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情報・時間・コミュニケーション、そして意識(2)

2005/01/11 05:29
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前回の続き。

■計算とは、情報を捨てること

さて、唐突だが、スーパーへ行って買い物をしているときのことを考えてみよう。カゴの中に入っているのはキャベツが108円、卵が188円、ヨーグルトが134円。担当者はそれらの品物をレジのバーコードに通して合計し、430円という金額をはじき出す。

この計算をお馴染みの式で表すと、こうなる。

108+188+134=430

この式は何を意味しているだろうか。算数を習ったときには、イコール記号の左と右は等しいと教えられる。しかし情報という観点から見ると、左辺(3つの数字の足し算)は右辺よりも多くの情報を持っている。左辺だけを見て右辺をはじき出すことはできるが、右辺だけを見て左辺を決定することはできない。この計算というプロセスを通じて、情報が失われたのだ。

しかし、情報を失う代償として、レジ係と私との間で共通の関心事である「いくら払えばいいの?」というコミュニケーションに必要な情報だけを得ることができる。

計算とは、あるコンテキストで有意義な情報だけを炙り出し、興味のない情報を捨てるための思考経済なのだ。

情報はそれ自体が価値を持つものではなく、あるコンテキストが与えられてはじめて基本的な価値を持つ。そして、そのコンテキストに沿って不要な情報を捨てるために払ったコスト、ああでもないこうでもないと悩んで編集した手間によって、その価値を高めうるものなのである。

■不可逆な計算

だが、この逆の流れを考えることは途端にムズカシイ議論になる。前回のエントリの流れで言い換えると、430円というマクロ状態(興味のあるスケール)に対して、考えられるミクロ状態(ありうる選択肢)は無数に考えられる。例えば

430=30+200+200

も可能だったし、もし商品数が3点という前提が失われれば

430=1+1+1+・・・+1 (1が430個)

だってありうるし、もし円未満の「銭」という単位が通用したとすると、

430=107.5+107.5+107.5+107.5

だって可能だ。

こうやって、暗黙の前提が外れていくに従って、可能な組み合わせ(ミクロ状態)の総数がどんどん増えていくことが想像できるだろう。私たちは知らず知らずのうちに、様々な暗黙の前提をベースにして生きている。

だが、その前提を明らかにしなければ、私たちは可能性の深さについて議論することはできない。あるがままの絶対的な情報量などというものはない。文字どおりの意味において、あらゆる情報は無限の解釈の可能性を持つ。

そして始末の悪いことに、私たちにとって最も難しいのは「我々が何を(暗黙の)前提としているか」に気付くことだ。ゲーデル・チューリング・チャイティンが明らかにしたように、ある情報に隠された前提がどこまであるかは永遠にわからない。ある情報に何らか取り出しうる秩序があるかという問題は、主観と客観、システムの内部と外部という問題と表裏一体であり、無限後退を避けられない。

だから、せいぜい私たちにできるのは、なるべく多くの前提=コンテキストを明らかにして、その前提が規定する空間のサイズから相対的な情報量=エントロピーを考えることぐらいなのだ。エルンスト・マッハが明らかにした相対的認識論は、こんなところにもひょっこりと顔を出す。

私たちは不可逆性の世界に生きている。計算によって失われた情報を想像することの難しさは、古典の解釈の難しさ、混ぜてしまったコーヒーからミルクと砂糖を分離することの難しさ、現在から過去を推測することの難しさ一般と同じ種類の難しさなのである。

■information(情報)とexformation(外情報)

デンマークの科学評論家トール・ノーレットランダーシュの「ユーザーイリュージョン」にこんな一節がある。

 史上最短の通信文は1862年に交わされた。『ノートルダムのせむし男』の作者として有名なヴィクトル・ユゴーは、この年、名作『レ・ミゼラブル』を上梓してすぐに休暇の旅に出た。だが、本の売れ行きが気になって仕方がない。そこで、出版社に手紙を書いた―――「?」

 出版社も負けてはいない。真実を少しも曲げることなく伝える返事を出した―――「!」

 『ギネスブック』にもあるように、出版社の返事は「誤解の余地がなかった」。

果たして、この「?」と「!」に込められたメッセージの深さは、いかほどのものだったであろう。

ユゴーは「このあいだ上梓した『レ・ミゼラブル』の本の売れ行きを教えてくれ」というメッセージを文字どおり書く代わりに、出版社の担当者がこれを読んだらどう思うだろうと相手の顔を思い浮かべながら(コンテキストを踏まえながら)、計算に計算を重ね、最終的に「?」という一文字に圧縮したわけである。

