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情報・時間・コミュニケーション、そして意識(3)

2005/01/18 04:46
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前回の続き。

■ひとつ、ふたつ、たくさん

2004年8月、コロンビア大学のピーター・ゴードンはアマゾンのピラー族が「1」と「2」と「たくさん」しか数詞を持たないという発見を報告した。並べたレモンや電池を数えたり、缶から木の実を取り出したりといったテストを通じて、被験者が読み上げたり指を折ったりしながらこれらを数える精度を確かめたところ、4つや5つといった個数でも満足な精度で数えることができなかったという。

この発表によって、サピア=ウォーフ仮説、通俗的には「言語が世界についての認識や思考を規定する」という素人をびっくりさせるには十分センセーショナルな考え方(言語相対説という婉曲な表現をすることもあるが)をめぐる議論が再燃した。

Slashdot : 言語は思考を決定するのか?

だが、この考え方は言語と思考の関係にまつわる半分の局面しか明らかにしていない。もしここで上記の命題をさかさまにして「世界についての認識や思考が言語を支配する」と言い換えても、ピラー族での実験について何の矛盾も起きないことがわかるだろう。

この実験の報告は非常に興味をそそられるものであったが、実はもっと奇妙な話がある。

それは、数というものについて何もわかっていない、他ならぬ私たちの話だ。

■数のふしぎ

数学史以前の歴史とは、さまざまな文明が「数」と呼ぶに値する対象をみつけていく歴史だったといえる。

中でももっとも古いのは、モノを数えるときに使う数だ。実際、「数える」という営みは記号の登場よりはるかに昔からあった。なぜなら、数えるのに必ずしも数字は必要ないからである。

最も身近なやり方は、指を折って対象を名指しで結びつけることだ。例えば家族を数えるときに、親指はお父さん、人差し指はお母さん、中指はお兄さんというようにして、一対一の対応関係を作っていく。

この方法は日常の多くの場面で役に立ったが、対象が多くなると使えなかった。例えば、村人が集まって20人で集会をするときや、見た目で区別のつかない羊の群れが50匹も集まる場所では、この方法は難しくて使いにくかった。

そういう状況で試行錯誤するうち、人々はあることに気が付いた。それは、

  1. 同じものを二度数えない
  2. 数え漏れをしない

というルールさえ守れば、どういう順番で数えても最後には同じ指で数え終わるということだった。長老であるとか隣のおばさんであるとかいった対象のこまごまとした詳細を忘れて、すでに数えたか、まだ数えてないかだけで対象を二つに分類し、まだ数えていない対象がなくなるまで繰り返すという簡単なルールにさえ従えば、いつも同じ結果が得られた。

こうして、「私は片手と親指一本分のウマを飼っている」ということができるようになった。もはや、どの指がどのウマかは関係ない。そして、「6」という数字がなくても、もう一度数えてみて片手分しかなければ(どういう順番で数えたにせよ)親指一本分のウマがどこかへ逃げたか盗まれたのだということがわかる。やがて、指を折る代わりに石ころを並べていっても結果は同じだということがわかった。さらに粘土板にうがった穴の数でも羊皮紙に書いた記号でも同じだということがわかった。これが自然数の生い立ち(のシナリオのひとつ)である。

さて、このあたりでそろそろ、とっておきの数学の奥義を明らかにしてみよう。それは「プロセスのモノ化」である。

数えるというプロセスにおいて、どういう順番で数えるかという可能な組み合わせは無数にあるが、興味があるのは最後の結果だけ。途中経過には興味がない。そこで、「同じものを二度数えない、数え漏れをしないというプロセスを経たのち、最後に得られる番号を数(量)とよぶ」ことにしたのである。

数え上げプロセスがもつバリエーションの豊かさを捨て、そこにある不変パラメータとしての量=「数」という概念の抽出に成功したのが、私たちの文明の始まりである。

エントロピーと情報理論のタームで言い換えれば、「数え上げのプロセス」が持つミクロ状態の情報量(どの順番で数え上げるかの可能な組み合わせの数)をバッサリ切り落とし、体系の外に放擲することによって、「数」というマクロ状態の安定性・信頼性は成り立っているのだ。

