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人に会わないということ

2008/05/09 04:59
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面会を依頼されたときに、それを断るというのは、けっこう骨の折れる意志決定である。

そもそも、誰かが自分に会いたいと言ってくれることは、大変ありがたいことである。自分みたいな人間に興味を持っていただけて、とても嬉しい。

何より、はるばるアメリカまで来て、何かのついでとはいえ、ぎっしり詰まった旅程のなか、わざわざ日本人である自分に会いに行きたいといってくれるのだから、光栄なことである。

しかるに、それを忙しいからといって断るのは、どこか気が進まない。

そもそも、私の現在のワークスタイルでは、拘束時間的・物理的に忙しいということはまったくない。起きたいときに起き、寝たいときに寝て、働きたいときに働き、遊びたいときには存分に遊んでいるのである。

だから第三者が見れば、どこをどう見ても私を忙しいほうの種類の人間と分類することはないだろう。

しかし、実際には精神面では極度に張り詰めているのである。

東京で働いていた頃、モーレツサラリーマンよろしく終電に間に合わず会社に泊まり込んだ日々と比べても、今の方が楽になったとはまったく思えない。つくづく、忙しさとは主観的なものなのだなと思う。

感覚器官を研ぎ澄まし、他人の感情を10倍ぐらい増幅して感じるセンシティビティを持っていなければ、よいモノは作れない。他人が痛みとして知覚するよりも早い段階でそれを察知し、腹を立て、除去する能力がなければ、よいモノは作れない。他人の心に生じたささやかな喜びを、本人が無自覚なうちに見てとり、それをどうやったら増幅できるかを考察する能力がなければ、よいモノは作れない。モノづくりとは、ユーザの何気ないふるまいに意味を見いだす、ノンバーバルな対話の反復作業なのである。

そのためには、観察力・想像力を深く深くめぐらすための、瞑想のための時間とさえいえるような連続したひとまとまりの時間が日々必要である。そして、それを成果物に落とすという作業には、さらなる集中力が求められる。過去のことを思い出してくよくよしたり、午後の予定にやきもきしていては、そういった奔放な集中力が妨げられるのである。

「おもてなし」には、けっこうな集中力を要する。「おもてなし」は、今や個人が所有するもののなかでもっとも希少なリソースのひとつとなった「アテンション(注意力)」を豪快に消費する。明日の就職面接では何を話せば面接官に好印象を残せるだろうか。週末のデートはどういうプランにすれば彼女を飽きさせずに一日を終えられるだろうか。このメールにはどういう風に返事を書けば相手の機嫌を損ねずに伝えたいことを伝えられるだろうか。そうやって気を揉むことで、未来に設定された予定は現在という資源を消費しはじめるのである。

しかも、時間は貯蓄したり、まとめて使ったりということができない。どんなに調子が悪い時期でも、時計の針は冷徹にチックタックチックタック、一秒に一秒ずつ進んでいく。

であるならば、同じ「おもてなし」のための集中力を、よりレバレッジの効く対象に向けて使いたい、と考えるのは道理にかなったことではないだろうか。少なくとも私はそう考えた。だから私は、「おもてなし」のための集中力を、すべてモノづくりに注ぎ込みたいと思ったのである。

考え抜かれた「おもてなし」を備えたモノをつくることができれば、リアルに会って誰かに「おもてなし」するのと比べて何千倍・何万倍もの人をハッピーにすることができる。いまの私は、その可能性に強烈に惹かれている。リアル世界で果たすべき義理を果たさないというリスクを冒しつつ、その可能性に賭けているのである。

最近、この日々の感じが何かに似ているということに気がついた。

社会に出る前、まだ10代だった頃の日々の心境に似ているな、ということである。まだ自分が何者でもないことに対する焦り、渇き、孤独。自分はいったい何のために生きているのだろう、と自問する日々。そんな中で、「真理」や「本質」に迫りたいと希求し、科学や哲学に傾倒することだけが癒しであった日々。そういった懐かしさすらおぼえる感情が、この歳になってどっと押し寄せてきている。

あの頃と異なるのは、今の私はそういった生き方を自ら望んで選択している、ということである。

私は、身近な知人友人との交流さえむげにしてしまうことを覚悟の上で、人に会わないという生き方を選択した。人に会うことで知らず知らずのうちに漏れてゆく集中力を、もう逃がさないと決めたのである。

これは、生涯続けていくにはあまりにも重たい生き方だ。自分の中にも年単位で大きなリズムがあって、引きこもりの時期と社交的な時期との間で何度も反復を経験しているから、いつかまた社交的な自分がやってくるだろうという予感はある。そのときには、きっと「真理」の追求をいったん棚上げにしなければならなくなるのだろう。今の自分からみればいささか滑稽で思慮分別の浅い「望ましくない自分像」だが、そういった一面もまた自分の中に潜んでいて、何らかの拍子に表に出てくることを、十分に年齢を重ねた今の私はもう知っている。

しかし、ともかく、少なくとも今しばらくは、そういう引きこもりの生き方をすると決めたのである。

そういうわけで、最近おことわりのご連絡をした諸氏へのお詫びの気持ちを込めて、この文章をポストすることにする。

Under the Influence of Giants / Mama’s Room

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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