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情報・時間・コミュニケーション、そして意識(1)

2005/01/06 23:51
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このたびは、年初から「情報・時間・コミュニケーション、そして意識」という難しいテーマをやると宣言してしまいました。

こういう難しいテーマを扱うときには想定する読者をどのあたりに設定するかで大いに迷うのですが、今回はかなり大ざっぱに「知的好奇心の旺盛な文系の高校生か大学生に、何となく面白そうだという感触を残せる」程度にわかりやすく、かつ「私自身のようなコンピュータや脳科学に興味のある素人仲間に対し、私の持っている仮説やアイデアを、まさにブログらしく独白メモのような形で披露する」というあたりに設定することにしました。(なんて言いながら実は、理系の大学を出てそこそこの会社に就職して経験も積んでエラくなり、なんとなく社会の仕組みがわかった気になってしまってる20代〜30代のアッパーミドルが膝をガクガク震わせて、わたしは何て何も知らなかったんだろう、みたいなところから私のバーチャル赤提灯仲間になってもらうことを期待してることはナイショです)

先の対象読者でいうところの「文系高校生」に対する手ほどきとしては、この手の読み物をこなすコツがあるとすれば、わからないところに出会ったらさっさと読み飛ばしてとにかく最後まで読み、書き手のメッセージの輪郭を理解してから二回読む、ということでしょう。途中で物理学や数学などのそれなりにムズカシイ概念も出てくるのですが、これらについての前提知識がなくとも流れに沿って読めば理解できるように、できるだけ丁寧に書いていくつもりです。知との格闘に、テストできっちり100点を取りにいくような潔癖性はむしろ不利です。わからない単語は、二回目読むときにGoogleやオンライン辞書で調べましょう。そしてもちろん、私の記述に誤りを発見したら修正しますので教えてくださいね。

では、冒険の始まり始まり。

■「情報」とは何か

かつて知の巨人グレゴリー・ベイトソンは、情報を「違いを生む違い」と定義した。

とかく定義というものはトートロジーに陥りやすい。とはいえ、それが五里霧中の未定義語の一人歩きにとって変わるなら、トートロジーも大いに結構。ほとんどの物理学者は「かたち」や「ちから」の実在を疑わないし、ダーウィンは「生き残りが生き残る」と言って異論を一蹴したのだ。

このベイトソンの定義は、私の人生を通じてどんどん深みを増してきている。この定義をもう少し噛み砕くと、情報とは「ある目的に応じた実効性のある差異」によって定義される、ということだ。

世の中にあるリンゴは、最も慎重な意味において、全て互いに異なる。仮にここに10個のリンゴがあったとして、たまたまそっくりなペアがあったとしても、微に入り細に入り調べれば、必ず何らかの違いを見つけることができる。従って、リンゴが全て異なるという記述は間違いなく正しい。しかし、私たちは紛れもなくそれらをまとめて「リンゴ」と呼んでいる。いくつかの形容詞をつけて「腐ったリンゴ」「食べかけのリンゴ」「青森のリンゴ」などと修飾することもできるが、そのように修飾を行うことでより些末な差異を示すのに都合のよい基本的なベースの呼び名として、それらは「リンゴ」という名前を授かったのだ。興味のない人にとっては、それらの形が悪かろうが色が青かろうが、意味のある差異ではない。だからそういった詳細には目をつぶり、ただ「リンゴ」と呼ぶことの利便性に多くの人々が合意してきたのだ。

このようにしてみると、何かに名前あるいは記号を与えるということは、合意済みの実効性のある差異を明確に縁取って線引きするものであり、何を差異として認めないかということであり、従って情報の一種であるということができる。

日常生活で私たちが情報について語るとき、大体において「意味」のことを考えている。しかし、情報理論の礎を築いたベル研究所の技術者クロード・シャノンが興味を持ったのは、意味ではなく電話をかける時間の長さだった。電話回線やテレックス回線を介してメッセージを信号形式で伝達することの難しさの程度をどう表現するか、という問題についてだった。

