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イングリッシュ・ペイシェント

2010/06/24 11:13
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プロフィール

クロサカタツヤ / KUROSAKA, Tatsuya

インターネットや通信、放送サービスが大きく変容する中、産業、政策、技術開発等の最新動向や、情報通信サービスと社会の関係性を考える上での「新たな視点」を、さまざまな分野でコンサルティング活動をしているクロサカタツヤ氏がお届けします。
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日本人が英語を話すべきか否か、みたいな議論が出ているので便乗で少々。
 
 

日本人は英語を話すべきか

 
まず、英語を話すべきか否かというアジェンダ自体は、実は大した意味がないと思っている。というのは、要否でいうならば当然話せるべきだから。だって話せる相手が増えるんだから、その方が楽しいじゃないですか。仕事するにも、旅行するにも。
 
ただ、誕生後はじめて体得した母語が日本語な人であるならば、ネイティブレベルになる必要はない。というかなれない。帰国子女でさえそれは無理だし、さらにいえば移民の苦悩は1代で終わらないのが古今東西の浪花節のネタとなるわけで。
 
むしろ言語を含めて日本にアイデンティティを有する人ならば、ネイティブにならない方が幸せだと思う。つまり「なってはいけない」ということ。その方が世界の多様性維持に貢献できるし、なにより自分自身のアイデンティティ崩壊の危機を回避できる。ネイティブ並に英語ペラペラだけど人間としての中身はスカスカ、という残念なケースは、幼少期の言語習得に失敗した人のみならず、どこぞのファームからMBA取りに行った人とかでも散見される。
 
じゃあどれくらいを目指すべきか。およそ大卒水準(学歴ではなくそれぐらいのコミュニティに生きる人という意味)ならば、読み書きトークくらいはTOEICなら700点くらいの水準に達しているべきだと思う。そこまで達していないなら、四の五の言わず勉強してがんばりましょう、でいいはず。無料もしくは安価な教材はネットに山ほど転がっているのだから。そこから先は、状況や気分次第ということで(なお「TOEICなんて役に立たない」という議論はこの文脈では不要ということで)。
 
 

会社の公用語として英語を導入すべきか

 
次に、最近話題の「会社の公用語」としての、英語導入。これも単純な話で、その会社が今後の中長期戦略の中で、事業の軸足を海外に移していくのであれば導入した方がいいし、そうでなければ踏みとどまるべき、という程度のことだろう。
 
たとえばユニクロが公用語を英語にするというのは、そんなにヘンな話ではない。国内市場の伸び悩みは海外展開で打破するのが近代の成長戦略のセオリーだし、彼らの場合は海外生産がそのコスト競争力の源泉となっているのだから、もともと英語を使うべき素地はあったはず。それならば英語に切り替えた方がオーバーヘッドが減る、と経営者が考えるのは、よく分かる。
 
楽天とて同様かもしれない。ユニクロほどではないが海外市場を目指しているし、オフショア開発の比重が高まるのであればここでも英語を使わざるを得ないだろう。おそらく経営陣としては「ステーキを喰おうとしているんだから会社としてナイフとフォークを使えるようになるのは当然」というくらいの気分なのではないか。
 
一方で、英語と関係のない会社が、英語を公用語にする必要はまったくない。商店街のおいちゃんたちがサボりに集まる喫茶店で、「本日から当店は日本語禁止です」とかやりはじめたら、それなんてタモリ・たけし・さんまの正月ゴルフ、という話である。要は自分が何をしていて、何を目指しているのか、で決めればいいというだけのこと。
 
 

英会話能力と翻訳能力の違い

 
仮にニーズがあったとして、英語導入のリスク要因はないのか。英語の習得にかかるコストは、ネットのおかげでかなり低下した(とはいえ実はNHKラジオとかで十分だったとも言えるのだが)。しかしコスト以外のリスク要因はまだ残っている。
 
なにより大きいのは、私たちが日本語を話すコミュニティの住人だということ。すなわち国内市場で生きている人にとって、商売は日本語でしなければならないのである。お客さんに「英語を話せ」と強要できるわけがないのは、前述の商店街の喫茶店の滑稽さを考えれば分かること。
 
となると、社外とは日本語、社内では英語、という状態になり、そのゲートウェイとなる人間は、日英の翻訳を常に求められることになる。ところがこれが言うは易しの話。
 
英語にある程度心得のある方ならば、というよりある程度の方が一番顕著に感じるかもしれないが、英語を使える能力と翻訳ができる能力は基本的には別物、というのはお分かりいただけると思う。もちろん両者は強く関係はしているのだけれど、「英語しゃべれるんでしょ?通訳してよ」と言われて安請け合いすると、すぐに脳味噌がパンパンになり、通訳に手を抜く(相手を無視して自分でそれぞれ話をまとめはじめる)ことになる。なにしろ、プロの同時通訳の方々が、20分くらいで交代しているのは、ホントに脳味噌がやばいことになるから。人間の認知・言語処理能力の限界なのである。
 
