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CNET Japan ブログ

データの連続性とプロセスの非連続性

2004/05/29 03:21
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先日のエントリ「ベンダーに騙されないためにITを学ぶ」は、オフラインでの反響が大きかった。それだけ世間では「IT doesn't matter」的な閉塞感が漂っているということなのかも知れない。

今回取り上げたいのはWindchaseからのトラックバック。

Windchase : ソフトウェアを使い捨てる

このBlogのオーナーPsychsさんは、以前にも何度か私のBlogに鋭いコメントを寄せつつオフラインミーティングにも参加してくれた、とびきりの高速回転頭脳の持ち主である。そして、これらの縁がきっかけで最近インフォテリアに入社し、今では一緒に仕事をしている相棒でもある。

毎日一緒に仕事をしている社員同士でのやりとりをBlogに記すなど一歩間違えれば自作自演の茶番だが、ソフトウェア会社におけるマーケティング・チームのアイデア具体化プロセスをリアルタイムに見せるというのも結構面白いのではないかという考えもあり、エントリしてみることにする。

■ソフトウェアを捨てるということ

実は「ソフトウェアをいかに捨てるか」という観点には個人的にずーっと課題意識があり、去年の今頃には形になりつつあったアイデアに「SLiM」と名付け、事あるごとにユーザ企業やシステムインテグレータに触れ回っていた。

CNET Japan : 「いらないシステムを捨ててスリムになろう」:インフォテリアの新コンセプト、SLiM

このアイデアの原点は、システムの「ここが使われている・ここは使われていない」を仕組み的に定量化し運用後にレビューすることで、システムを増築の繰り返しで保守するのではなく、いらなくなった部分を積極的に捨てていくという提案だった。この時点では、捨てるという判断に伴うアーキテクチャの過不足などの扱いについては深く吟味されないままだった。

しかし、Psychsさんと話しているうちに生まれた新たな発見は「データは長持ちさせたいがアプリケーションは使い捨て」「システムは属人化させよう、データの意味を理解している人に」「長く使おうとして正しくモデリング(抽象化)するのではなく、さっさと決めてラウンドトリップを速くすることに専念しよう、どうせ捨てるのだから」などのスローガンに集約され、これまで考えていた「システム(コードベース)自体のライフサイクルを長持ちするようにしよう」という考え方とはまるで正反対のものだった。ゴールはそっくりなのだが、アプローチは大きく異なる。

早く作って早く捨てる。慎重に計画して長期にわたる巨大な投資を行うよりも、半分の投資をまず行ってレビューを行い、その結果に基づいて(前のものは捨てて)残りの半分を再投資する。こういった失敗前提型の短いサイクルの投資の方が結果的にリスクを低減させるのではないかという考え方である。(キャッシュポジション的にも当然ながら後者の方がよい)

この仮説の背景にあるのは、生産性を高くするツールの登場によってシステム開発における製造以降の工程はどんどん短縮されてきているということだ。例えばJavaなどの従来言語のコードを書かずにシステムを作るASTERIAでは、複雑なロジックを含まないケースならJavaでベタ書きするのに比べて後工程(コーディング、テスト、ドキュメンテーション)の時間を50%ぐらいにできることがヒアリングの結果わかってきた。現在すでに、残りの前工程(要件定義、プロトタイピング、基本設計)にかかる時間が相対的にボトルネックとして顕在化してきている。

しかし、要件定義などの柔らかい思考が求められる前工程には、テクノロジーによるブレークスルーは短期的には期待できそうにない。なぜなら、前工程は習慣や文化、価値観などの暗黙のポリシーを基盤としているからだ。ある対象に関する潜在的な属性を顕在化させるというテーマは有史以来の普遍の難問で、決して自動化の手段はない。自然言語における方言の成立と同じぐらい時間のかかる過程であると言ってもいい。言語=共通了解性の獲得やカルチャーの変革とは一過性のものではなく、膨大なコミュニケーションのキャッチボールを反復する過程からしか得られないのだ。

ということは、変化に即応できるシステムを実現するには、クリティカルパス上に存在するこの前工程の遅さ(=ボトルネック)とどう向かい合うかがキーとなる。TOC(制約条件の理論)では、ボトルネックの解決に全力を挙げよとある。結論は、前工程はガチガチに属人化させインハウスに持つことで、メンバー内でのコンテキストの共有とコミュニケーションの円滑さを維持し、課題発見能力を高い水準で維持するということである(これぞ、知的労働のあるべき姿!)。そう決めてやることでパラメータは一つ消え、問題は「世代間での継承」や「バッファー人材の可塑性」などの狭い領域に移行する。(このあたりの詳細はいつか書こう)

この際、システムを資産として見る指標にも一石を投じる必要があるはずだ。通常、資産というものは使えば使っただけ予測可能な価値を生むという条件下で相対化されるにも関わらず、ソフトウェアという無形固定資産はそれ自体が資産なのか負債なのかが明確化できない。しかもソフトウェアは使う人の従属物なので所有者によって価値は大幅に異なる。例えば、売却などによる処分はできない。にもかかわらず、減損会計との整合性はあまり考慮されていないようである。使われていないシステムは電源が入っているというだけでも既に負債のはずだが、それを喝破することは難しい。また、以前はシステムの評価指標としてROI(投資収益率)よりもROA(総資産利益率)がワークするかと考えたが、実はこれにも分母となる資産の評価に時系列での変化をシンプルに織り込むことができない点も不満だった。