ここから数学は数をこえて「演算(二つの対象に対して適用して第三の対象を得る操作)」や「関数(ある対象を入力すると特定のルールに基づいて別の対象を出力する操作)」などの「プロセスのモノ化」をどんどん推し進めてきた。

例えば、ルート2という数はそれ自体が2の平方根をとるという関数であり、それを求めるプロセスによって得られる結果であって、ルート2というものの実体がこの世界のどこかに知覚できる形であるわけではない(幾何学的相対量でしかない)。現在の私たちはルート2を数(無理数)として不自由なく扱うことができるが、ピタゴラスはルート2という無理数の存在を認めることができず、そのことを口外した弟子を殺してしまったほどのパラダイム転換だったという史実は知っておいて損はない。「プロセスのモノ化」は決して平々凡々なできことではなく、世の中の認知枠を根本からくつがえす不安からくる激闘の果てに得られるものなのだ。

こうして「数」は、その成立背景は完璧に隠蔽され、概念として最高ランクに位置する無前提の独立的地位を獲得した。特に自然数はカントほどの慧眼をしてa priori(ラテン語で「経験によらない、生得的な」の意)とまで言わしめてしまうほど、その地位を確固たるものとした。

■見えないものが見えるようになるということ

目に見えるモノやあるがままのモノは、感覚器官がそれとして知覚できるため、発見は容易である。しかしプロセスというのは、末端の感覚器官では知覚できない想念であり、何度やっても同じ結果が得られるという再現性によってのみ発見されるパターンであり、見える人にしか見えない。

なにしろ、先進国家の一員として西欧文明を謳歌しているつもりの私たちにしたところで、8世紀頃にインドからアラビアに伝わるまで「ゼロ」を発明できなかったのだ。見えないものは存在しないのだから、名前がつけられない。ゼロが数として認められるまでにこんなに長くかかったことを不思議だと思うなら、ものの数は複数であるときに意味をもつと考えられていたために、長らく「1」さえ一つの数とはみなされなかったという事実もあわせて知っておくといいだろう。1とは当たり前であり、具体的な固有名詞の世界であり、抽象的な用途がなかった。少なくとも計算のつじつま合わせに必要となるまでは。

長さや重さのような基本的な量は巻き尺や天秤で計ることができるが、ものごとの変化率は測定が難しい。ましてや、位置の変化率(速度)の変化率(加速度)という、「二次の」変化率である加速度を発見するまでには人類は長い時間を要し、17世紀のアイザック・ニュートンの誕生まで待たなければならなかった。

ニュートンの洞察は明快だった。斜め上方に打ち上げた砲弾が飛んでいくとき、時間を細かく等間隔に刻んで観測データをプロットした。すると、目に見える砲弾の位置は放物線を描いて複雑そうな曲線をたどる。しかし、それぞれの時間における直前の位置からの差(=速度)をプロットしてみると、それは単調に直線的に変化し、さらにそれぞれの時間における直前の速度からの差(=加速度)をプロットしてみると、それは一定で変化しなかった。

そこでニュートンはこの最も変化しない加速度というパラメータに注目し、あの有名な「力=質量×加速度」という恐ろしくシンプルで後世への影響力の高い方程式を導き出すに至ったのである。(ついでに言えば、このようにして変化率の変化率の変化率。。。と求めていけば、どんなに複雑そうに見える現象であってもいつかは変わらないもの、万物の隠れた法則が現れてくると考えた。微積分の始まりである)

人類はここでも勝利した。変化を続ける複雑そうな現象の中から、変化しない成分を抽出することに成功したのである。位置の変化率の変化率という複雑怪奇なプロセスを、加速度という概念に「モノ化」することに成功したのである。

こうして、激論のあまり血が流れたり自殺者が出たりしつつ、天才たちの本気の議論の果て、さまざまな「プロセスのモノ化」が進められてきた。これまで見えなかったものに名前を含む語彙一式が与えられ、より多くの人がそれについて理解者として語り始めると、それは実在となる。さらにそれが当たり前のものとみなされるほど広く実在性を帯びてくると、文明のステップがひとつ上がる。

だが同時に、それを当たり前のものとすることによって、ピラー族ほか異文化を理解するために必要な想像力、ひいては知性の源泉を追求するのに必要とされる基本的な構想力も失われているのだということについても無自覚であってはならない。

