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謹賀新年2009

2009/01/06 13:12
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あけましておめでとうございます。

2009年はキー・ウェストの繁華街でドラッグ・クイーンたちの乱痴気騒ぎに揉まれながら迎えました。

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せっかくの年明けだというのに、なんだか世の中は「ハッピーな」という枕詞がつけにくい、暗い話ばかりの新年になっているようです。うーん。でも、世の中にはいろんな人がいるし、人間って意外とたくましいから、どんなに世相が良くても悪くても、個々人の幸せの総量(というものが仮にあるとして)はほぼ一定じゃないか、というのが私の仮説です。

たとえば私自身がそうなのですが、みんなが一斉にワーッと盛り上がってるときにその輪に入って歌えや踊れやで同調するのが苦手で、はじっこのほうで冷めた目でチラ見しつつも実は寂しい思いをしている、というようなひねくれた人間にとっては、景気が悪くなってみんなが方向性を見失い、路頭に迷っているぐらいのほうが気後れせずにすむので居心地がいい。ようこそ俺様の「悶々クラブ」へ。なんていうような、歪んだ感性だってあるのです。

景気が悪くなるっていっても、日本のような先進国の場合は、いきなりデフォルトするとか、ハイパーインフレで物価が1億倍になるとか、別にそんなカタストロフィックな話ではないのです。せいぜい経済成長率が1-2%下がるとか、そういうせせこましい次元の話なのです。注目すべきは、その合計すればおおむね横ばいに過ぎない数字の、その中身がダイナミックに組み変わっていくというところにあるのです。

経済成長率の数字だけ見れば、ここ18年ぐらい横ばいの状況が続いていますが、この間、皆さんのライフスタイルは全く変わってないでしょうか?そんなことはないですよね。18年前といえば、そもそもインターネットも携帯電話も(実質的には)存在していませんでした。コンビニだって、私の生まれ育った生活圏には一件もありませんでした。あの頃に流行っていた服装や髪型でバッチリ決めた写真を、いま18歳ぐらいの子が見たら、どのような感想を持つでしょうか。音楽や雑誌はどうでしょうか。むしろ主観・体感レベルでは、日常生活の様式はこの18年でガラリと変わった、といえないでしょうか?

つまり、この停滞した数字の内訳には、ものすごく伸びて社会に影響を与えた分野と、それと同じだけ縮んだ分野があるということなのです。それは同時にリストラや失業を意味しますが、問題は失業することそれ自体ではなくて、その後また新しい職につけるか、その後も生活していけるかどうかなのです。

失業といえば、よく「シリコンバレーにはリスクを取る風土がある」などと言われます。しかし、この地でスタートアップがぼんぼん立ち上がるのは、人が優秀であると同時に勇敢であるゆえでしょうか?そういうシリコンバレーについて日本人が抱きがちな典型的なイメージについて私が注釈をはさみたいのは、創業者本人はともかく、スタートアップで働く従業員というのは大企業に勤める人々とさほど変わらないリスク回避的な判断の結果、そこで働くことに決めていることも結構あるよ、ということです。

この地では、まだ利益が出てないスタートアップなのだから安月給でも我慢して働いてくれという考え方がほとんどなく、多くの場合に「職能に見合った給与」として、優良大企業と同水準の(つまり高額な)給与がもらえます。日本のベンチャーの給与水準のまるまる2倍ぐらいといえばわかりやすいでしょうか。これは私が渡米してすぐに受けたビジネス慣習上の洗礼であり、それより昔はどうだったのか知りませんが、けっこうなショックを受けました。雇う側の立場としては大変なことです。それに加えて、もしかしたら化けるかも知れないストックオプションがもらえるという具合なので、金銭的な損得勘定でいえば、別に会社が成功しなくても生涯賃金の面で不利になることはないのです。

また、多くのスタートアップが最終的に潰れてしまいますが、ここでは大企業に勤めていても事業部まるごとレイオフなんてことはザラなので、失業の恐怖がさほど軽減されるわけではありません。それに会社がつぶれても、スタートアップでガッツリ働いていたという経験は勲章となり、その後に大企業に就職するとしてもプラスになるわけで、いろいろ総合すると、そこにはむしろ計算高いリスク回避的な心理があるのだとさえいえそうです。海部美知さんが「パラダイス鎖国」でうまい表現を使ってましたが、シリコンバレーはまさに「厳しいぬるま湯」なのでしょう。

では日本にシリコンバレーみたいな環境が作れるかというと、それはできないだろうし、仮にできたとしても、こういう形のないノウハウは、後から追いかける立場では永久に後追いのまま、劣化コピーを脱することができないでしょう。

では日本のもつ「弱み」を「強み」に変えてしまうような挽回の策はないのかというと、あるような気がしていて、そのようなことを考える中で頭から離れないのがベーシック・インカムという制度構想のことです。これは生存するのに必要な最低限のお金を全国民に無条件で与えるというアイデアで、同様のものに「負の所得税」というのもあります。これぞ、国家によるパターナリズム全開の、いかにも日本らしい(?)草食動物っぽい仕組みになるような気がしています。

もちろん、こうした驚くほどシンプルで奇抜な考え方にはツッコミどころが多く賛否両論あるわけですが、私は以下の2つの点で、日本がこれから向かう未来に対してこのベーシック・インカムというアイデアには見込みがあると考えています。