もちろん、社外と社内のコミュニケーションは、同じ日本語でもかなり別物なのだから、大したことないんじゃないの?という考え方もある。けれどそれは逆で、同一言語でもそれだけ文脈の乖離を翻訳しなければならない会話に、さらに言語がそれぞれ異なると、ひどい攪乱要因となる。
 
善し悪しは別として、日本語という単一同一の言語のみに生きてきた者にとって、英語導入に係る混乱は、コミュニケーションを崩壊させる危機となるかもしれない。それでもなお英語導入を進めると考えるなら、利用局面を定義して段階を踏ませることと、十分なメンタルケアが必要だろう。その意味で楽天が「英語話せない役員はクビな」と言うのは、従業員への間接的アナウンスという意味で、後者への配慮が足りない気がする。
 
 

ノンバーバル・オペレーションの重要性

 
もう一つは、よりクリティカルに議論すべき領域になればなるほど、業務上の確認が甘くなり、事故を誘発する可能性があるということ。
 
モジュール型の簡単な業務なら、むしろ英語の方がいいかもしれない。英語に不得手である分、逆にボキャブラリーも表現も制限されるので、冗長さが削減されて、伝えるべきことがダイレクトに伝わる。しかしインテグラル型の業務の場合、ニュアンスの「摺り合わせ」が生命線となる可能性がある。これにより事故が起きたり生産性が低下したりする可能性は、どうしても否定できない。
 
これが一番如実にあわられているのが、F1の世界だと私は思う。基本的に英国に拠点を構えるチームが圧倒的に多いため、政治にしてもエンジニアリングにしても、F1の公用語は英語だ。となるとドライバーとエンジニアやチームマネージャーとのコミュニケーションの密度や頻度は、当然英語力に左右される。日本人ドライバーの場合、コミュニティにその名を残す片山右京や佐藤琢磨の英語力は抜群だったし、現役の小林可夢偉も立派なものである。つまりこういう領域では、英語力はやはり必須なのだ。
 
それでも英語を導入せざるを得ない(という理由が本当にあるのかは定かでないが)場合は、むしろ逆に言語そのものから離れた方がいい。英語にせよ日本語にせよ、言語という人間にとって最も悩ましきものにとらわれるより、数値化・図式化した方がよほど確実である。
 
すなわち、英語導入によるコミュニケーションと摺り合わせの危機を、ノンバーバル・オペレーション(言語非依存の業務運用)によって克服する、ということだ。こちらの方が楽しそうな気がするし、むしろ日本が率先して取り組めば、これこそ輸出競争力になるというのは、すでに自動車製造の分野で証明されているように思う。
 
 

英語じゃないんじゃね?という議論

 
最後に、「そもそも英語の時代ってそろそろ終わりじゃね?」というもの。これはYesでもありNoでもある。つまり私の中でも揺れている。
 
そもそも英語が国際共通語の顔をするようになったのがここ40-50年の話に過ぎない。そして今日では英語(というか米語)の守護者のような顔をしている米国で、国民すべてが英語を話すようになった(文化人類学的に言えば「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」の確立)のは、しょせん20世紀の100年くらいの話。
 
その米国でさえも、ヒスパニックの台頭によって、もはや英語を話す人の人口はじわりと減りつつあるのは、特に西部・南部で生活している方ならしみじみ感じられるだろう。なにしろ米国におけるマイノリティの筆頭は、もはや黒人ではなくヒスパニックなのである。中長期的な財政見通しの不在から、「米国のアルゼンチン化」をも射程に含めるべきと私は思っているが、それは何も経済的アナロジーだけでなく、言語的にもスペイン語圏に入っていくのではないか、と思っているのである。
 
いわんや国際語としての英語をや。いまでこそ、中国であれインドであれ、私がビジネスで相手にしても問題なさそうな、それなりに高学歴な方々は、大体流暢な英語を話してくれるので、私自身はとても助かる。だが市場の大きいところはその先の「英語を話さない人々」にあるであろうことを考えると、そんな幸せな時代をいつまで謳歌できるものか、と思わなくもない。
 
もちろん私が現役の間に、そこまで事態が進むか分からない。というか基本的に日本語と英語以外はご挨拶とホテルやレストランの受け答えくらいしかできない私なので、そんな時代はもうちょっと後に来て欲しいと熱望している。ただこのあたり、10年刻みくらいで世代は確実に変化する(分野によってはもっと細かいだろう)ので、三十路半ばの私が二十歳過ぎの若人に「英語やってりゃオーケー」と胸を張って言えるかは分からない。
 
それでも英語は、「やってりゃオーケー」ではなくなるかもしれないにせよ「やってなきゃダメ」の状態は変わらないと思う。というわけで文頭に戻って「英語できない人は勉強しましょう」という、比較的きれいなトートロジーでエントリを締めたい。
 
ちなみにタイトルはご記憶の方も多いと思う作品からそのまま借用。15年くらい前の作品になるのだが、いまだに色あせない。ジュリエット・ビノシュにグッとくる性質の私としては、忘れがたい一本。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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