私が気になっているのは、そちらではない。そもそもネットって何なんだろう、という、もう少し原理的なこと。以下に引用した磯崎氏のエントリが、気分的には近い。
「世界をあるがままに見るということ」
http://www.tez.com/blog/archives/001835.html
そういう、ちっちゃな虫や微生物は、観察することで急に発生したわけではなく、今までもちゃんと存在していたわけです。それと同様に、ネットでの妬みやひがみなどを含んだネガティブな発言も、今まで存在すらしなかったというわけではなく、多くの人々の会話や頭の中にちゃんと存在しており、ただ見る方法が無かっただけのものではないかと思います。
このエントリの元となった内田樹氏の「ネット上の発言の劣化について」も含め、8割くらいは同意する。するのだが、残り2割くらいで、まだ違和感が残っている。そしてここは結構大事なのかもしれないな、と思っている。
私が違和感を覚えたのは、「観察することで急に発生したわけではなく、今までもちゃんと存在していた」というところ。確かに存否という意味では明らかに存在していたし、それを否定するつもりはない。
ただ、そこで存在していた「ちっちゃな虫や微生物」は、ネットが普及する以前から、フジテレビの批判を繰り返していたのだろうか。内田氏が言う「非論理的」かつ「口調が暴力的」な発言主体、だったのだろうか。
そうではないと思う。彼らはネットという道具を獲得することによって、これまでは言葉にしていなかった胸の内を、暴力的かつ非論理的な口調で表明するようになったのだろう。モグワイに水をかけたら凶暴なグレムリンに変身したのと似たような話…という喩えは些か古かったか。
もちろん彼らにも、心に秘めた鬱屈した思いは、以前からあっただろう。ただそれはあくまで心の内に秘められていたはずだ。その心の扉が、ネットによって開かれた--こう書くと美しいが、いま私たちの目の前で繰り広げられている現実は、あまりに醜い。
こうなると、「社会にとってネットは本当に役立つものなのだろうか?」という問いが、正当化されてしまう。かれこれ20年近くインターネットに触ってきた人間としてはあまりに残念な展開だが、擁護するにも限界があり、正直この問いに反駁しきれない。
社会におけるネットの価値を毀損しているのは、ネットユーザの全体のごくわずかであるというのも、輪をかけて口惜しい。絶対数でいえば、おそらく4-5%にも満たないであろう。たったそれだけの困ったユーザが、ネット全体の価値を貶めている。そしてそれを抑止する術は、いまのところネットにはない。
それだってネットが映し出した社会の縮図だ、と開き直る向きもあろう。しかしそれを言うには、いささか全体に及ぼす一部の影響が大きすぎる。ある意味、言論による私刑が横行しているということだ。しかも私刑を科する側の顔が見えない。例として不適切かもしれないが、まるでラジオから流れてきた囁きが大衆を煽動して引き起こされた、ルワンダの虐殺のような世界である。
そんなネットに、明るい未来はあるのか。ネットの可能性を信じる人間としては、あると言いたい。しかし、今のままでは、無理かも知れない。
ではその不足を補うのは何か。その姿は一応見えてきており、私なりにあれこれ準備をしているが、ここでは書かない。私があちこちに書き散らかしているものを注意深く読んでいただければ、お察しいただけるだろう。
タイトルは、ルワンダ虐殺を扱った、ドン・チードル主演の佳作「ホテル・ルワンダ」(Amazon)から拝借。そういえばこの映画、最初は国内での配給会社が決まらず、ちょっとした騒動となったが、今となってみればなんと健全な社会運動だったのだろうと、懐かしささえ感じる。