これらの考えを総合的にまとめれば、ソフトウェアを捨てるという企ての妥当性が見えてくるだろう。

■データの連続性と対峙する

アプリケーション(プロセス)よりもデータの方が重要だという視点はすでに述べた。アプリケーションを捨てる場合でもデータは移行を必要とする。データはプロセスよりも相対的に普遍性が高いからだ。

しかし、別の観点からみると、データのライフサイクルでさえ甚だ疑問であることが多い。例えば会計情報のような数値化されたデータでさえ、長期間にわたって意味的な連続性を維持することは大変難しい。

例えば、平成15年度末の剰余金(=過去に蓄積した利益など)の期末残高と平成16年度の期首残高とを一致させるというのは、簡単そうだが簡単ではない。なぜなら、年度が変われば仕訳(分類ルール)が変わり、科目が移動することがあるからだ。その変更が一対一にマッピング可能な範囲であればルールベースでシステムに組み込んで自動化することも可能だが、粒度が異なる科目に分解されたり、意味的に異なる新しい科目に入れた場合などには完全なトレーサビリティは絶望的であるばかりでなく、データの手動での移行すら覚束ない。

データの連続性が意味を帯びてくるのは、特に検索性が求められる分野、とくにデータを引っ繰り返して何か新しい発見をしようと求めるケースだ。例えば制度会計では、とにかく出せと言われた様式で静的なデータが出力できさえすればよく検索性は求められない。ところが管理会計では、ある仮説に基づいてデータを串刺し検索して分析を行うという行為こそが重要である。この際、データの意味が年度によってコロコロ変わるようでは検索行為と検索結果が多くの前提条件を抱え、無意味になってしまう。

■分類学に潜む悪魔

人類は複雑な自然事象と向き合うため、それらを要素に還元して階層を伴うカテゴリーへ整理するという分類学(Taxonomy)を発達させてきた。階層アプローチはそれぞれの文脈の持つ複雑さを特定の階層以下に閉じこめることができるという特長があるし、ツリー構造によるビジュアル表現の点でも優れている。しかしディレクトリ型の分類学の限界は、先にも述べたように未来の予測不可能性(新しい概念の登場)に対する連続性の面で脆弱であるということに尽きる。

例えばメールをフォルダに振り分けるとき、あなたは自分の分類法に満足したことがあるだろうか。また、ある時点で最も美しく整理できたと思った分類が、しばらくするとすぐに破綻したという経験はないだろうか。テクノロジーの進歩によりコンピュータが自分の期待するとおりにメールを自動分類してくれる時代がくると思えるだろうか。

データのセマンティクスという命題は、こうした一貫性の断絶問題と切り離せない。時系列と五感を結びつけることでしか意味は記憶されないという仮説と、その仮説に基づく超整理法的アプローチ、そして一つのエンティティは複数のカテゴリーに所属してよいとするマルチビュー・マルチアスペクト指向の非要素還元論的アプローチは、例えばLotus NotesやGoogleの新サービスGMailなどにも採用されているが今後も間違いなくトレンドとなっていくだろう。

今回の発見は、このエントリを振り返ってみてもまだうまく言語化できていないが、個人的に大変衝撃的な経験だった。ホットなうちにアイデアをまとめなければいけない。

この次に考えないといけないのは、何を捨てて何を捨てないかという観点だろう。現実との折り合いをつけるためには、キャッチーなアイデアだけではなく「現になぜ捨てられていないか」という現実と真剣に向き合い、ソリューションとしてのリアリティを高めていかなければいけない。このテーマについて、頭をフル回転させつつ色々な人にアイデアをぶつけながら、答えを見出すまで今後とことん続けたい。

最後に、Psychsさんの以下のエントリも今回の内容を理解する上で役立つと思われるので、ご参考まで。

Windchase : オブジェクト指向は可能性への欲望だ

こういう話を出したのは,オブジェクト指向がうたう抽象化の利点は,可能性に対する欲だと思うからだ.「抽象的に作れば,再利用性が高まるでしょう.」と言われれば,確かにそうだろう.しかも,この欲を追求することには歯止めがかからない.普通に考えれば,再利用性は高ければ高いにこしたことはないのである.

さらにたちが悪いことに,この欲を肯定するのは簡単だが,否定することは大変難しい.なぜなら,肯定するときには単に可能性を論じればいいが,否定するときには全ての場合を網羅する厳密な証明が必要だからだ.だから,普通の人は黙って信じるしかない.

オブジェクト指向を実践する人は,一度は抽象化を追求しすぎるという病気にかかったことがあるはずだ.このような病気にかかるのは,実感を軽視して可能性を追求することが問題なのだと思う.物事はむやみに抽象化するのではなく,抽象化が必要なくらいに物事の整理がつかなくなった時点で,はじめて抽象化の技法を適用すればいいのではないだろうか.

蓋然性の非対称性というのは、養老孟司さんも著書の中で「同一性」と「差異」の非対称性を指摘したように、「すべてのxxはxxである」と「あるxxはxxでない」の比較というド・モルガン以降の近代的な量化子つき論理学の問題でもある。真理を追究する上では注意深くならねばならない点であることは間違いない。

♪ Allan Holdsworth / Metal Fatigue

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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