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顔のソーシャルロール

2005/03/11 07:24
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人間にとって顔ほど重要なものはない。

赤ん坊は母親の顔を見た時間が12時間を超えたあたりから、お母さん顔を他と区別し、好むようになる。

成人はゆうに1000をこえる顔を記憶し、識別することができる。これほどたくさんのものを弁別することができる物体は、顔だけである。

たとえば顔なら静止している写真を見せただけで「男か女か」「年齢はいくつぐらいか」「知り合いかどうか」「どういう心理状態か」といった情報をおおむね瞬時に伝えることができる。視覚的な客観情報としては「二つの目と、その下に鼻と口」があるという同じパターンに過ぎないにもかかわらず。

■顔の認識能力は生得的なもの

こうした顔の識別における特異性を実現しているものは「顔ニューロン」という特殊な細胞組織であるという説がある。機能局在論者のそういう極端な論点は脇にどけておくとしても、何らかの進化的な裏付けによって顔情報の分解能が高まったという説にはそれなりに説得力がある。

顔ニューロンの発見

目は口ほどにものを言う。表情や視線に注目すれば相手が何を考えているのかを推測する大きな手がかりとなる。つまり顔はコミュニケーションにおいて大きな役割を果たすメディアだという点については、論を待たないと言えそうだ。

だからこそ、目と口を思わせる三つのシミがあればそれが心霊写真に見えてしまうし、「(^o^)」や「:-)」は笑顔に見えるし、相貌失認という障害は言語の障害と同じぐらいの不自由な思いをすることになってしまう。

Mono J+ : 顔の認識

【0695】私も先天性相貌失認なのでしょうか

24歳、未婚女性です。先日更新されていた精神科Q&Aを見たのですが、【0683】の人の顔が覚えられないという方のメールの内容と、先生の返答を見て驚きました。私も【0683】の方と同じで、人の顔が覚えられないのです。家族の顔はもちろん覚えているのですが、学生時代にはクラスメイトの顔が覚えられないまま卒業までを過ごしたりしました。辛うじて覚えた中学時代のクラスメイトは、卒業翌日に偶然会い、声をかけられたのですが全く誰か認識することができませんでした。親しい人も一応顔は覚えているのですが、やはり【0683】の方同様、髪型や服装、会う場所が変わると途端に区別がつかなくなり、不安になります。テレビで見る芸能人などは、カツラを着けるまでもなく、普通にしていても区別がつかないです。現在、今の職場に入って1ヶ月半ほどなのですが、他の人の顔が全く覚えられず焦っている状態です。

顔を識別できないというのがどういうことかを体験してみたければ、顔の倒立効果を実験してみるのがてっとりばやい。サッチャー錯視とも呼ばれるこの効果は、顔の写真をさかさまにしてみると通常にくらべて格段に表情の読み取り感度が鈍くなってしまうという現象である。顔認識の特殊性を理解するのに役立つだろう。

サッチャー錯視(Flipボタンをクリック)
ブッシュ(絵をクリック)
小泉首相

■顔はだれのもの?

それにしても奇妙なのは、他人がわたしをわたしとして認め、覚えてくれるその顔を、よりによって当人であるこのわたしは一生見ることができないということである。もちろん鏡や写真やビデオで確認することはできる。が、わたしが他人と向き合っているまさにそのときに顔が発している生のメッセージを、わたし自身は確認することができない。この点で、顔は自分のためにあるのではなく、他人に自分の心中を見せるためにある、プライバシーの覗き穴なのだ。

オリバー・サックスの「妻を帽子と間違えた男」には、ニューヨークの路上ですれちがう人々のしぐさや表情をものすごいスピードで模倣する老女が登場する。老女はある種のチック症で、他人とすれちがうとき発作的にそのひとのコピーをしてしまう。それが繁華街なので、すれちがう人が多すぎて万華鏡のようなすばやさで表情が切り替わり、ひとつの模倣が1〜2秒ほどだったという。さらに、まねされた人たちはギクリとし、憤然としたり腹を立てたりして、彼女をにらみ返す。すると彼女はそれをまた歪めてまねする。そこでその人たちはますます激怒したりショックを受けたりする。こんなグロテスクな共鳴現象がどんどんその場に広がっていった。やがて老女は人混みから逃げ出すように脇道に駆け込んで、絶望的な表情でからえずきする。