シャノンは、情報の概念を量として扱うことの重要性に気付いていた。哲学が定式化を重視するならば、科学が重視するのは定量化、すなわち量として様々なものの大きさを較べたり、計算したりできることである。科学とは、最も根本的な問題については目をつぶる代わり、恐ろしく強力な武器を手に入れる、悪魔の取引である。科学は、知識を得るプロセスにおいて経験という最も高コストな投資の必要性を減らしてくれる高速道路だ。足し算や引き算は6歳の少女にもできるが、哲学は本質的にある程度の年齢にならないとコミュニケーションツールとしてあまり役立たせることができない。シャノンは、強力な武器をつくるという選択をした。

こうして、一つの質問に対するイエスかノーという答えに含まれている情報量、あるいは、二つの等価な可能性を区別する最小単位として「ビット」という言葉は定義された。再びベイトソンの「情報」の定義を持ち出せば、差異のあるところにはビットがあるのである。「リンゴであるか、ないか」は、こうして1ビットの量として定義された。

だが、この定義の理解をもっと豊かなものにするためには、もう少し時代を遡る必要がある。

■熱とエネルギー

情報と同じぐらい私たちにとって身近だが理解しがたい概念として、「熱」が挙げられる。体温、ヒーターの風、スープの熱さ。火が文明の礎となって以降、私たちは熱とともにある。しかし、19世紀半ばに至るまで、物理学は熱を定義することができなかった。古代ギリシアにおいて、アリストテレスは火を風・地・水と並ぶ四元素と考えた。以降、中世ヨーロッパの錬金術を経て1800年代になってもまだこれに似た考え方が主流で、熱はあらゆる物体を取り巻く特別な物質として扱われ、「熱素」などと呼ばれていた。ちょうど、真空というものを受け容れられなかった人々が、光の媒体としてエーテルという概念上の物質を考えていたのと同じように。

しかし1765年にジェームズ・ワットが蒸気機関を発明してヨーロッパ中を蒸気機関車が走り回るようになり、永久機関をめぐって広範な議論が巻き起こると、科学者たちは熱とは何かを真剣に追求しないわけにはいかなくなった。

熱をエネルギーというより抽象的な概念に回収し、1842年に熱力学の第一法則(エネルギー保存則)を提唱したのは、ドイツで医学を学んだマイヤーである。彼は、食物の代謝という生理学的な発見からの類推でこの法則を予見した。

実のところ、熱という概念が登場するまで、エネルギーという概念はほとんど認められていなかった。ニュートンが記述したように、大きなものが動く世界では摩擦のような事象はそれほど重要ではなかった。従って、他の物理学の概念と同様に、エネルギーという概念もまたその登場時においては理論上の辻褄合わせの産物に過ぎなかったのだが、それが熱を含む様々なものを矛盾なくうまく扱えるという利便性によって、次第に実在性を帯びるようになってきた。

熱力学の第一法則は我々の知る世界に存在するエネルギーの量に関するもので、その総量は一定であるというものだ。エネルギーは私たちが消費しても、消えも隠れもしない。石炭を燃やして水蒸気を発生させたり、振り子の振動が停止しても、そこに関与したエネルギーはある形から別の形に変換されたに過ぎない。しかし、私たちの日常においてエネルギーとは「消費」するものであって、目に見えていたエネルギーの象徴が消えてしまったという感を逃れない。実際、ストーブに使った石油は消えてなくなるし、食べたものはいくらか小さくなって排泄されるし、電気代は文字どおり「消費」電力によって課金される。エネルギーは、使うことによって、どんどん人間の目に見えないものへと形を変えていく。つまり、「エネルギーを消費する」という日常的な表現は、人間の主観的な視点からすれば正しい記述である。だが不思議なことに、それでもやはりそこにあるエネルギーの総和は常に一定なのだ。

一方、適切な機関を用いることでエネルギーを人の役に立つ仕事に使うことができる。エネルギーは、総和は一定であってもその取りうる形態は様々である。たとえば、電気は何かとつぶしのきく便利なエネルギーの代表である。また、熱は何かを暖める以外にほとんど使い道のない非効率なエネルギーの代表である。この効率に関する価値判断もまた、人間の主観性の問題である。

