物事を突き詰めて考え抜ける人こそが、真の信頼を勝ち取れる(第6回:伊藤昇) - (page 2)

営業!営業!営業!

--日本IBMは1992年頃からハードウェア依存型のビジネスからの脱却を強いられ、大きく落ち込むわけですが、その頃の営業って厳しかったのではないですか?

 当時は、中小企業向けのオフコンを売っていました。西東京にはビルがあまり多くないので、工業団地を営業していましたね。企業数に関しても、おそらく東京の港区の企業数よりも少ないと思います。

 当時はマーケティング部門もなかったので、自分でセミナーなどを仕掛けていましたね。流通、サービス系のお客様が多かったかな。状況としては厳しかったですが、あれこれお客様にメリットのあるものを提案するのが僕の役目だと思っていましたから、新しいものや便利なものをどんどん提案していきましたね。

伊藤氏 成功への戦略?正直、自分の力量を超えているのではないかと疑ってしまうような案件が自然と自分のところに舞い降りてきて、でもそれが面白いから夢中になってやってしまう。ただそれだけのことなんじゃないかな。

 例えば、1994年頃の時点でビデオオンデマンドのサービスを塾経営の企業に提案したりもしました。ただ、あれは時期尚早でクオリティがまだまだだったのですが、あれこれ考えながらクライアントのメリットになるようなさまざまな提案ができるよう、常に意識して考えてはいましたよね。

--西東京で新規開拓を6年やって、いよいよ1997年に東京に配属されるわけですが、その頃はどのようなことを?

 1997年、1998年は日本IBMがPCサーバで本格的に市場参入した頃だったから、一所懸命売っていましたね。やはり、東京の第一線の現場では企業がたくさんあって、それら企業の多くがシステム投資を検討している状況だったわけですから、提案の仕方によってはいくらでも企業は話を聞いてくれるし、クロージングまで持っていける比率は必然的に高まる。面白くてしょうがなかったですよ。

--伊藤さんにとっての仕事の成功ポイントは何でしょうか?社会人になるまでは音楽の道を志していたわけですから、社会人になった時に仕事を成功させるための成功体験やそれにつながる何かしらのエピソードがあったのではないんですか?

 大規模な新規開拓の案件の話ですが、20年以上も他社の製品を使っているお客様で、そこのシステムの課長が辞表と一緒に僕の提案を会社の稟議にかけて下さったんです。失敗はできないから、関連した人達は徹夜で頑張ってくれましたし、結果として導入したことにより、これまで以上に良い成果が現れてそのお客様から感謝されたんです。

 この一件から新規開拓って面白いなと感じましたし、その成功体験以降は、新規営業も順調に進みましたね。

--音楽の道を志ながら、サラリーマンの道に入った頃というのは相当抵抗感があったのではないでしょうか。価値観も大きく違うだろうし、効率的に成功を勝ち取るための戦略などはありましたか?

 成功への戦略ですか?単に僕が負けず嫌いだったんじゃないですかね。実際、27〜28歳くらいまでは、仕事の傍らで月1回はライブをやっていましたし。 その頃までは、音楽で一旗揚げてやろうという気持ちは強く持っていました。

 ただ、当時はプロダクションに入って音楽活動をするまでにはなっていたのですが、やはりどこかの時点でこれ以上プロとして音楽の道を目指すことには挫折したんですよね。

--音楽活動を辞めて仕事に集中し始めてから数年。1999年にはIBMの新しい取り組みである、ITベンチャーとの協業を生み出すプロジェクト「ネットジェンタスク」のメンバーに選ばれるわけですが、このプロジェクトに取り組むにあたってどのように思われましたか?

 実は、1997年頃からベンチャー企業と一緒に仕事をしていたんですよ。例えば、スポーツ関連の分析・解析ソフトの開発をあるお客さまと一緒にやって、出来上がったソフトを売り込みに海外まで一緒に行ったりだとか。そうしたことなどをやっていたから、「ベンチャーなら伊藤」というイメージが社内的にあったんでしょうね。ベンチャー企業も中小企業という括りに入るじゃないですか。

 それまでも、インターネット関連の雑誌などは読んでいましたし、インターネットビジネスが急成長するということは1995年頃から感じていましたから、1999年にこのプロジェクトに選ばれたときは「さらに面白い仕掛けが作れる」とワクワクしましたね。

 新たなビジネスをやろうとしている人達はすごく苦労して頑張っていますし、志が高い人も多いので、一緒に仕事をしたら面白いだろうなというイメージもありましたから。

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--ただ、日本IBMという大企業がベンチャー企業と付き合うには色々な制約、例えば与信がつかないといったファイナンスの問題など、他にもたくさんの問題点があったと思いますが、どのようにクリアしていかれたのでしょうか?

 このようなプロジェクトを日本IBMとしてやる場合、商売の距離感や、付き合いにくい壁というものを取り払うことを会社が約束しない限りできませんから、まずは社内を口説いて回って、タスクを立ち上げるための骨となる人、モノ、金を集めました。

 また、お客様であるベンチャー企業に対してもスピード感ある提案ができるように、ハードウェア、ソフトウェア、サービス、ファイナンスといった各事業部のトップと社長を含めた役員を一堂に会した月1回のミーティングを持ち、その場で各事業部のトップに「YesかNoか」を即断してもらうという活動もしましたね。

 サーバーを無償で貸すというプログラムも必要だということで社内的に動きました。すべては、「お客様に対してより良い環境を作ることが何よりも大事だ」という思いでやったことです。

--1999年に立ち上がったこのプロジェクトは、翌年2000年より「ネットジェン営業部」の設立の礎を築いて行くわけですが、伊藤さんご自身はベンチャー企業とお付き合いする中で、ベンチャー企業に行くという考えや、起業をしようという考えは生まれてこなかったのでしょうか?

 それはありましたよ。しかし、起業するのが目的ではなかったんですよね。事業内容がどれだけお客様に喜ばれるか、そして自分にとって納得感があるかというのが大事なポイントで、個人事業主でやるのか大企業に属してやるのかということに関しては、決してプライオリティとして高くないことだったんです。

 実は、西東京営業所で働いている時に、一度辞表を出したことがあるんです。1995年頃ですかね。しかし、よくよく考えてみると、自分がこの会社に相当お世話になっていることに改めて気づき、まだ恩返しができていないと感じました。ですから、ネットジェンの時も、お客様にとってより良い環境作りと自分が楽しめるような協業のスキーム作りを考えることに注力していましたね。

--2000年からネットジェン営業部、2002年から日本IBM自体のマーケティングディビジョンへと社内的にポジションが上がって行く中で、どのように感じられましたか?

 僕はラッキーなんだと思います。特に部長になりたいとか言ったこともありませんし、あくまでもお客様のために最善を尽くしてきただけですから。

--つまり、社会人になってからの上昇志向があって戦略的に動いてきたわけでないと?

 その通りです。負けず嫌いではありましたけど、社会人になりたての頃はIBMなんて全く知らない世界だから、戦略的にというよりもむしろ、経験になるものであれば何でもやってやろうと思っていたくらいですよ。

 先ほど自分がラッキーだと言ったのには理由があって、いつも面白いところにアサインしてもらっているんですね。かつては、スポーツインダストリーの日本代表として英語もできないのに、海外と電話でミーティングしたりなんてこともありました。

 正直、自分の力量を超えているのではないかと疑ってしまうような案件が自然と自分のところに舞い降りてきて、でもそれが面白いから夢中になってやってしまう。ただそれだけのことなんじゃないかな。

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