特定の文明や文化圏において度重なるコミュニケーションによって時間をかけて熟成された実在は、いつしか私たちの常識となり、同時に私たちのバイアスともなるのだ。

「ひとつ、ふたつ、たくさん」の概念が成立した背景にあるピラー族の日常を知らずして、彼等にとっての実在を論じることはできない。もっとも愚かなのは、自分の色眼鏡に気付かずに相手の文明や文化を値踏みしてしまうことだ。

■言語は世界ではない

ヨハネ福音書には「はじめにことばありき」で始まる味わい深い一節がある。西洋哲学におけるロゴス観が聖書にまで及ぼしたその影響力の大きさを考えれば、サピア=ウォーフ仮説以前にもしばしば言語優位の論調が存在していたことに不思議はない。

アリストテレスが名辞論理学をまとめあげ、人々が言語とは記号操作であると思うようになってからこのかた、このような混乱は幾度となく繰り返されてきた。

だがこの考え方にはどうにも与しづらい。コミュニケーションにおいて記号の交換が果たす役割は、それに続いて脳内で展開される表象の豊かさにくらべれば、ただのきっかけにすぎないのだから。

前回の「情報」と「外情報」をめぐる議論では抜け落ちていた部分、特にメラビアンやバードウィステルが指摘したパラ言語的なシグナル、すなわち顔の表情、身振り手振りのジェスチャー、声の抑揚、間の取り方といったニュアンスを受け取る神経回路は、意識が受け取るわずかな情報をはるかに多角的に補完する。

これは犬の鳴き声の意味を知るために、口元やしっぽを見るのと同じことだ。問題は、人間が自分たちは特別な存在であって、動物の一種だということをなかなか認めたがらないところにある。私たちは自分の意識こそが自分自身だと思っている。だから自分の思考はすべて言語化されうると思い込みがちだ。会話の重要な部分はコトバだと、今でも多くの人が思っている。しかし実際はというと、ほんのかすかに存在している自我の下では、動物たちとまったく同じようにして、ものすごく大量の知覚情報処理が無意識下で行われているのである。

動物も言語を用いる。動物と人間をへだてているものは、思いのほか少ないのだ。知覚を超えた純粋な概念的イリュージョン構築力としての「プロセスのモノ化」の能力、生き物が生きるということの身体性の深淵さに比べれば砂漠の中のケシ粒ほどかもしれないそれが、おそらく人間を人間たらしめる唯一の本質的な差異なのであろう。

特定コミュニティにおける対人関係では、実際に交わされるコトバの多様性は低下し、一方でパラ言語的なシグナルあるいはコンテキストなど外情報が果たす役割の比率が高まる。密なコミュニティにおける対話は文字どおり圧縮率が高く、自動的である。だからこそ逆に、仲間内の空気が読めない人はいつもシニカルな笑いにさらされる。排他的風習、派閥感情、少数民族の差別などといったものはみな、外情報がわからない人たちに対する嘲笑の要素を何らか含んでいる。

地図が土地そのものではなく、楽譜が音楽そのものでないのと同じように、言葉は現実そのものではない。私たちはフッサールを読んでいなくても、そんなことぐらいは知っている。「クリスマス、香港の市街は深夜までごった返していた」というとき、ホンモノの香港の雑踏風景の無尽蔵さと比べればこの記述はどれほど明瞭で単純なことか。書き言葉とは、流転する世界の混沌を素描し、話し言葉のもつパラ言語的補足による精緻化もあっさりと棄て、主題のみを徹底的に乾燥させ、時計を止めてしまい、剥製にして棚に飾ってしまうための手段である。そこに残されるのはかつて生気に満ちた存在だったもののカラッカラに乾いた死骸、そしてそれに向かう鑑賞者による解釈、深読み、あるいは誤解だけである。

原点に立ち返ってみれば、言語を用いるということは何らかの意図を相手に伝えることにある。それは、もちろん何らかの形で相手に認識可能なものでなくてはならない。しかしこのことは、そのつど選択される表現が、ある言語様式に沿っていなければならないということを意味しない。重要なのは「伝えたいメッセージを的確に伝えること」であり、聞き手がそこに託された意図を効果的に汲み取れることである。何らかの規範的な形式やレトリックに従うことが最もよい手法であるという保証はどこにもないのだ。