だが、蒸気機関が実に鮮やかに示したように、周囲よりはるかに高温のボイラーが周囲の空気と相互作用する過程で、機関車を動かすほどのエネルギーを取り出すことができる。二つの温度の差が存在することで、熱に仕事をさせることができる。つまり、熱という量的概念における「差異」が仕事を生むのだ。(ようやくベイトソンの情報の定義に一歩近づいた)

そして、温められたスープが一旦冷めて(外気の温度と同じになって)しまえば、二度と勝手に温まったり(外気の温度と差異がある状態になったり)はしない。温度の差異は、元には戻せない形で消え去ってしまうのだ。

これが、熱力学の第二法則である。

■秩序とスケール

ルドルフ・クラウジウスは、このようなエネルギーがどれほど取り出しづらいかを表す尺度として、エネルギーの「en」とギリシア語で変化を表す「tropy」の合成語として「エントロピー」という名前を定義した。熱力学の第二法則は、この用語を使って言い換えると「エントロピーは常に増加する」となる。

熱についての記述を大きく発展させたマクスウェルとボルツマンは、物質はたえず運動している膨大な数の分子からなるという考えに着目した。物質は固体・液体・気体などの相をとる。低温では分子は振動に相当する微少な動きしかしないので、結合構造を維持できる。これが固体だ。温度が少し上がると、分子も動きを増し、互いの位置を入れ替わったり結合角度を変えることが可能になるが、依然としてまとまっている。これが液体だ。そして、もっと温度が上がると、すべての分子がバラバラに運動するようになり、結合状態として観測することが困難になる。これが気体だ。これらの相もまた、多くの場合、現象把握と観測に関する人間の主観の問題、あるいは便宜上の区分に過ぎない。

そして温度とは、このように運動している多数の分子の統計的な速度を反映する量として定義された。中には平均より速く動くものもあれば、遅く動くものもある。その個々のばらつきはマクスウェル=ボルツマン分布と呼ばれるものに従うが、その平均値と連動する値が温度である。分布があるということは、言い換えれば、ある一つの分子を取り出してその速度を調べたとしても、全体の温度はわからないということだ。つまり温度とは、「全体」というものが正確に定義されて初めて意味を持つ概念である。そして、エントロピーとは「全体」を眺め回したときの無秩序さを表す尺度でもある。

電流は、低いエントロピーを持つ物理現象である。媒質の原子中の一要素である電子が、特定の方向へと極めて整然と流れていく。電流には、分子のバラバラな動きからなる熱よりも、より大きな秩序がある。

大気中をある方向へと流れていく風も、巨視的に見れば秩序のある現象である。従って、風車程度に大きな機関によって、そこから有意義なエネルギーを取り出すことができる。

しかし、マクスウェルとボルツマンが定義した「熱」の定義において、個々の分子の運動と衝突を記述した力学の法則は、驚くほど単純だ。質量と速度を掛け合わせた運動量という値が衝突の前後で保存されるというデカルトの発見と、それを一般化したニュートンの方程式を解く手続きによれば、未来を計算することと過去を計算することは等しく予測可能であり、決定的である。

ニュートンの世界では時間が過去に進むことと未来に進むことは等価である。多数の分子が衝突を繰り返す様子をビデオに撮って、それを普通に再生しているのか逆再生しているのかは、どうじっくり見ても誰にも区別がつかない。この可逆性こそが、ニュートンの世界観に厳かな神聖さを与えていた。

しかし、我々の住む世界には取り返しのつかないことに満ちあふれている。割ってしまった高価な皿は元には戻らないし、焼失した絵画は取り戻せないし、老いた人は若返らない。覆水盆に返らず。かたちあるものはいつか壊れる。

時間の不可逆性こそが、我々に音楽を味わい、生命を慈しみ、その他のあらゆる美しいものを愛でる楽しみを与えてくれるのだ。イギリスの天文学者アーサー・エディントンが「時間の矢」と呼んだそれを捨て去るほど、我々の感性は鈍くはなかった。

このことは、当時の物理学界ではのっぴきならない矛盾に思われた。可逆性の積み上げから不可逆性を取り出す理論は、誰の目にも間違っているとしか思えなかったからだ。しかも19世紀末当時には、まだ確率や統計の概念を物理学に輸入することはおろか、物質が原子から成るという考えさえ受け容れられてなかったのだ。

