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ソフトウェアをめぐる知的財産権の悪夢

2005/02/09 05:10
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前回のエントリ「『一太郎』訴訟にみるソフトウェア特許のぶざまな現状」にたくさんのトラックバック・コメント・メールをありがとうございます。皆さんの熱のこもった頼もしい意見に勇気付けられます。

残念ながら今回の事件は、ソフトウェアと知財の歴史に刻まれた国内最大の汚点として記憶されることになるでしょう。しかし一方、これは今後やってくる、より深刻で避けがたい特許バトルの前哨戦に過ぎないということも言えます。

まず、いただいたトラックバックから重要なものをひとつ。知的財産権・IT関連のフィールドで弁護士をされている小倉秀夫さんから、

「BENLI : 差し止められるべきでないのは一太郎だけではない」より

とはいえ、ソフトウェア特許は、財界人の強い要請に従って政策的に認めさせられた経緯がありますから、法曹会のボンクラぶりに責任を負わされても困ってしまいます。文句があるなら、知的財産推進計画2004の見直し作業の中に、「ソフトウェア特許の制限」を入れてもらうべく、せっせとパブリックコメントを書きましょう(締め切りは2月14日です。)

というご指摘をいただきました。ありがとうございます。

「知的財産推進計画2004」の見直しに関する意見募集

というわけで、皆さんもぜひ上記へコメントの投稿をお願いします。(もちろん私は提出済みです)

ひとつだけ注意しておくと、コメントを読む相手も人間ですから、熱くなりすぎたり誹謗中傷論になっては、仮に光る部分があっても取り上げてもらえないでしょう。適度に熱く、適度に冷静に、言いたい事を言うよりもプラグマティックに実を取りに行く現実路線でお願いします。

■ソフトウェア特許戦争は始まったばかり

奇しくも昨年末の12月1日、Open Source Way 2004で講演された中央大学教授で日本知財学会副会長の今野浩氏がこう語っていた。

「ソフトウエア特許との泥沼の戦いが数年以内に起きる」――中央大学 教授 今野浩氏

「ソフトウエア特許への投資を回収しようとする動きが,事件として数年以内に起きる」と語り,ソフトウエア特許による大型の訴訟が発生し,IT業界に大きな影響を与えるとの見方を示した。

(中略)

「どろどろの戦いになるだろう。その長い闘争を経て,ソフトウエア特許の弊害が認識され,廃止されることになるのではないか」(今野氏)

まるで今回の事件も含めすべてお見通しだったかのような鋭いコメントである。

今野浩氏は、カーマーカー特許という数学アルゴリズムめぐる特許で疲労困憊しながらつらい戦いを経験された。「知財戦争」(三宅 伸吾 著)でも「線形代数も知らない裁判官にカーマーカー法とディキン法の同一性を理解してもらうことは可能だろうか」「最低でも裁判官に20回レクチャーをすることが必要」「大学1年分の講義を裁判長に対して行うことが必要」などとという痛々しいコメントが掲載されている。

数学は特許になるか(カーマーカー特許をめぐって)
カーマーカー特許とソフトウェア―数学は特許になるか(今野 浩)

特許の問題は構造的な問題であるのは明らかだ。まず、はっきり言って「ソフトウェア特許に肯定的な技術者に優秀なやつは一人もいない」という予想は外してないと信じている(反例があるなら具体的な人名と成果物を)。しかし、彼らのスポンサーとなっている企業がそれらのエンジニアの技術を製品化したりサービス化したりといったビジネスに活かす能力に乏しい場合、彼らを評価し給与を支払う言い訳^H^H^H定量的指標として特許の出願件数を用い、他社が試行錯誤の末に実現したビジネスモデルにただ乗りするために特許を行使する。

これを権力と仕組みの暴走と言わずして何であるか。

■技術者に問う

まずここで、技術者に問う。いま、エンジニアの職業倫理と自覚が問われている。

あらゆるエンジニアは、フリーで提供されている知識やソースコード、善意に基づいて提供されている明らかに自分より優秀な人々の知見の恩恵に日々あずかっているはずだ。そうした「善意に支えられ育ててもらった自分」のアイデアを、恩人たちに還元するどころか抜け駆けして自分の勤める会社に囲い込み、そういった恩人たちに迷惑をかけるようなマネが、たとえ給与をもらう理由としてでさえ、フェアだと思うだろうか?

