当時は、中小企業向けのオフコンを売っていました。西東京にはビルがあまり多くないので、工業団地を営業していましたね。企業数に関しても、おそらく東京の港区の企業数よりも少ないと思います。
当時はマーケティング部門もなかったので、自分でセミナーなどを仕掛けていましたね。流通、サービス系のお客様が多かったかな。状況としては厳しかったですが、あれこれお客様にメリットのあるものを提案するのが僕の役目だと思っていましたから、新しいものや便利なものをどんどん提案していきましたね。
例えば、1994年頃の時点でビデオオンデマンドのサービスを塾経営の企業に提案したりもしました。ただ、あれは時期尚早でクオリティがまだまだだったのですが、あれこれ考えながらクライアントのメリットになるようなさまざまな提案ができるよう、常に意識して考えてはいましたよね。
1997年、1998年は日本IBMがPCサーバで本格的に市場参入した頃だったから、一所懸命売っていましたね。やはり、東京の第一線の現場では企業がたくさんあって、それら企業の多くがシステム投資を検討している状況だったわけですから、提案の仕方によってはいくらでも企業は話を聞いてくれるし、クロージングまで持っていける比率は必然的に高まる。面白くてしょうがなかったですよ。
大規模な新規開拓の案件の話ですが、20年以上も他社の製品を使っているお客様で、そこのシステムの課長が辞表と一緒に僕の提案を会社の稟議にかけて下さったんです。失敗はできないから、関連した人達は徹夜で頑張ってくれましたし、結果として導入したことにより、これまで以上に良い成果が現れてそのお客様から感謝されたんです。
この一件から新規開拓って面白いなと感じましたし、その成功体験以降は、新規営業も順調に進みましたね。
成功への戦略ですか?単に僕が負けず嫌いだったんじゃないですかね。実際、27〜28歳くらいまでは、仕事の傍らで月1回はライブをやっていましたし。 その頃までは、音楽で一旗揚げてやろうという気持ちは強く持っていました。
ただ、当時はプロダクションに入って音楽活動をするまでにはなっていたのですが、やはりどこかの時点でこれ以上プロとして音楽の道を目指すことには挫折したんですよね。
実は、1997年頃からベンチャー企業と一緒に仕事をしていたんですよ。例えば、スポーツ関連の分析・解析ソフトの開発をあるお客さまと一緒にやって、出来上がったソフトを売り込みに海外まで一緒に行ったりだとか。そうしたことなどをやっていたから、「ベンチャーなら伊藤」というイメージが社内的にあったんでしょうね。ベンチャー企業も中小企業という括りに入るじゃないですか。
それまでも、インターネット関連の雑誌などは読んでいましたし、インターネットビジネスが急成長するということは1995年頃から感じていましたから、1999年にこのプロジェクトに選ばれたときは「さらに面白い仕掛けが作れる」とワクワクしましたね。
新たなビジネスをやろうとしている人達はすごく苦労して頑張っていますし、志が高い人も多いので、一緒に仕事をしたら面白いだろうなというイメージもありましたから。
このようなプロジェクトを日本IBMとしてやる場合、商売の距離感や、付き合いにくい壁というものを取り払うことを会社が約束しない限りできませんから、まずは社内を口説いて回って、タスクを立ち上げるための骨となる人、モノ、金を集めました。
また、お客様であるベンチャー企業に対してもスピード感ある提案ができるように、ハードウェア、ソフトウェア、サービス、ファイナンスといった各事業部のトップと社長を含めた役員を一堂に会した月1回のミーティングを持ち、その場で各事業部のトップに「YesかNoか」を即断してもらうという活動もしましたね。
サーバーを無償で貸すというプログラムも必要だということで社内的に動きました。すべては、「お客様に対してより良い環境を作ることが何よりも大事だ」という思いでやったことです。
それはありましたよ。しかし、起業するのが目的ではなかったんですよね。事業内容がどれだけお客様に喜ばれるか、そして自分にとって納得感があるかというのが大事なポイントで、個人事業主でやるのか大企業に属してやるのかということに関しては、決してプライオリティとして高くないことだったんです。
実は、西東京営業所で働いている時に、一度辞表を出したことがあるんです。1995年頃ですかね。しかし、よくよく考えてみると、自分がこの会社に相当お世話になっていることに改めて気づき、まだ恩返しができていないと感じました。ですから、ネットジェンの時も、お客様にとってより良い環境作りと自分が楽しめるような協業のスキーム作りを考えることに注力していましたね。
僕はラッキーなんだと思います。特に部長になりたいとか言ったこともありませんし、あくまでもお客様のために最善を尽くしてきただけですから。
その通りです。負けず嫌いではありましたけど、社会人になりたての頃はIBMなんて全く知らない世界だから、戦略的にというよりもむしろ、経験になるものであれば何でもやってやろうと思っていたくらいですよ。
先ほど自分がラッキーだと言ったのには理由があって、いつも面白いところにアサインしてもらっているんですね。かつては、スポーツインダストリーの日本代表として英語もできないのに、海外と電話でミーティングしたりなんてこともありました。
正直、自分の力量を超えているのではないかと疑ってしまうような案件が自然と自分のところに舞い降りてきて、でもそれが面白いから夢中になってやってしまう。ただそれだけのことなんじゃないかな。
CNET Japanの記事を毎朝メールでまとめ読み(無料)
ものづくりの革新と社会課題の解決
ニコンが描く「人と機械が共創する社会」
企業や自治体、教育機関で再び注目を集める
身近なメタバース活用を実現する
OMO戦略や小売DXの実現へ
顧客満足度を高めるデータ活用5つの打ち手
パナソニックのV2H蓄電システムで創る
エコなのに快適な未来の住宅環境