無謀な反論その3。まだ続く。今回はアツいのだ。
フリーミアム
機能や使用可能期間を限定するなどした無料版(フリーミアム)を配布する。全体の95パーセントのユーザは無料版のみで満足するが、残り5パーセントのユーザが有料のプレミアム版を購入する、というモデルである。
いわゆる無料試供品と決定的に違うのが「圧倒的大多数は無料ユーザのままで構わない」とした点で、これはソフトウェアとインターネットが可能にした「複製コストゼロ、配布コストゼロ」がなせる技である。前々回エントリで述べた通り、このモデルの有効性に基本的に異論はない。
ただ、どうしても反論したい記述がある。
無料音楽と無料書籍についてである。
ひと昔前、といってもほんの20年ほど前。
青春期の若者が「ミュージシャン」や「小説家」になる夢を見た場合、その実現のためにやれることと言えば、雑誌への投稿やコンテストの応募、出版社やレコード会社への作品持ち込みしか道がなかったものだ。
今やネットの時代になり、素人であっても自作の音楽や小説を自由に発表する手段ができた。そこからメジャーデビューするルートだって大きく開けている。
ものすごい時代である。良いことか悪いことかといえば、間違いなく良いことだろう。ネットがもたらした大いなる恩恵である。
しかし、だからと言って…
「曲は無料でダウンロードさせ、コンサートで儲けろ」とか、
「著作はネットで無料公開し、有名になってから講演などで儲けろ」とか、それはあんまりだ。文化に対する愚弄だ。
音楽や小説や絵画や写真やその他「アート」に分類される商品は、「アーティスト」が相応の苦悶(時として命がけの!)を乗り越えて生み出すものである。そして「プロフェッショナル」ともなれば、一定水準以上の品質の作品を継続的に作り続けることを要求され、それに応え続けなくてはならない。
そんな彼らの創作活動の報酬が0円だったら。「お金は別のところで儲けましょう」と言われたとしたら。
果たしてそれでも尾崎豊や忌野清志郎は歌っただろうか?司馬遼太郎は「竜馬が行く」を書いただろうか?
そして、あなたの大好きなあの曲や小説は、この世に生まれただろうか?
無理だ。創作とはそんなに甘いものではないからだ。
何かを「創作」するという行為の重さを考えたとき、課金すべきはその「作品」そのものであるべきだと強く主張したい。断じて「作品はタダにして95パーセントの人々に。回収は5パーセントのコアなファンから別途」であってはならない。それでは「良い作品」が生まれない。特に「世代を超える」ような名作が。
さらに言えば「作品」を世に送り出すためにはアーティストだけではなく、それを取り巻く人々(つまり、その作品を世に送ることで糧を得ている人々)の手助けが絶対に必要である。作品はアーティスト一人のみから生まれるのではない。良きアドバイザ、編集者、プロデューサなどの関与があって初めて生まれるものである。作品そのものが無料化してしまったら、彼らは絶滅せざるを得ない。
ネット配布の特徴である「製作者から直接ファンのもとに」の構図では、素人もどきの一発屋は大量に生んでも、真のプロフェッショナル達が育たないのである。そこに本物の「文化」は存在しない。
曲や著作の無料配布を有効なプロモーション手段として採用することはあり得るだろう。しかしそれはせいぜい話題作りのための特別プロモーションであり、永続的なものではないはずだ。
フリーミアムモデルとは「本当のコア部分」に正しく課金してこそ、有効なモデル(それも「収益モデル」ではなく「プロモーションモデル」)なのだと思うのである。