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浅薄なメディア論に疲れたあなたに贈るIT革命論

2005/04/25 03:56
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20世紀末、IT革命という言葉が列島を席巻し、異様な熱気とともに迎えたバブルとその崩壊、そして先日のホリエモン騒動にいたるまで、その上げ下げの激しさといったら目の回る思いだけれど、振り返ってみればたった数年のできごと。今回は温故知新の思いで「IT革命」というキーワードを掘り起こしてみよう。

放送とネットの融合だの、ブログによる新たなジャーナリズムの台頭だの、世間はいろいろとかまびすしいけれど、ぼくたちはIT革命とはなにものか本当に考え抜いてきたのだろうか。

IBM - マイクロソフト世代の業界人は、ライブドアや楽天なんてIT企業じゃないという。「Information=情報」を扱ってはいても「Technology=技術」を生み出してはいない、というのだ。だからネット業界とIT業界は別物だ、というわけである。まぁ、それはそれで言いたいことはわかる。だけどその物言いは、ぼくに言わせればプロ野球問題のときにオーナー会の長老たちが世に曝した醜態とどれほども違わない。

ベンチャー企業が勃興する。株は急騰し、景気に期待感が出る。しかし、タレントの人気が永遠ではないように、バブルは必ずはじける。様子見だった大企業がのっそりとネット経済に乗り入れる。あちこちで社内の点検が行われ、思い切ったリストラが始まる。そして、スリムになって生き残った大企業が改善した株価で大胆なM&Aを繰り返し、ゾンビ資産をバッサリ捨てて生産と流通の構造が変容し、実体経済があとから追っかける。なんとかアナリストみたいな肩書きの連中は、ダフ屋と一緒で、こういう短期的なシナリオを語らせたら一流だ。

でも、こういう議論には「生活してるぼくら」がまるで出てこない。

まぁ、いつだって経済学は「供給者」の視点に立っていて需要家なんて統計数字上の集合でしかなかったわけだし、消費者である「ぼくら」のリアルな生態はいつも社会学の問題だったから、この専門分化のご時世、ワンストップでおあつらえ向きのご回答なんて期待しちゃいけないんだろう。やれやれ、何でも自己責任ってこった。

だから、もう一度言おう。ぼくたちはIT革命がなにものか、まるでわかっちゃいない。

■文字とメディアの文明史

数分おきにメールをチェックし、けたたましくキーを叩き、トイレの中ですらケータイでニュースをチェックする。喜びも不安も感動も怒りも、あらゆるコンテキストがテレビCMのような唐突さで10秒フラットでシャッフルされて切り替わる。そしてふと我にかえる。5万年来の祖先からまったく変わることなく受け継いだホモ・サピエンスとしての何かが、自分の中から警告を発している。

こんな経験をしたことのある人は多いだろう。

しかしだからといって、もし「情報」を、なにか現代的で特別なものと考えているなら、それはそもそもの根本から間違えている。

広義における「情報」とは、以前にも書いたように「生きていくうえで必要な『区別』を行うための興味の粗さ」の単位だ。だから、40億年前の海中で原始生命が誕生すると同時に、情報は「環境」から「食べ物」を『区別』するためのものとして生まれ、以降あまねく生命体は飽くことなく情報を処理して生きてきた。

この過程でホモ・サピエンスがユニークな存在となったきっかけがあるとすれば、哺乳類にはめずらしく聴覚よりも視覚を優先し、約5000年前に「文字」を獲得したことだ。

人類学者のダンバーは、霊長類の群れの構成メンバー数と大脳新皮質の大きさに相関があることを実証し、ヒトの群れの規模は基本的に150名であると結論した。狩猟採集民族の氏族(クラン)、初期農耕民の村、軍隊の中隊などの規模などの構成員数が、だいたい150名前後である。群れを維持するために、サルなら毛づくろいによる親交とボスの示威というあまり効率のよくない手段に頼るしかなかったが、大脳が大きくなったヒトならペチャクチャお喋りと祖先に関する神話、つまりゴシップによる親交とフィクションによる示威という、より伝播力のある手段によって群れの規模を150名までスケールさせることができたというわけだ。

そこに登場したのが「文字」という、音声言語よりもさらに伝播力のある手段だったのである。

この文字によるコミュニケーションの系譜には、二つの大きな節目がある。一つは、キリスト教やイスラム教の教典が書かれた古代・中世、もう一つはグーテンベルクが活版印刷を発明したルネサンス以降だ。