米国の哲学者デイヴィドソンは、まず理解し合いたい二人がいて、そこに言語があると考えた。「ある言語の形式を義務づけられているというのは不条理である。もし理解されたいのなら、自分が発したコトバを聞き手がさしあたってどう受け取るかということにだけ配慮すればよい」というのだ。

新しい造語や規範を逸脱した若者言葉などは、脱マンネリを果たすべく効果的な表現を探し続けている私たちの日常的な行動原理をよくあらわしている。「うっとうしい」の代わりに「ウザい」と形容することは、それによってコミュニケーションが円滑になるのであれば正しい用法のひとつであるはずだ。重要なのは、「ウザい」という語をはじめて耳にして逸脱を感じる人にとっても、少なくともそれが理解不能ではなく、何を伝えようとしているかをだいたい理解できる点にある。

言語とは権威や形式ではない。徹底的に自由なものだ。

■知覚の省力化による安心のメカニズムとそこからの逸脱

言語学においてしばしば参照される例は、フランス語ではイヌとタヌキを区別することができず(いずれも「chien」)、チョウとガの区別もない(いずれも「papillon」)、という紛れもない事実である。連続的で多様な世界から何か一群のものごとを切り取って、それらをひとつのカテゴリーであるとして名前をつけるとき(これを「分節化(articulate)」という)、そこには私たちの興味の粗さの度合いが現れてくる。虹の色は今の私たちにとっては七色だが英米では六色、かつての沖縄ではたったの二色だ。

ここで見落としてはならないのは、その「切り取り」とは恣意的・文化的な行為であって、どう切り取るかはファッションの問題であり、時代とともに移ろい、そのきめ細かさを静的な規定として捉えることには意味がないということである。ソフトウェアでデータ構造をあらかじめ決定しきれないのは、当たり前なのだ。絶対的客観性などこの世には存在しない。コミュニケーション空間における興味の重心を反映してコトバは変転する。

ソシュールの理論とその基本概念

そして、複雑きわまる現実の混沌たる世界から、本を本として、机を机として、時計を時計として切り取ってくるように、対象を「実効性のある差異」として輪郭を浮き彫りにするプロセス、即ちゲシュタルト認知への信頼によって「1」の実在性、同一性を信じることができる。振り返れば、これはまた数学の源泉でもあった。

ただし、ゲシュタルトはある特定の状況下で崩壊することもある。錯視やだまし絵の類から、私たちの認知にはさまざまな志向性があることを知ることができる。

何を信じるかは、何を信じたいかだ。進化生物学的見地からみればまばたきにも等しいここ数千年の人類の文明史において、知覚の機能はまったく変化していないといってよい。その知覚の機能にさえ志向性が影響をおよぼすならば、私たちにできるのは絶対的な真理の発見ではなく、納得性の高いプロトコルの発見だけである。

Illusion Forum - だまし絵
北岡明佳の錯視のページ
錯視の広場 - The open space for Visual Illusion

いわゆる知覚というものは、本来きわめて実践的な性格の生命活動である。私たちが電車に乗って会社に向かうとき、駅では階段の高低差を瞬時に見極め、人とぶつからないように距離をとり、道路を横断するときにはスピードの出ているバイクを警戒する。けれども、歩道に咲いている花には気付かないかも知れない。知覚には様々なプライオリティと志向性があるのだ。無意識のうちに、私たちは感覚入力からの大量の情報を計算し、そして捨てている。このような複雑な制御を私たちは日常の中で何の苦もなくほぼ自動的・同時並行的に行っている。

日常生活の実際的な必要性から、私たちの知覚は細かなブレや誤差を無視することを選択した。変化を続ける対象の正確な追求をなかば諦めて、だいたいの輪郭を把握することで満足する。円滑な生活のために必要十分な分解能で、よりエネルギー消費の少ない抜粋と省略化による抽象化こそが知覚の本質である。この情報量の思い切った処分のおかげで、私たちは日常をパターン化し、安心基盤を獲得し、世界をなかば無意識に生きていくことができる。「ゲシュタルトの知覚は要素刺激の知覚と同じレベルで起こる」というファイ現象(仮現運動)における仮説も、この省力化の機能解釈なら説明がつく。

