こんにちは、招待状の送付も一段落し、一息ついていたところにコーヒーをぶちまけられた木村です。
でも猫は可愛いので叱りつつ許しちゃいます。
さて、iPhoneXから物理ボタンがなくなるということで色々物議を醸しています。
この現象「無くなる」ということにフォーカスしていますが、本質的には「変わる」ことへの恐怖や嫌悪に根ざしていると私は考えています。
Blackberryのような物理キーボードから、画面をスワイプする方式に変わる時にも同じ議論がされましたが、基本的には「慣れ」れば新しく採用された方が便利です。
にも関わらず、発売前に(実際に慣れる前に)これだけの議論が巻き起こるのは面白い現象です。
マーケティングの仕事をしていても感じるのですが、世の中の相当数の人々が変化を嫌います。
実際に使ってみれば便利なことは、例えばAir podsの例に見れば明らかですが、相当数の人間が使う前から「使いづらい」と判断しているのは特筆すべき点です。
変わることへのアレルギーはどの業界や業態、シチュエーションにおいても半数以上で起こることで、マクロ的な視点で見ると社会の根幹のルールと言えるかもしれません
例えば仮に、全ての人々が客観的合理的判断の元に行動できるAIのような性格を持ち合わせていたら、現在の社会は成り立つでしょうか?
これは、データ的な思考からするとノイズが一切ない状態、つまり普遍的解となりうるAであれば、全ての人がAを選ぶ、という世界です。
具体的に言えば「人を殺すのは良くない」と言った明らかな事柄(普遍的解となりうる事象)があったとすれば、これに対してYESという人が100%になるはずだ、ということです。
しかし、スーパーコンピューターでこれをシミュレートした結果が物語るように、
このような世界ではすべての個人が同一人格になってしまいます。
つまり、こうしたルールの中では社会自体が形成できず、ある事象に対して一定数のYESとNOが存在しなければならない、というように考えることができます。
また、過去から考えてみると、大抵の正解は当初NOの方が多く、大抵の不正解は当初YES方が多い、という傾向が見受けられます。
ナチスドイツや、軍国主義の日本もそうですが、マジョリティが正しいとしてきたことは結果として間違っていて、アインシュタインやニュートンのようにマジョリティが唱えて批判されたことが結果として正しい、と言ったことが散見されるのです。
こうした傾向があるにもかかわらず、多数決のような方式が民主主義の象徴として用いられることに、多少は疑問を投げかけることが必要かもしれません。なにやら小難しい話になってしまいましたが、批判=間違っている、ではなく、批判の質と量を見極めることが、商品やサービスの普及に寄与するのではないかというのが私の考えです。
つまり、
1. 「賛同が多数」 = 良いが、伸び悩む
2. 「賛同の方がやや多い」 = 賛同してもらうが売れない
3. 「批判の方がやや多い」 = 当初売れないが、その後の爆発力がある
4. 「批判が多数」= サービスや商品として問題がある
というように考えるようにできるのではないかということです。
こと日本においては2を選びがちです。アメリカのスタートアップなどは3を狙いすぎて4に陥る(時間軸も含めて)ということが多いように思います。
ある程度の批判が出るように商品やサービスをブラッシュアップしていく、そのように批判という現象を捉えるということが、長期的なビジネスの発展につながっているのかもしれませんね。
今日は新しい手法に対する批判とその本質について書いてみました。
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