心あるエンジニアは、特許出願という自分の仕事が抱えている倫理的な矛盾に葛藤しているはずだ。

マンハッタン計画をご存知か?第二次世界大戦中に米国が行った原爆製造研究のコードネームである。軍拡競争のさなか、科学者たちは自国民を守るためというそれなりに正当化される大義名分のもと、最終的に広島と長崎に投下されることになるそれを作り上げたのである。問題の深刻さに気付いた科学者たちが、倫理的理由からこの爆弾を使うべきではないと異議申立をしたが、時すでに遅し。成果物はすでに軍部の手にあった。

これがまったく同じ構造の問題だと気づいているだろうか?米英両国の会合でウインストン・チャーチルは「国際間のゆすりに使えるものを手に入れる競争でドイツまたはロシアに負けてはならない」と語ったのだ。このマンハッタン計画に関わった一部の心ない科学者のように「自分は給料をもらうために仕事をしたのだから仕方ない」と開き直れるだろうか?

この際シンプルに言い切ろう。「ソフトウェア特許は産業発展にとって百害あって一利なし」である。少しでも心に思うところのあるエンジニアは、このことを肝に銘じ、給与をもらいながら、特許に関してはうまくボイコットする処世術を身につけて欲しい。なに、それは勤め人として自社への裏切り行為ではないかと?雪印やエンロンの事件で聞いたような論理だ。自分のカイシャと社会とどちらかを裏切らねばならない場合、どちらを選択することが自分にとっての正義か、よーく考えてくれ。

それに、優秀な科学者や技術者が日々食うための職業意識との折り合いをつけるのに悩まされるというのは何世紀も昔から連綿と引き継がれてきた伝統で、何も今に始まったことではない。だいたい優秀なエンジニアというのは、業務の合間をうまくぬって、それとは別にオープンで自由な創作活動の場を大切にしているものだ。それが優秀なエンジニアの定義と言ってもいい。

なに、メリケンの黒船にやられるのは忍びないと?舞台は日本だ。国策レベルでやれることはいくらもある。軍拡競争から下りるという世論こそがその指針になるというものよ。前回のエントリの末尾に沢山引用したヨーロッパの戦いぶりを見よ。

希望的観測にすぎる?私にだって、そのぐらいの自覚はある。だが、他には何ひとつ希望がないではないか。

ほら、そこのモヤモヤ迷っていたあなた、割り切れるようにこうして背中を押したのだから、あとは自分のやれることをやるのみ。わかっていて何も変えないのが一番の罪だ。

■栗原潔さんの見解

今回の件でいろいろとWebを探してみると、ガートナージャパンのリサーチバイスプレジデントである栗原潔さんがBlogでこの件について書かれていた。栗原さんはあちこちのメジャーイベントでの講演や記事で有名なのでIT業界の人ならご存じの方が多いと思うが、私も信頼を寄せている慧眼のエンタープライズ系IT業界アナリストだ。(弁理士の資格までお持ちとは知らなかった)

栗原潔のテクノロジー時評
知財カテゴリーのエントリ一覧

ここのところ、今回の事件についてのエントリが続いている。

コメントしにくい一太郎特許問題

ここからスタートし、続いてIT業界アナリストとしての見解、弁理士としての見解を縦横無尽に使い分けながら議論を進められている。

ユーザーインターフェースを特許にしちゃっていいの?

やはり、用途そのものに進歩性のないユーザーインターフェースに特許を認めるのは産業の発達を阻害する、という点についてはほぼ有識者の間で論を待たないようだ。

■特許の生誕、法と権利

私は基本的には人間の善性を信じたいと思っているのだが、ごくまれに驚くほど近視の人間がいるので、いつもなら折り目正しくスルーするのだが、今回はひとつ現代人がごく無自覚的に幽閉されているエピステーメーについて講釈を垂れてみることにしたい。

特許制度そのものについての詳細な検討はあとでいくらでもできるしそこは専門家に任せるとして、私は私なりの切り口で今こそ「皆さんが自分の頭で考えること」のお手伝いをしたい。これをきっかけに法や権利というものの本来的な意味・役割についてもっと理解を深めようという意欲が高まり、理論武装して戦力になってくれる人が一人でも出てくれれば嬉しい。