かくして物理学界では哲学者を巻き込んで壮大な論争が持ち上がり、渦中のボルツマンは後世に残す素晴らしい功績を認められることなく、孤独のうちに自ら命を絶つことになる。「マクスウェルの悪魔」と呼ばれるこの熱力学の第二法則をめぐる論争に一応の決着をみるには、少なくとも1980年代まで待たねばならなかった。

歴史を紐解いてみると、物理学者たちは記述する対象のスケール(規模)が異なるとき、新しい概念的跳躍と論争を必要とする。SF作家のスタニスワフ・レムがその著作「ソラリスの陽のもとに」の中で指摘したように、山は巨大な岩ではないし、惑星は巨大な山ではない。そこには還元不可能な裂け目が、実効性のある差異として存在するのだ。量子論と相対論という20世紀の最も輝かしい二つの偉大な業績が互いに矛盾をはらみつつどちらも正しいという事実は、スケールの定義はより本質的な差異であることを暗示している。

そして、ボルツマンが提起した別の概念もまた、まさにスケールについてのものだった。

彼のアイデアは、マクロ(巨視的)状態とミクロ(微視的)状態、つまり物質の集合としての統計的な属性とその物質を構成する個々の構成要素の属性を区別した。そして、エントロピーを特定のマクロ状態に対応するミクロ状態の数(の対数)に比例する量であるとしたのである。

マクロ状態とは、そもそも観測者が興味のあるスケールのことである。ミクロ状態の数とは、簡潔に言い換えれば、あらゆる可能な状態の組み合わせ、可能な世界の総数のことである。同じ温度で同じ個数の分子が収められた1リットルの容器と2リットルの容器では、2リットルの容器の方がエントロピーが高い。なぜなら、大きい容器では、ある特定の分子が存在しうる空間的な位置の候補が倍になり、とりうるミクロ状態の数が増えるからだ。

Feynman Lectures on Computation抄訳(5.1節) by ひょん:可逆コンピュータと計算の熱力学

この記述をもって、エントロピーを「あるスケールに対応する可能性の量である」と呼ぶことは可能である。そしてこのとき、天才数学者のフォン・ノイマンは、可能性の量を表そうとしているもう一つの類縁がこの世に登場しつつあることに気付いていた。

■そして再び情報へ

シャノンは、コミュニケーションにおける意外性というものを定式化する過程で、英文メッセージが持ちうる可能な文字列の集まりの中には様々な種類の偏在性があることに気付いた。アルファベットの「E」や「T」は、「Q」や「Z」よりも高い頻度で登場するし、もっと巨視的なスケールでみれば「Q」に続く文字はほぼ必ず「U」であることとか、「THE」という単語は頻繁に登場することなど、単語や文法といった規則性による秩序があることに注目した。従って、メッセージをあますことなく表現するのに必要な最小のビット数は、特定のスケールにおける規則を決めさえすれば規定することができる。より現代的な言い方で言い換えれば、特定の規則を使って圧縮することができる。電話会社に勤務する技術者であるシャノンの関心事は、あくまで情報の「質」としての「意味」ではなく、電話料金に換算される「量」としての「長さ」だったのだ。

シャノンが、この特定のスケールにおける偏在性の程度を何と呼ぶべきか悩んでいたときに、様々な分野で鬼神のごとく活躍していたフォン・ノイマンは、熱力学におけるそれとの完全な整合性に気付き、これに「エントロピー」という名前を与えることをシャノンに強く薦めたのである。シャノンはその提案を受け容れた。

その結果、「可能性の量」は「エントロピー」という概念によって「量としての情報」へと接続され、「熱」という本来説明がややこしい量が実在の地位を獲得したように、あるいは「エネルギー」という理論上の産物が実在となったように、あるいは「力」というものが辻褄合わせの道具であったことを忘れて紛れもない実在だと信じられているように、「情報」もまた、様々な世の中の現象を記述するための、辻褄を合わせるための便利な道具としての地位を獲得した。

かくして、「情報」は実在となったのである。

(つづく)

精神と自然―生きた世界の認識論
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※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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