考えてみれば、一日生活する中で起きる様々なことのうち、ほんの一部しか記憶に残らないというのは不思議なことである。ボルヘスの小説に出てくるフネスのように不幸にも無限記憶の能力を持ってしまった人物ならともかく、今日あったことを振り返るのは普通の人にとってそこそこ骨の折れる作業である。こうした記憶の取捨選択は、脳の扁桃体を中心とする情動系と、海馬を中心とする長期記憶系の相互作用によるものとされている。ある感覚入力が、それまで繰り返し経験されてきた認知の枠組みの中で処理できることであれば、あえてコストの高い処理系である意識をわざわざ起動するまでもない。より末端に近い神経系に生成された回路のみで無意識にさばくことができる。一方で、それまでのパターンにあてはまらない体験は、何らかの差異、すなわち新規の情報をもっている。その情報を受け取るために意識が覚醒し、脳の資源を総動員してその新しい体験を自らのシステムに取り込み位置づけようとする。

コペンハーゲン北部にあるビスペビャル病院の臨床生理学部門で、ラーシュ・フリーベルィは面白い発見をした。デンマーク人の被験者に、母国語のテープを聴かせたときとそれを逆回ししたときでは、脳内を流れる血流に大きな差が生じたのだ。テープを普通に回したときには聴覚中枢と言語中枢をはじめ、この作業に関連する機能中枢の活動が活発になる。ところが、テープを逆再生させると、なんと脳全体が活性化したのだ。逆再生したテープは普通に再生したテープより理解しにくい。というより、理解できない。だから、脳は逆再生のテープのメッセージを消化しようとして脳を文字どおりフル回転させ、普段よりもずっと多くのエネルギーを必要とした。逆再生されるテープ音源から出てくる意味不明の音声を既知のパターンにあてはめて情報を縮減するプロセスがうまくいかず、テープ音源本来の情報量をそのまま浴びることになったわけである。

いよいよ「理解」という概念は、生理的プロセスによって客観的に観察できる道が開かれつつある。フリーベルィとその同僚たちは、血流パターンを調べることで被験者がデンマーク語がわかるかどうかを客観的に知る方法を開発したといってもいいかも知れない。

いずれにせよ、パターン化によるセーフベースの獲得とそこからの逸脱は、生物の性向として明らかに循環する。人間は安定を求めもするし、刺激も必要とする。犬も日常の反復に耐えられないほど飽きはしないが、散歩に連れて行ってもらえることは素直に喜ぶ。

子供、未熟な大人、そしてある種の動物はひたすら「同一視」を行なう。変わりつつある新しい状況に対し、それがあたかも古めかしい、かつて経験したことのある歴史の反復であるかのような反応を示すとき、その人は「同一視」しているという。そして何もかもを「同一視」してしまったとき、見たくないものは見ないという選択を徹底したとき、やがて究極の平穏が得られるという。

ある人々はこれを悟りと呼ぶかも知れない。だが、白居易は「小隠は山に隠れ、大隠は市に隠る」と結んだ。最高の理性は愚にもつかない惰性と表裏一体なのであって、この自己撞着から抜け出すには「違いを生む違い」を求める一歩が必要なのだ。

(つづく)

自然の中に隠された数学(イアン・スチュアート)
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現代最高の数理科学評論家のひとりであるイアン・スチュアートが、平易なコトバで数学の魅力をあますことなく語ったパーフェクトな一冊。自分に子供ができたら、小学生のうちに読んで聞かせたいと思う一冊。

デイヴィドソン 〜「言語」なんて存在するのだろうか(森本 浩一)
デイヴィドソン 〜「言語」なんて存在するのだろうか

デイヴィドソンの位相でありながら、はからずも言語哲学一般の入門書として足場を確認するのにも役立った。さっくり簡単に読めるので、このエントリの中盤に興味を持ったような人にオススメ。

虚数の情緒―中学生からの全方位独学法(吉田 武)
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果たして「子供とは無邪気か」とか「民主主義とは何か」なんて章がある数学・物理の教科書があっただろうか。学問とは感動だということを終始熱く語りかけてくる筆者の姿勢に、あっという間に引き込まれる。題名通り、自分が中学生のときにこの本と出会いたかった。親が勝手に子供のレベルを決めつけないで、さらりとこれをプレゼントしてみて欲しい。いい先生との出会いが人生を変えるように、いい本との出会いも人生を変えるかも知れないのだから。

Minnie Riperton / Adventures In Paradise

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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