3ヶ月ほど前に書いた思考実験:禁止法の禁止法というポストに対して、まっつんさんから以下のようなコメントをいただきました。
以降の議論を見えやすくするために、ここに改めて全文引用します。
もう3ヶ月も前のエントリにコメントを書くのは、もしかしたらルール違反でうざったいことかもしれませんが、お許しください。
ここがどうも引っかかるんですね…。
>本気で人を殺そうと思うときの極限状態と自分を殺そうとするときの極限状態っていうのは結構似てるんだけど、これとゲーム内で人間をメッタ刺しにして切り刻んでる時の心理状態とでは、天と地ほども違う。相似形ですらない。
そりゃ確かにそうです…というか自明のことです。ただし、江島さんのようなまともな感覚を持った人にとっての「まともな殺人」については、これは当てはまるでしょう。
しかし、問題は、「ゲームの中の殺傷の心理状態」を、リアル世界にそのまま持ち込める場合があるということじゃないですか?
「まともな人間のまともな殺人」には、底知れない憎悪が必要であり、自己破壊欲求と表裏一体の…江島さんの言う極限状態が必要です。さらに、その心理状態が実際の行為に結びつくためには、ある「飛躍」が必要だ。一線を越えるということです。
だけど、それはあくまで「まともな場合」だと思う。
「翔ぶ」必要すらない殺人がある…ということを見落としていませんか?
何もぼくは、よくテレビでやっているような、精神異常者の快楽殺人のような限定的なケースなどの特異的な場合について言ってるんじゃありません。
ときどき起こるいじめによる殺人なんかは、「跳ぶ」ために必要な狂気や殺意を必要としないケースだと思います。…マットで簀巻きにして一晩ぶらさげといた、とか、肛門を校門で串刺しにした、とか…いった実際にあった痛ましい事件のことです。
プロレスごっこみたいな「ノリ」でやってしまう娯楽性を伴った暴力の延長線上にある、不幸な結果としての事故的殺人。
これをゲームが助長しない、と言い切れますか?
娯楽性が現実の痛みそのものを鈍らせる。
あるいは、娯楽性が現実の痛みに対するセンサーを鈍らせる。
それゆえにはびこる不健全な暴力。
それが殺人に結びつくつかない、は、確率的なものでしかないのではない
ですかね。
バーチャルの世界の娯楽性が現実世界に投影されて、
無感覚の暴力を生み出す、という可能性について問いかけたい。
ゲームの危険性を指摘する人というのは、そういう観点に立っているのであって、
「死」をまともに捉えられて、現実と幻想の境目をきっちりと見定められるまともな状態のまともな人のケースを問題にしているのではないと思う。
静まった湖に石を放り投げるような真似をしてしまって、すみません。
不適当なら削除してください。
Posted by まっつん at 2006年10月23日 22:36
久々に「的を得た意見」というか「ちゃんと反論したくなる意見」に出会った気がします。
ぼくが腹が立ち、無視するのは、吐き気がするほど表面的で偽善的な感情論ですから。
さて、ご指摘の「娯楽性を伴った暴力の延長線上にある、不幸な結果としての事故的殺人」というものがもし、事故のあとで加害者が驚き、傷つき、後悔する種類の、真に事故的なもののことであれば、これは文字通り事故であって、交通事故がなくならないのと同程度には不可避のことであるし、議論の余地はほとんどないでしょう。
私がどうしても言及しておきたいのは、本人が無自覚のまま他者を死に至らしめ、事後もいまひとつ罪悪感を感じきれないというようなケースについてさえ、私にはとても「自然なこと」に思えるし、そのこととゲームとの間に直接的な因果関係を見いだそうとする短絡については完全に否定的な立場である、ということなのです。