さらにもう一つ、こんな例がある。

 「情報の重さは?」これは、1990年にサンタフェで行われたセミナーでの、ある講演のタイトルだ。講演者で、オハイオ州のケニヨン大学のベン・シューマッハーは、なんとも悪戯っぽい顔で「貧しい学生の情報伝達経路」を紹介した。

 それは、こんなシナリオだった。一人の貧しい学生が、故郷を遠く離れて大学に行くことになった。両親は息子がうまくやっていかれるかどうか心配だ。気を揉むことになるのが目に見えていた二人は、毎週日曜日の四時に無事を知らせる電話をかけるように息子に言う。息子は、お金もないことだし、そんなに家に電話をかけていたら高くつくと反発する。だから、かけたくない、と。そこで三人は一つの解決策で折り合うことにした。息子は困ったことがある場合だけ、日曜の四時に電話をかける。電話がなければ、それはすべて順調ということだ。だから息子はめったに電話をしない。だが、約束は守っているわけだ。こうして学生はまたくお金をかけずに、日曜ごとに親にメッセージを送る。このように、お金も使わず、言葉で表現することもなく、メッセージを送ることができる。

ただし、この話が成立するには、伝達手段が確保されていることが前提だ。もし電話回線に異状があれば、本当に息子が順調だからかかってこないのかどうか判断がつかない。しかし、この例からもわかるように、鳴らない電話にもメッセージを込めることができる。メッセージを伝えるのに必ずしも記号は必要ないのだ。意味は事前の約束によって両親と息子の脳内にそれぞれ予め用意されており、日曜の四時にかかってきてもよい電話がかかってこないという契機によって、それがメッセージとなるのである。

私たちがたびたび犯す間違いは、メッセージの情報量を目に見える記号の量に相関するものと考えてしまうということだ。しかしこれらの例が示しているように、メッセージには意味的・質的な側面、「情報質」とでもいうべき尺度が存在することを示している。このことは日常的な感覚からも明らかだ。

ノーレットランダーシュは、シャノン的・形式的な記号としての「情報(Information)」から捨象されてしまった本質的な部分、情報をきっかけとして取り出され連想されうるそれを「外情報(Exformation)」と定義した。それは私たちが日常的に使う「意味」に近い、シャノン的な「情報」と直交する概念である。

そして彼は、人間同士のコミュニケーションを「会話の木(Tree of Speech)」と呼ばれる樹形図によってモデル化した。

まず始めに左のBという人物が何かを考える。これまでの経験、感情、あるいは記憶といったものの膨大な海から、Aと共有しているコンテキストも計算のヒントとしながら外情報を込め(捨て)、伝えたいことを情報へと圧縮していく(ツリーを下方に向かう)。この過程でBの言いたいことが要約され、口述された言葉として右のAへと伝達されていく。ここで伝達されるのが情報である。そして、Aによって受け止められた情報はAのツリーを逆に上方に向かって展開し、外情報が取り出されていくことになる。

この際に期待されるのは、Aの側で起きる展開がBが辿った計算過程と同じようなプロセスを逆順で復元できることだ。AとBの間で経験や知識やコンテキストが共有されていれば共感が生まれるし、そうでなければAにおいて誤解が生じたり、すれ違いの元となる。コンテキストが共有されている場合に限り、108+188+134=430は可逆のプロセスとなるのである。

そしてさらに、情報はコピーができる。文字が本になったり、音楽がCDになったりすることで情報は一人歩きし、受け手の解釈だけが存在するようになる。上記のモデルでいえば、Aだけが存在する世界である。これを「解釈ツリー(Tree of Interpretation)」と名付けて一般化してみよう。

言ってみれば、人間にとっての知的活動というものは、このようなツリーを自己の内面で作ったり壊したりする歴史的な過程である。

脳はスペースの制約から、感覚(上)からの入力と思考(下)からの入力で同じ部位を活用するという。例えば後頭葉の視覚野は、ものを見るというシチュエーションだけで使われるわけではなく、目をつぶって溝を手でなぞり、その溝の角度がどれぐらいかを判断するときにも活動するという。つまり、情報から入力された信号を解釈するプロセスでツリーを上がっていくことで、最終的には実際にその知覚体験を取り出し、感情移入することができるわけである。一方、同じ情報からであってもそこからどういう知覚や体験や情動が取り出されるかという解釈の関係性は、生きていく過程で常に更新されている。