世界で最初に特許制度が生まれたのは、万能の技芸を誇る発明家レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍したルネッサンス期である。1474年にイタリアのヴェネチア共和国で公布された成文特許法「発明者条例」がそれにあたる。ルネサンスの三大発明は火薬・羅針盤・活版印刷とされているように、当時活発だった発明という行為の商業的保護が目的だった。

All About : 天才発明家、ダ・ヴィンチ

あらゆる権利には義務が伴う、と考えたのは17世紀の政治哲学者ジョン・ロックだったが、特許にも同様のバランスがある。それはどのようなものか。

義務:「新技術を公開させるその代償として」
権利:「一定期間(現行法では20年)の独占権を付与する」

これをソフトウェアに適用することを考えるとき、権利と義務のアンバランスさにお気づきだろうか。義務が義務としての重みを失っているのがおわかりだろうか。もともとこのシステムというのは、発明技術を独占して隠し持たれることを防ぐために、広く公開しさえすればより強力な独占権を一定期間得られるという、積極的開示に仕向けるインセンティブが織り込まれたものであった。つまり本来、特許は知のオープン化を目的とした決まり事だった。しかし、後に述べるように、今や技術情報は改めて特許法の力を借りて公開しなくても本当に有用なものはすでにコミュニティで共有されているし、この開示義務の存在によって社会が受け取るメリットは大量のスパム特許の存在によってとっくに機能不全に陥っている。

もう一つ、ガリレオ・ガリレイが1594年に灌漑装置についての特許をとったときにも、現行法と同じ20年の独占権が与えられていた。多く指摘されているように、この期間の長さがそもそもソフトウェア産業の実態に合っていないのは間違いない。

特許制度の基本理念

さらに議論を進めるために、ここで一旦「法」や「権利」についておさらいしておくのがいいだろう。

ホッブズとロックを代表とするアングロサクソン流の自然状態・自然権をめぐる議論から出発し、市民革命が社会の基礎構造を「身分」から「契約」へと置き換え(社会契約論)、モンテスキューが唱えた立法・司法・行政の三権分立によって近代の法治国家の基礎が築かれたとする考え方がある。

だがフランシス・フクヤマがいみじくも剔抉したように、古代ギリシャの政治哲学では、政治的権利の基礎を人間の本質に置いていた。それに対して、後世の政治哲学には抽象概念の層がどんどん加えられている。近代とは、何を権利として認めるかという解釈をひたすら拡大し量産する歴史だったと言ってもいい。

いずれの系譜をたどるにせよ、権利とは、一義的には個人に対して認められるものだった。ところが、ある目的のもと集団を構成する場合、財産所有や契約などの法律行為を個人の責任ではなく団体の責任で処理できるようにしたほうが効率が高く、実態にも合っている場合が多くなってくる。そこで、近代では「法人格(法律に基づいて団体に与えられる法律上の擬人格)」という概念を導入し、法人にもさまざまな権利を認めるようになってきたのである。

法人の権利能力には本来、「自然人(個人)のみが主体となる行為についての権利能力はない」「権利能力の範囲は法令によって制限され得る」「法人の目的・約款の範囲を超える行為についての権利能力はない」などの制約があるのだが、この点は意外と見過ごされがちである。

つまり特許権も、本来はいわゆる個人など力を持たざる者の保護について認められたものであったという経緯がある。にもかかわらず、いつの間にやら法人の既得権として野放図に拡大解釈されてしまったようなのである。私はこの点を強く批判する。

自然状態・自然権・国家 ホッブズ、ロック再読
☆基本的人権保障の思想☆

■特許権の法人格への適用による「量」の拡大が破綻を招いた

そもそも、ある「個人」が年間に数百件もの特許を申請するなどということは、想定されていなかったはずだ。ところが「法人」が組織的にそれを行うならば、可能である。巷に枝葉末節な特許論争はあふれているが、本質的な落とし穴はこちらではないのか。

