たまには軽めの話題を。
訳あって数日PCの前から離れていたのだが、戻ってきたらtwitterが日本語化されていて驚いた。以前からデジタルガレージと組んで日本語化を進めていたのは知っていたが、いざ日本語化されると、まるで違うサービスのように見えてしまった。
で、あまりに違和感が強かったので、即座に英語版に戻してしまった。なんというか、引き戸にドアノブを付けてしまったような、そんな心地悪さを感じたのだ。
日本語化が悪い、というのではない(私はそこまで「ルー」な体質ではない)。またデジタルガレージの皆さんの仕事が悪いというのでもなく、むしろ労うべきとも思う。おそらくは、twitterのインターフェースの秀逸さが微妙なバランスの上に立脚していて、それが日本語化によって崩れた、ということなのだろう。それだけであり、それがすべてでもある。
あと強いて言うなれば、勝手に日本語化されていたことも違和感を強めていると思う。要は「日本語対応しました!」というバナーでも付けて、ユーザに選択させればいいのだが、そういうプロセスをすっ飛ばされるとユーザは少なからず「余計なお世話」と感じてしまうのだろう。オプトインの精神を重んじる日本のユーザには、必ずしも受け容れられないと思う。
これに限らず、企業がユーザにサービスや製品を伝えていくマーケティング活動は、とても難しいものである。私もいくつかそういう案件をお手伝いしているが、どんなに自分たちの信念に基づくメッセージであっても、たとえば「文章が長い」とか「場違い」だというただその一点だけで、却下はおろか反発さえ招いてしまうものだ(ちなみにこれはいわゆる企業の消費者向けマーコムだけでなく、BlogやSNSなどのパーソナルコミュニケーションにもあてはまる話だと思う)。
それが仮に「逐次翻訳」程度の作業であったとしても、ちょっとしたバランスを崩してしまう要因となれば、すべての努力も水の泡、ということなのだろう。「伝える」とはかくも悩ましいものであり、ゆえにそれが仕事として成り立つのだと、改めて思った次第。