昔読んだ本を今読み返してみると非常に新鮮な発見があったり面白さの質が変わったりする現象は、この概念で考えてみるとわかりやすい。

あるいは、現在インターネット上にあるGoogleなどの検索システムは、利用者が興味あるコンテキストをキーワードなどの入力から機械的に予想・学習するノウハウと、そこから大量の情報を捨てるための計算力で成り立つ、非同期コミュニケーションの媒体と言えるだろう。

ベンヤミンは「アウラの喪失」を伝統的な共時的体験の軸で論じたが、15世紀にグーテンベルクが活版印刷を発明してからの複製技術革命がもたらしたのはそれとは質的に異なる非同期的体験なのだ。私たちは、五感を超えた「情報」というメタ知覚の獲得に向けて進化をしている途上にあるのかも知れない。

■知覚の枠と抽象化

動物行動学者のフォン・ユクスキュルは、動物たちはそれぞれの生存目的にチューンナップされた知覚を持ち、その枠の中で生きているという極めて重大な指摘を行った。

世の中には様々な波長の光があるが、人間に見えるのはその中のほんの一部、赤色からスミレ色に至るまでのいわゆる虹色の範囲である。赤色よりも波長の長い赤外線やスミレ色より波長の短い紫外線は見えないが、一方で昆虫の多くは紫外線を見ることができる。また、人間は可聴周波数である20ヘルツよりも低い音や20,000ヘルツよりも高い音である超音波は聞こえないが、コウモリは超音波を聞くことができる。

茂木健一郎氏が「赤の赤らしさ」というときのような、質感としてのクオリアというものを考えるとき、私たちは残念ながら紫外線というものの視覚的クオリアを感じることができない(赤外線は「熱」という体性感覚を通じて感じることができる)。一方、赤色を知覚できず黄色までしか見えないモンシロチョウにとって、赤色というものは存在しない=透明なものである。その代わりにモンシロチョウは、メスの羽の裏だけから反射されている、紫外線と黄色の混ざった色(人間には黄色の成分しか見えないのでオス・メスの区別がつかない)を、特別に魅力的で美しい色として知覚していることだろう。また、ハエには接触化学感覚という、歩きながら前肢で触れたものの味・匂いのようなものを感じることができるが、これなどは舌が手足についている感じとでもいうのだろうか。人間にはこの感覚器官がどういうクオリアをもたらすのか、想像することさえ難しい。

森林地帯の茂みにはダニがいる。ダニは温血動物の生き血を養分として生きている。そこで、手近な灌木の上によじ登り、獲物を待ち受ける。ダニにはいわゆる目がないので、木を登るときには皮膚の光感覚に頼っている。そして、その下を通る哺乳類の皮膚から漏れ出す酪酸の匂いを嗅ぎ取ると、ダニはそれを即座に感知して落下し、その動物の体にしがみつく。そこから、自分が温かいものの上に落ちたことを知ったら、触覚によって体毛の少ない場所を探し出し、口を突っ込んで血液をいただく。このプロセスにおいて、ダニは光・匂い・温度などの刺激を受け取っているが、植物の匂いや虫の動く音などを無視している。この反応の選択性こそが、ダニが生きていく上での関心事を表しているということができる。

「生物から見た世界」ヤーコブ・フォン・ユクスキュル、ゲオルク・クリサート

同様に、人間にとって赤色やスミレ色の外にある色を知覚する能力は、長い歴史を通じ、生きていく上で必要のないものとして捨てられてきたのだという解釈が成り立つ。見えない、聞こえないということは、決して客観的に世界が透明だったり無音だったりするのではなく、単に我々の知覚能力の弁別閾を下回っているというだけのことに過ぎない。世の中が不必要にサイケデリックに見えないように、やかましく聞こえないように、穏やかに生きていけるように。

つまり、動物は自分のまわりの環境の中から自分にとって意味のあるものを切り取って、それによって自分たちの世界を構築している。客観的な世界というものは実在せず、感覚器官は閾値をこえた差異あるいは変化を刺激として受け取り反応する。動物は「生きていくという目的に応じた実効性のある差異」によって、すなわち「情報」によって生きている。重要でないことを無視することによって生きている。

トリは動く対象しか見えない。餌も天敵も、動く。だから、存在するもので意味があるのは、動くものだけである。餌である小さな虫は、動いているときにだけ、トリの視界に存在するものとして認識される。ものすごいスピードで飛び回り、上空から広大な視覚データを入力するトリにとって、動くものだけを知覚してそれ以外を捨てた方が、小さな空間で目を凝らして動かない生き物を見つけ出すよりも経済的なのである。