いずれも、人類社会におけるコミュニティの規模的拡大を推進した大事件だった。

キリスト教がローマ帝国のヘゲモニーをも凌駕し、イスラム教が政治的に分裂した後も中央アジアを超えて版図を広げたのは、いずれも聖なる存在の言行が書かれた権威ある書物が「求心的なフィクション」として儀式による聖性を補完したからである。

さらに、グーテンベルクが活版印刷によって情報のコピーを可能にしてからというもの、文字によるフィクションの浸透圧は一層高まった。かつて歌や踊りをともなう儀式によってのみ得られた陶酔感や情緒的な一体感も、自室に引きこもって聖書を読んでいれば疑似体験できるようになったのだ。

やがて近代国家では(少なくとも形式的には)政教分離がおこなわれ、宗教はコミュニティの統合をつかさどる社会的装置から個人の内面にかかわる心理的装置へと重心を移し、多民族を広くゆるやかに統合していた帝国は解体され、国民国家へと再編成されていった。

この過程で特筆すべきは、政治学者ベネディクト・アンダーソンが指摘したように、それらの主権国家においては「一般人の話す俗語による情報交換がコミュニティの結束を強めた」ことである。事実、かつての帝国エリートであった貴族・官僚・僧侶たちの手中にあったラテン語やギリシア語にかえて、フランス語・英語・ドイツ語など、俗語が広く用いられるようになってきた。

そして、独立意識に燃える北米の市民を束ねたのは、ベンジャミン・フランクリンによって英語で発行されていた「新聞」だった。何万ものお互いに顔を見たこともない人々が、毎日同じ記事を読み、喜怒哀楽を分かち合い、いよいよアメリカ合衆国を打ち立てたのだ。

構成員数万人から数億人を擁する近代国家とは、「文字」を媒介するメディアがつくりあげたフィクションに他ならない。

別の側面から切れば、人と人とのコミュニケーションを媒介するインフラとしてのメディアとは、たとえば国家の成立条件そのものであり、「メディアが変わる」とは、人類社会を根底からくつがえす可能性を秘めた大事件なのだ。

ゴシップによる親交とフィクションによる権威がいずれも主たるフィールドをネットに移すとき、まちがいなく社会のルールは変わる。たとえそれがその歴史的時点での倫理観に反し身体性という自然に逆襲されるものであったとしても、その宿命からは逃れられない。国家とは、共同体とは、といった問いがリアルな問いとして問い直される。IT革命とは、比喩ではなく文字どおりの意味において革命なのだ。

日々ネットに触れていれば、自分の価値観が衝撃的なまでに覆される体験を何度か味わったことだろう。ぼくらが向かっているこの道筋には、それがもっともっと尖鋭化した、甘美でグロテスクな社会的価値の変容が待ちかまえている。近代は終局にあるがまだ終わってはいない。岸田秀や養老孟司が指摘したとおり、好むと好まざるにかかわらず、社会は脳の外延としての性格をますます強めていくのだ。

IT革命とは、メディアの革命と同義であり、公私にまたがる(そもそも公私の別なんてたかだかここ200年の工業社会パラダイムの要請した労働観を引きずっているに過ぎないわけだが)社会の価値観をゆさぶる革命であり、つまりぼくらの生活様式の革命なのだ。

このような視座を抜きにしては、メディア論を語ってもテクニカルでくだらない枝葉末節に終始してしまうのも仕方あるまい。

■メディア成立の要件

メディアが人と人とのコミュニケーションを媒介するものである以上、メディアを成立させているのは他ならぬ一般市民である。

あるメディアが社会に受け容れられるかどうかは、そのメディア自体の技術的・戦略的な要件ではなく、親交的・創発的な要因によって決まる。

クロード・S・フィッシャーの著した「電話するアメリカ―テレフォンネットワークの社会史」によれば、19世紀後半、グラハム・ベルが電話を発明した頃の主なユーザは軍部や官僚や資本家などのエリートたちだったけれど、最終的に爆発的な普及をもたらしたきっかけは「奥様方のおしゃべり」だった。通信キャリアは電話を社交目的で使わないよう宣伝し続けたがそんなことお構いなしにトラフィックは増え続け、本来想定されていた用途以外にユーザ自身が使い方を発明するということに通信キャリアが気づいたのは、ずっと後になってからのことだ。そして電話は市民のコミュニケーションインフラになった。