  1. 日本人は「多様化」しつつある
  2. 「非労働的」な社会参加のかたちが増えている

私は、日本人が多様化することについては諸手を挙げて賛成する立場です。しかし、おそらく多くの人が「多様性」というものを過小評価しているかも知れないという点は指摘しておきたいところです。社会が多様性をもつとは、基本的な価値観がまったく相容れない、それこそ永遠にわかり合えないような人たちが自分の身の回りにいるストレスと向き合っていくということであり、決して生やさしい「友愛の精神」と呼べるようなものではありません。むしろ「呉越同舟」という表現のほうが的確でしょう。日本のように世間から受ける同調圧力が息苦しい社会と比べても、必ずしも生きやすい世界とは言えないはずです。それでも多様性が必要だと考えるのは、多様な考えの人たちが互いに独立性の高いさまざまな取り組みを行い、実験の試行回数を増やすことでイノベーションの「当たり」につながるだろうと考えるからです。

アメリカという国は、この「多様化」の要請に応じ、多民族・多宗教・多言語のそれぞれの壁をのりこえて各種コミュニティが共存できるためのツールとして、「貨幣」を使いました。何でもかんでもお金という共通の尺度に変換してしまうことで、文化を超えたコミュニケーションが成立しえたのです。

そしていうまでもなく、現代社会では生きるためにお金が必要です。いくら豊かな社会になったとはいえ、住む、食べるという生存のための基本的な営みは、お金があってはじめて可能なのです。

お金を手に入れるということは、誰かにお金で換算できるだけの有用性を認めてもらうということです。その相手がモノやサービスを買ってくれるお客さんでも、給料をくれる勤務先でも同じです。しかし、長い人生をまっとうできるだけのお金を、それなりに安定的にいただくには、相手と自分との間に共通了解できる部分を見つけ、維持し、増やしていくことが必要です。これは、自分のなかにある固有の部分、とんがった部分をつみとって丸めていく作業にほかなりません。

ところがもし、ベーシック・インカムが最低限の衣食住を保障してくれるなら、特定の誰かさんの色に染まってないお金を与えてくれるなら、他人の顔色をうかがうことに疲弊せず生きていける可能性が拓けてくるでしょう。他人と深く関わらずに生きるには、カネが必要なのです。

成熟社会に突入した日本のような国では、人生に従来の商業的な尺度では測りにくい充足感を求める傾向が強まります。お金は、多様な価値観をまたぐ共通言語ではありますが、けっして万能でも公平でもありません。

古くからの例では音楽家や作家などの娯楽・表現のプロ業界、現代ならソフトウェアやネットの業界がそうであるように、商業的に自立するにはミリオン・ヒットを飛ばすか、さもなければ宮廷や大企業のようなパトロンに召し抱えられるしかない、というハイリスク・ハイリターンな世界があります。しかし、商業的には成り立たなくとも、誰かに認めてもらえるだけで嬉しい、というごく私的な価値の比重が大きいのもこれらの領域です。お金という形で顕在化しにくいこうした価値の領域は、情報通信技術の発達とともに確かに広がっているように思われます。

私は、娯楽がイノベーションの起爆剤であるという考え方を信じています。娯楽的な要素の力を借りず、純粋に実用性だけで新しいものが世の中に急速に広まるということは、今後ますます起きにくくなるでしょう。「労働」とは経済学の重要な概念ですが、娯楽ほど「労働」という語感にそぐわない経済活動もありません。それが私たちの生きている今という時代なのだと思います。

身近な例でいえば、ブログのアクセス数やブックマーク数、被リンク数なども、ある閾値を超えればプロとしてやっていける水準になるでしょうが、そこまでいかなくとも、志向性の近い仲間を見つけてつながるパーソナルでひそやかな喜びは、はたして無意味なことなのでしょうか。人間のアテンション(注目)こそが希少資源となった現代では、個々のトランザクションは微少でも、集合的に見たときに十分な規模の「注目」が消費されているとすれば、それは立派な「社会参加」ではないのでしょうか。プロ未満のアクセス数であっても、その数字は閾下のマイクロ貨幣的な価値を持っているとはいえないでしょうか。

いまの情報技術は、そういった「閾下のマイクロ貨幣的な価値」=「アテンション・バリュー」を数値化し顕在化させる方向へと進化しており、これがいわゆる円やドルといった通常の貨幣経済と二層構造になる、という未来を私はひそかに夢想しています。「アテンション・バリュー」とは、いわゆる「カネと名誉」といったときの「名誉」が数値化・貨幣化されたようなもので、カネで買える名誉もいくばくかあるように、カネに変換できる名誉もあるけれど、名誉はカネと違ってアイデンティティとアカンタビリティがありますから、基本的には別々のものとして、つまり「カネ」は物質的・フロー的な「生きる基礎」として、「名誉」は精神的・ストック的な「生きる目的」として、社会の価値交換の基盤となっていくような、そんなイメージです。著作権のような奇っ怪なシステムも、「カネ」ではなく「名誉」という交換体系を持ち込めるとすんなり落とし込めるような気がするのです。気のせいかも知れませんが。

ちょっと話がそれましたが、ベーシック・インカムによって最低限の生活が保障されることで、裕福な家庭に生まれなくともハイリスク・ハイリターンな生き方、新しい価値を追求する生き方を自由に選択できるようになるという考え方には、とても魅力を感じます。

あれ、何の話でしたっけ。まぁともかく、そのようなことを考えつつ、とはいえいろいろなことを再点検して見直さなくてはならないのは確かな2009年ですが、停滞しまくっていたはずの過去18年間に起きた怒濤の変化を思い返しつつ、あまり悪いニュースに流されず、まだまだやれることはいくらでもあるぞとの前向きな気持ちを失わないようにしたいものですね。

それでは、今年もよろしくお願いします。

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※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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