ネコは画用紙に描かれた簡単な線画のネコの絵を本物と信じ込み、仲間だと思って擦り寄っていくという。また、片方の窓が開かれた絵を壁にかけておいたら、そこに飛び込もうとしてぶつかったという。このことが示唆するのは、驚くべきことに、ただの平面画像から本来の対象を想起するという、人間に近い非常に高度な視覚認識力と抽象化能力を持っているということである。これは、視力への依存度が低いイヌでは起きないことでもある。

つまり、ネコは人間に近いレベルで視覚情報の捨象を行っているのである。これらのことは、あらゆる動物が人間と変わらないだけの知覚抽象化能力を持っていることを予感させる。

■知覚的イリュージョンと概念的イリュージョン

日?敏隆氏は「動物と人間の世界認識」の中で、この主観的に構成された世界をイリュージョン(幻覚、錯覚)と呼んでいる。イリュージョンを生み出すのは神経系などのフィードバック回路を持つシステムである。神経系はイリュージョンによって世界を構築し、認識する。つまりおそらく人間を含むすべての動物は、イリュージョンによってそれぞれの世界に生きている。私たちは、見たいものだけを見ている。

マウスはイタチが追いかけてきたとき、動きをピタッと止めることがある。そのとき、イタチにとってはそのマウスが世界から姿を消し、すぐそこにマウスが縮こまっているのに気付かず、近くをウロウロして探し回る羽目になることがあるという。イタチにとって、動かないマウスは見えていないというよりも、存在していないのだ。

ハイデルベルク大学生理学研究所のマンフレート・ツィメルマン教授は、医学生向けの教科書の中で「我々が認識する情報は常に、感覚器官から送られてくる環境に関する情報の流れの、極端に微小な一部分に限られている」と自らの理論を締めくくった。ツィメルマンのまとめたデータによれば、視覚からは1,000万ビット、体性感覚から100万ビット、聴覚と嗅覚から10万ビット、味覚から1,000ビットの情報が毎秒毎秒、私たちの感覚器官に流れ込んできているという。そして、この10メガビットのストリームから意味のない情報を捨て、パターンを探し、抽象化し、意識に届く頃にはこれがせいぜい10ビット〜30ビット程度にまで縮減されるという。驚いたことに、意識の帯域幅はたったこの程度なのである。

ここで人間と動物を隔てているものは、知覚の抽象化によって得られるイリュージョンのみならず、「ちから」や「エネルギー」などという架空の概念を考えることによって、論理的にイリュージョンを拡張できることである。そしてそこから宗教・哲学・科学が生まれた。

光は粒子である、という理論が確立されると、太陽についての認識が変わった。ところが光は粒子ではなく波であるという理論が主流になると、また認識が変わった。そして、光は粒子であるとともに波であるという、それまでの我々の概念からは直観的に説明できない事実が判明すると、多くの人々はわけがわからなくなり光についての認識を持つことを諦めてしまった。

いずれにせよ、何らかのイリュージョンによる現実の主観化がなければ、世界を認識することはできないのである。いくら客観的であろうと努めても、そこには自ずから限界があることを知らねばならない。

実在とは何か、その謎は深まるばかりだ。

(つづく)

ユーザーイリュージョン―意識という幻想(トール・ノーレットランダーシュ)
ユーザーイリュージョン―意識という幻想

クレイジーな思考回路を持つ」で引用した一冊。ダグラス・ホフスタッターイアン・スチュアートグレゴリー・チャイティンジョン・ホーガンなどの超人たちから絶賛されている驚異の書。橋本大也さんのPassion For The Futureの「年間オススメ書籍ランキング ベスト20冊」でも1位に挙げられていた。

動物と人間の世界認識(日?敏隆)
動物と人間の世界認識

人間が客観的世界を知り、動物がそのうちの一部を知っているのではない。全ての動物はイリュージョンによってそれぞれの世界を持っているだけである。多彩な例示によって非常に読みやすく、頭の体操・入門用にオススメ。

脳の中の小さな神々(茂木健一郎)
脳の中の小さな神々

歌田明弘氏によるインタビュー形式で語られる脳科学の最先端事情。重要なトピックがコンパクトに押さえられているのでオススメ。とても読みやすくて面白い。

脳と仮想(茂木健一郎)
脳と仮想

脳科学を、茂木さんワールドを、芸術というパースペクティブにおいてもっとゆっくりじっくり味わってみたい人へ。

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※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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