また、水越伸の「メディアの生成―アメリカ・ラジオの動態史」によれば、ラジオ放送は当初、現代のアマチュア無線のように、双方向の交信が楽しくて仕方がない人々の趣味として始まった。ところが、話すこともなくなって通話に飽きたあるアマチュアミュージシャンのグループが、毎週決まった日時に自分たちの演奏を流し始めた。この演奏が評判になり、もっぱら演奏を聴くためだけに通信機を買い求める顧客層が生まれてきた。このアマチュアミュージシャンのメンバーの一人が属していた電機メーカーがこれに目を付けて、素人でも扱える簡単な受信専用の無線機を発売して、大ヒットした。そしてリスナーが増え、番組の送り手を支援するスポンサーも現れた。こうして、ラジオが一方通行の放送に用いられることをサポートし、マス・メディアを成立させるビジネスモデルの萌芽は生まれたのだ。

そして冷戦後、軍事技術を民生用に転ずる「ディフェンス・コンバージョン」によってARPAnetから誕生したインターネットがどのように育ってきたかは、もはや言うまでもないだろう。

ここでふたたび注目しなければならないのは、いわゆるメディアはそれとして計画的に企図され準備された道筋など決して辿らず、あくまで市民がハッピーな気分になりたくて、メッセージを発信し、それを受け取るというコミュニケーションの、はじめは小さなところから、次第に大きくなってゆく連鎖によって育てられるものだということ。

マクルーハンは「すべてはメディアであり、メディアはメッセージを運ぶのではなく、メディアそのものがメッセージである」と言った。数字も、貨幣も、すべてがメディアだというこの風変わりな議論をサポートする学術的な成果は、さまざまな分野で出てきつつある。国家や共同体を形成する信頼と契約と共同幻想の三角関係は、さまざまなメディアの形をとって現れては円環をなし、ヒトが生きるということのもっとも原初的な目的論思考において閉じる。

■まだ見ぬネットの力学

IT革命はまだ始まったばかりだ。と、ぼくがこのブログで繰り返し行っている主張が商業主義的なプロパガンダに聞こえているうちは、商業ってものがわかっちゃいない証拠だ。経済とは、生活の従属変数だ。価値観が変わり、生活が変わる結果として経済効果が現れるというのは、あまりに当たり前のこと。この世が変化するきっかけは、常に、統計でとらまえるにはあまりに小さい。

産業革命の初期には、まさか一般人がマイカーを持ち、超高層ビルで働き、亜音速で空を飛んで旅行を楽しむというライフスタイルがおとずれようとは、誰にも予測できなかった。

ised@glocom設計研にオブザーバーとして参加したときのコメントでぼくが言いたかったのは、ぼくらはまだポストIT革命の価値観について語る文法と語彙を持ちえていないという、そのことだった。

たとえばここで東浩紀氏が提示した「身体の管理・内面の自由」というポストモダンの二層構造は、じつに鋭い。間違いなくこれで形式的には多くのことが説明づけられるだろう。ただ、ぼくはこの理論に反証可能性なき無敵の正しさを感じるという意味において、なぜかマルクス唯物論のような、あるいはダーウィニズム的なアンビバレンスをも感じてしまうのだ。

ぼくが知りたいのは個々のコミュニティがどうなっていくか、形式ではなく内容それ自体だ。進化論ではなく、個々の種の生きざまだ。各コミュニティのフラットな相互無関連化というのは実質的にはありえず、それぞれ相互に弱い影響を及ぼし合い、あらたな力学場を生じ、そしてそこにはやはり新たな構造が生じるはずなのだ。ぼくの関心は、いつもそこにある。(ともあれ、現代的知性の最高峰が集うised@glocomで行われている議論は他に類を見ないほど刺激的であることは間違いない。ぼくごときが言うまでもないけれど。)

ともかく、できれば何らかの具体的な見通しがつくまで温めておきたかった、こんな煮え切らない思考をさえぶちまけてしまいたくなるほど、昨今の巷間賑わすメディア論はぼくにとってエトスもパトスも感じられない空疎なものだった。

ぼくらの社会を方向付けるものは、文字とメディアの文明史をふりかえるまでもなく、ふたたびコトバであるだろう。それも、未来を切り開いていくような力強いコトバが、待望されている。たとえばブログにはそのようなコトバを成熟させていく役割を果たす潜在性があることに、気づいているだろうか。

ぼくらは歴史の中の現在に生きているのだから。

Vinnie Colaiuta / I'm Tweeked - Attack Of The 20lb Pizza

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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