まだ構想段階のようですが、小中学校でデジタル教科書を採用しようという計画があるようです。どういうわけか文部科学省ではなく総務省の計画で、2015年にはすべての小中学生にタブレットPCを配布し、教科書をデジタル化する計画だそうです。
子供たちはランドセルの中にデジタル教科書を入れて学校に通います。もう何冊もの教科書の重さに耐える必要はありません。図や写真が動いたり、音が出たりします。外国語科目では流暢な本場の発音を耳にすることができます。
これ、まちがいなく教育効果の向上に役立つと思います。
黒板とチョークと教科書とノートの授業が決して悪いわけではありませんが、動画や音声を効果的に利用することで、たとえば「立体」や「動き」のイメージをつかむことがとても容易になったり、興味をひきやすい画像や音声の活用で授業への集中力を向上させることができます。私自身も小学生の子供がおりますが、学校教育でのIT関連機器の活用による教育効果向上には結構期待しています。
もちろん異論もあります。
7月5日の読売新聞社説では反対論が展開されていました。
情報機器の常時使用が子供たちの心身にどのような影響を与えるかの検証も行わず、4年後の導入を急ぐのはあまりに拙速、との主旨でした。
「そんなに急がなくても…」というのは同感ですが、「子供たちの心身への影響」なんて、きっといつまで経っても明確にはならないでしょうから、この主張、まあ一理あるような、ないような。
ところで私はこの件について、全く別の観点からゾッとするほどの薄気味悪さを感じています。
全国の小中学校の子供たちに、タブレットPCを一人一台ずつ配布。もしそんなことが実現したら、いったいどれくらいのカネが動くのでしょう?。単純な掛け算ですが恐ろしくて計算する気も起きないほどの巨額です。そのビジネスインパクトは「電子書籍は出版社を脅かすか?」どころの話ではありません。この先ずっと、毎年毎年途方もない数の端末の販売が確定するのです。
突然あらわれたこの超巨大市場、それも内需。投資先は未来を担う子供たち。素晴らしい優良市場で経済効果だって絶大、と言いたいところですが…
このままいくとこの市場、ほぼ一社が独占してしまいかねません。それも国内企業ではない。わりと閉鎖的で、複数の企業が介入するオープンなビジネスを好まない文化を持つ、あの米国企業です。
つまりこのままでは、この国の子供たちの教育のため投下される資金のかなりの部分が、国外のある一社に流れ続けてしまう、ということになるのです。
しかし、私が薄気味悪さを感じている本当の理由は、実はそのこと自体ではありません。まだ進化の余地も大きいとはいえ、あの製品にそれだけのインパクトや話題性があることは事実なのですから。
薄気味悪いのは、こんな未曾有の巨大市場を前にしても、ただ「エンドユーザ」として新製品誕生を諸手を挙げて歓迎するのみで、「『あれと同じようなもの』をとっととこの国でも作らなければ!」という切迫した空気が、この国のIT業界の中であまり感じられないことなのです。
この国からはもう、そんな気力も気概もなくなってしまったのでしょうか?
かつての黎明期、後の国内メインフレーマー達は社運を賭けてせっせとIBMの模倣を行いました。車だって腕時計だってカメラだって、最初は模倣からスタートしたはずです。
「昔のように模倣せよ」とは言わないまでも、なりふり構わず競合製品を送り出す、という姿勢もビジネスには重要なのではないでしょうか。
え?だったら当社が、ですか?
あ、いや、さすがにちょっとそれは… 話がデカ過ぎます。はい…