だがしかし、これはほんとうに異様な光景なのだろうか。わたしたちも路上で、オフィスで、バーで、いつも他人と視線をやりとりしている。たがいに無関心を装った無難なコンタクトや見て見ぬふりの監視を、常時くりかえしている。遠慮や抑制を別にすれば、わたしたちは内心では彼女と同じようにして他人の表情を読みとっているのではないのか。

この点を理解するには、もっと昔の記憶をたぐり寄せてみるといい。表情のつくり方、歩き方、発話の仕方、箸の持ち方、わたしたちが成長や学習と呼んでいるもののすべては模倣からはじまったのではないか。模倣したり共感したりといった機能を担うミラーニューロンが運動性言語野の中、すなわち話すという行為をつかさどる大脳内の部位に存在する、ということの意味について、考えをめぐらせてみるのもいいだろう。

わたしはこういう話をはじめるとすぐ、模倣による属性の獲得と喪失からエクスタシー(自分でなくなること)やアイデンティティ(自分であること)の問題に立ち入りたくなる衝動に駆られるのだが、今回は、ともかく顔というものは私有されるものではなく、関係性の中に定位してはじめて意味作用をもたらすソーシャルデバイスだと述べるにとどめる。

■個別性と美醜

感性に関わる遺伝子の数は、視覚が4〜10数個なのに対して味覚が30個、触覚が20〜40個、聴覚が50〜100個、そして嗅覚にいたっては1000個もあるという。そういえば確かに、私たちは特定のにおいを表すとき「リンゴのにおい」「マツタケのにおい」のような具体的な表現をする。これではリンゴやマツタケを知らない人にはうまく伝わらないが、においは抽象化・一般化することが難しい。「20センチ四方の青い箱」や「小さな丸いボール」のように表現できない。これと同じような認知特性が、視覚のゲシュタルト的総合である「顔」にもあるようなのだ。

斎藤環の「文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ 」には、このような記述がある。

 実体としての「顔」は存在しない。少なくともそれを「皮膚の起伏のパターン」とみなす立場にとっては存在しない。しかしまた「顔」は、誰にとっても自明のごとく存在する。その存在を誰もが認めつつ、それ以上の抽象をなしえないもの(例えば「似顔絵」は換喩であって抽象ではない)。そう、顔の自明性こそは、われわれがその本質を理解しえないという意味で、ただ「自明である」と指さすほかはない位置に置かれている。

このような個別性にもかかわらず、わたしたちは顔の特徴、たとえば性別・表情・人種・年齢・美醜といった抽象的な属性については、およそ誰でも同じような判断を下すことができる。

特に顔の美醜というテーマについては、それがセンシティブな話題だけに、美術や広告によって情報のもつ情緒作用が過剰に浪費されている現代社会に切り込んだ秀逸なSF小説がいくつもある。すぐ思いつくだけでも、脳だけに価値を認められた醜女が植物人間の美女を遠隔で神経接続して生きる悲劇を綴ったジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの「接続された女(愛はさだめ、さだめは死)」、容貌差別(ルッキズム)が社会問題になっている世界で相貌失認(プロソパグノシア)ならぬ美醜失認(カリーアグノシア)を起こす処置をめぐってストーリーが展開する、テッド・チャンの短編「顔の美醜について(あなたの人生の物語)」などがある。

ここ一年ほどでソーシャルネットワーキングサービスが広がったきっかけは、Orkutにおける顔写真の羅列にあったといってもいいだろう。ここではすでにデフォルメや記号化がすすんでいるけれども、依然として「顔」はわたしたちが見るもののなかでは特別なものだ。

ソフトウェアやサービスの開発に携わる人なら、こんな当たり前のことの再確認にも何らかの意味があることだろう。

「『顔』研究の最前線」(竹原 卓真、野村 理朗)
「『顔』研究の最前線」(竹原 卓真、野村 理朗)

進化論、発達心理学、認知神経科学、生理学、精神疾患、記憶、化粧、高齢者などの視点から「顔」をいうものを読み解く意欲的な研究書。変にまとめようとしていないので、顔研究をめぐるホットで流動的な空気を感じることができる。

「顔を読む―顔学への招待」(レズリー・A. ゼブロウィッツ)
「顔を読む―顔学への招待」(レズリー・A. ゼブロウィッツ)

顔が他人にあたえる印象や偏見、それによる損得など、具体的で示唆に富む内容となっている。顔の持つ力とその力に踊らされないようにする知恵を与えてくれる。

Babyface / When Your Body Gets Weak

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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