子供とは本来、残酷なものです。いかにも無邪気に、人形をずたずたに引き裂いたり、トンボの羽をもいでみたり、アリの巣に熱湯を注いでみたりするものです。他者の痛みを知らないで他者を傷つけてしまうのは、疑いようもなく自然なことです。
一人の人間が大人になるということは、こうした無邪気な娯楽の具へと供された生物のみならず、たいへんな犠牲の上に成り立つものであり、そういう大きなカルマを背負って以後の人生をまっとうすることではなかったでしょうか。
自分が生きているということ、ただそれだけで避けがたく罪深いということに、つい無自覚になりがちな大人こそ、最も恐るべき存在であると思いませんか。
子供たちは、成長とともに自らが体や心に傷を負い、痛い目に遭うなかで、自己への投影を通じて「他者の心」が存在するということを次第に知るようになり、いつしか、他者の痛みを自分のものとして感じるようになるのです。多分に逆説的ですが、その変化は「傷をつけ合う」というプロセスからしか得られないものなのです。誰にも傷つけられずに育てば、他者の苦しみを心から理解し思いやる気持ちなんて生まれないのです。傷つかない人間は、優しくもなれないのです。誰もが誰かに傷つけられる世の中だからこそ美しい。
そうした中には、どうにも取り返しのつかないエッジ・ケースが含まれているかもしれません。しかし、だらといって、そういうケースだけを都合良く選び取って排除できるという考えは、その動機そのものを否定するわけではありませんが、私には人類の「合理性への過信」であるように思えて仕方がありません。
この時代に突然いじめが増えたわけでもなければ減ったわけでもなく、子供とは常にそういうものであったし、それどころか、いじめは子供にとって「無垢の終焉」をむかえるために必要不可欠なリスクではなかったでしょうか。
私には、まだ子供がありませんが、もし自分に子供ができたとすれば、いじめのひとつもないような、消毒済みのディズニーランドみたいな箱庭で育てたいとは、あまり思いません。まるでグリム童話から虐や狂や怖や欺や性のエッセンスが抜かれてきたみたいに。でもこれって、厳しい自然から逃れるために自分たちの住む街を城壁で囲い、アスファルトと街路樹と鉄筋コンクリートで埋め尽くしてきた歴史をもつ人類には決して理解されることのない考え方なのかも知れません。
私はどちらかというといじめられっ子でしたし、だからこそ殺意を覚える瞬間のリアリティを知っているし、自殺による復讐という妄想の吸い寄せられるような魔力も知っているのですが、あの頃の体験なくして今こうして生々しい当事者感覚をもって語れる自分もなかったと思います。でも、運良くサバイブできた今の立場からそういうことを言うのは、卑怯なことなのかも知れません。
でも、だからといって、口をつぐむこともままならなかったのです。
本当の本当に、どこまでいっても誰がなんと言おうとも、ゲームと少年犯罪の関係なんてどうでもいいことです。そういった議論の存在そのものがいかにも戦後世代のファンタジーというか、あまりに平和すぎて発狂しそうなほどです。
ここアメリカでもそんな日本のニュースをダイジェストなどでちょくちょく見るのですが、日本のメディアで取り扱われているその手の話題の、あまりの暢気さと滑稽さに若干の恥ずかしさを覚えつつ、そんな日本をちょっぴり誇りにも思う複雑な心境の日々なのでした。
石垣りん
母親は
白い割烹着の紐をうしろで結び
板敷の台所におりて
流しの前に娘を連れてゆくがいい
洗い桶に
木の香のする新しいまな板を渡し
鰹でも
鯛でも
鰈でも
よい
丸ごと一匹の姿をのせ
よく研いだ包丁をしっかり握りしめて
力を手もとに集め
頭をブスリと落とすことから
教えなければならない
その骨の手応えを
血のぬめりを
成長した女に伝えるのが母の役目だ
パッケージされた片々を材料と呼び
料理は愛情です
などとやさしく諭すまえに
長い間
私たちがどうやって生きてきたか
どうやってこれから生きてゆくか