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新潮6月号の梅田望夫×平野啓一郎の対談を読んで

2006/05/10 19:22
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現在発売中の新潮6月号に、梅田望夫×平野啓一郎というビッグ2の対談が掲載されています。

この中で、二人の共通の友人ということで、ぼくの名前が言及されているからと、親切にも新潮社からはるばるアメリカまで見本誌を手配していただきました(謝々)。それが届いたので早速読んだわけですが。

新潮

梅田さんご自身の評はこちら。
My Life Between Silicon Valley and Japan : 「新潮」6月号: 平野啓一郎氏との対談

読んでみてひしひしと感じたのは、平野も、文壇という、恐らく現世に存在するあらゆるギョーカイのなかでも最もクラシックなエスタブリッシュメント社会で孤独な戦いを続けてるんだなー、ということ。

また、史上最年少で芥川賞をとった1998年当時、時を同じくしてローンチした2ちゃんねるで匿名の名無しさんにあることないこと好き放題書かれたという、それはそれはトラウマティックな体験が、現在の彼のネットに対する悲観的なというか陰の部分をことさら強調してしまう志向性に結びついているんだなぁと。

でも、ネットはもはや「社会の相似形」ではなくて「社会そのもの」なのだから、個別事象をそれぞれ局所的にみれば、現実社会から陰湿なリンチやら青姦やらホロコーストやらIdentity Theftがなくならないのと同じ程度には陰の部分があって当たり前で、ネットがどうとかいう以前に、この住みにくい世界とどう向き合って日々をかろうじて生き延びていきますかという、物心ついた小学生の頃ぐらいからみんながずっと直面しているはずの苦悩と地続きというかそのまんま同じ問題系なわけで、そのどこに光を当てて照らしてみるかというのは書き手に委ねられているわけです。どこぞの週刊誌みたいに常に悲観的なFUDゴシップ切り口で書いてた方がコンスタントに衆目を集められるだろうけれど、そういう非生産的なスタンスでは誰も救えないというか、真摯かつ建設的で繊細な、かつての偉大なブンガクがそうであったような、世の中を力強く方向付けていくようなActionにはならないよ、無力感と絶望感のはざまでニヒリズムに堕していくよ、と思うわけです。

Actionといえば、この対談の中でも「公私の領域の区別がなくなる」というコンテキストで平野が触れているハンナ・アレント、あるいはミーハー的にはハイデガーにむさぼられた女性と形容した方がピンとくる人も多いかも知れませんが(笑)、彼女が分析したところの古代ギリシアでは、「はたらく」ということには3つの層があって、奴隷が命令され指示された仕事を嫌々ながら行う「Labor」と、中流階級の市民が自分のやりたいことを自発的に追求するという「Work」と、そして支配階級を支配階級たらしめる、偉大なコトバによって人の心を動かし、人を動かす「Action」の3つがあったわけです。(オープンソースなハッカーよ自信を持て。あなたたちは近代的な会社組織、それどころか貨幣経済というドグマができあがるよりもはるか昔の古代ギリシアの時代から「主流」だった。)

世の中には、Workしているつもりが知らず知らずのうちにLaborに絡め取られている人のいかに多いことか。。。おっとっと、これは余談だ。

かつてブンガクというものは、世の中とはこうだ、という認識枠をストレートに記述し、Actionしていく使命を自ら任じていたじゃないの。それが、人々がブンガクという記述様式への依存を薄め、映画なり、ゲームなり、ブログなり、あらゆる情報技術によって生み出される共同体創造装置、それをフィクションと呼びたければ呼ぶがいいけれど、ともあれそういうものを生み出す一次ソースとしての地位をブンガクが失いつつあることに対する危惧があるんだろう。そして、その危惧は間違いなく現実であるとも思う。だがしかし、だからといって「どうせブンガクなんて。。。」と自嘲的・諧謔的なポジションをとってマスターベーションしても何も生まれないよ。少なくとも子供は産まれない(笑)。そんな生存能力の低いgeneだかmemeだかはこの荒漠とした言説空間をサバイブできっこない。

ぼくが梅田さんのメッセージからいつもグッとくるものを感じるのは、それが世の中が「こう、だよねー」というAs-Isを記述してぬるい共感を求めるのではなくて、「こうでなくてはならない」というTo-Beを執拗に記述することにつとめている、すなわちActionだからだ。「かたち」ではなくて「ちから」、「現在」ではなくて「現在の一階微分」を記述しているからだ。それがいかにグローバリズム迎合的で目的論的に過ぎていようとも、goodとかevilとかいうコトバを不用意に使うナイーブなユートピア思想に感ぜられようとも、知を競う空しいコトバ遊びと嗤いの無限連鎖よりは、ぼくはこちらを選び取る。グーグルにしたって、全体主義イデオロギーがかつて冒した合理性への過信と五十歩百歩というか、「Meet the new boss. Same as the old boss.」のリフレインかも知れない、というか間違いなくそうだ、なんてことは百も承知だけどさ。

こういう割り切った受容の仕方ができるかどうかという点について、ぼくはいわゆる知識層と呼ばれる人々をあまり信じていない。なぜなら、世の中は無知で無謀な冒険と革命によってしか代謝したことがないからだ。知識は常に理論武装イコール自己防衛へと向かう。無知こそが外野を開拓してゆくチカラだ。コトバで大切なのは知識ではない。知識なんてものは過去への解釈学だ。そうじゃなくて、大切なのはチカラだ。チカラは未来だ。まだコトバにできそうでできない手探りの闇の部分に神だか悪魔だかはひっそり隠れている。

だいたいそもそも、みんな、世の中の発明だとかイノベーションだとか、鼻クソほじりながらボーッとテレビを見ながら偉そうな論評垂れてるうちに勝手に誰かがどっかで成し遂げてくれて、そのうち手元に舞い込んでくるものだとでも思ってないか。それをやっているのが自分でないということに危機感を感じないのか。無謀な冒険に出ていって満身創痍になりながら成長してゆく勇気を持った人たち「だけ」が、エキサイティングな未来というものを白紙のキャンバスの上に描き上げていくのだという当たり前のことに思い至らないのか。

。。。なんて、ちょっと熱くなってしまいました。

まぁ、さはさりながら、平野のいう「(現実の世界とネットの世界とで)分裂してしまった自我」が「顔というものの同一性によってどうしてもつなぎ止められてしまう」という目の付け所も、自分の中の「知」に反応する成分が激しく食指を動かしているので、ぜひ新作の「顔のない裸体たち」も読まねば。

顔のない裸体たち
顔のない裸体たち

まぁ兎にも角にも、新潮のような文壇誌にさえ、ここまで精緻なネット論議が特集されているというその一点をとっても、確実に日本の言説空間におけるネット認知のボトムラインが上がったと感じられたわけで、今回の対談はタイムリーで「Great job indeed!」です。

ぜひ平野には、ネットやテクノロジーの「手触り」みたいな言語化しにくい部分にどっぷり浸かってもらって、今後もその独走的なポジションで、コトバにできそうでできない手探りの闇の部分に潜んでいるかもしれない神だか悪魔だかの存在をあばくような作品を書き続けて欲しいなぁ、と期待しています。というか、ぼくが読みたい。(笑)

あ、そうそう、この対談、来月も続くそうですよ。

さて、そろそろ夜も白んできたし、Let's get back to work. といきますか。

♪ Def Leppard / Action

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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