自らに関わりのある業界の特許が年に数件程度で、そのすべてが業界人コミュニティの話題にのぼるような時代ならば、特許というシステムには問題はない(というか依然問題はあるのだが少なくとも制御可能である)。だが、特許が年間10万件も登録されるようになった現在、権利侵害の可能性を調査する負担をおのおのの発明者が背負わされるというのは、明らかに理不尽ではないか。

2003年出願件数及び登録件数について

そもそも、真に進歩的な発明など、世の中にそうそうあるものではない。前回、私が「量的な側面の議論が抜け落ちている」という主張で伝えきれなかったもう一つの量に関する議論は、このようなことである。

こういう視点で議論をされている例はあるだろうか?あれば是非教えていただきたい。

特許権を含むあらゆる私権の原則はあらためて言うまでもなく公共性・信義誠実・濫用の禁止であり、すなわち権利と義務のバランスをいかに平衡させるかという論点で議論されるべきである。

■科学と発明は自由なコミュニケーションで成立する

ここからは、さらにもう一歩踏み込んで、「ひらめきの発明」や「第一人者」なんて考え方はそもそも胡散臭い、という話におよぶ。

俗にいう「偉人説」を支持する人々は、とてつもない天才が、素晴らしい学説や発明をある日突然ひらめいたのだというナイーブなイメージを抱きたがる。

しかしそれでは、なぜ、ダーウィンが「種の起源」を書き上げようという頃にアマチュアのウォレスが全く同じ内容の理論を書きあげ、ローレンツがカオス・アトラクタを発見したのと同時期に極東のわが日本で上田?亮氏がジャパニーズ・アトラクタを発見し、ライプニッツとニュートンは同時代に微積分を発見し、ベルとグレーは同じ日のたった2時間差で電話の特許を申請したのだろう?

この手の発見・発明の共時性は歴史をひもとけば枚挙にいとまがないが、これが単なる偶然だとでも、本気で思えるだろうか?

科学技術の発展というのは、科学者・技術者たちのコミュニティによって成り立つ極めて人間くさいものである。革命的な理論や発明というものは、その当時のコミュニティで広く共有されていた膨大な量の知見と蓄積を組み合わせ、最後にほんの一滴のしずくを垂らすことでドミノ倒しのように完成するような種類のものだ。(これは比喩ではなく実際に「地震」と同じ原理で、外部の観察者にとってはそれが突然勃発したように感じられる)

ノーベル賞を受賞した朝永振一郎氏は、「量子力学と私」という自伝の中で、1929年にハイゼンベルクとディラックが日本へきたとき、理化学研究所が当時根強かった学閥の壁を越えて日本中の大学に招待状を送り講演会を東京大学だけに囲い込まなかったため、京都から上京してこの刺激的な集まりに参加できたことの恩恵は非常に大きかったと述懐している。ほかにも当時の量子力学コミュニティでどれほど濃厚な(論文の交換も含めた)コミュニケーションがはかられていたか、その様子の一端をうかがい知ることができる。

本物の科学者や発明家こそ、いかに自分の業績は同時代人のコミュニティに負うところが大きいかについて自覚的であり謙虚なのであって、コミュニティへの恩をあだで返すようなマネはしないものだ。

発明は、時代が作る。

■このまま行き着くところまで行くしかないのか?

さて、このように書いてきて、ますます行く手を阻む障害の根の深さを感じるようになってきました。

私の知る限り、知的所有権についての本質的な議論ができるインテリたちの間では、冒頭の今野浩氏のように、このまま時代に逆行するような事例が今後もどんどん出てきて、フラストレーションの極限に達したときに既存の制度が全焼し、その焼け跡から新たな地平が見えてくるのではないか、という半ば傍観者的で悲観的な見解が支配的なようです。

しかし私は最後までこれに抵抗するポジションを貫きたいと考えています。同志の皆さん、頑張りましょう。

果たして、ミネルヴァのフクロウはいつ飛び立つのだろうか。

■参考

CNET Japan : オープンソース特許をめぐる難問

 American Intellectual Property Law Associationによると、ソフトウェア特許訴訟の費用は300万ドルにも上るという。ひとたび訴訟が起これば、典型的な中小のアプリケーション開発企業は、審理がすべて終わる前に倒産してしまうだろう。まして、個人のオープンソース開発者となれば、訴訟など到底不可能である。

Stacie Orrico / (There's Gotta Be) More To Life

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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