Wozniak氏とJobs氏は、機能的で強力なディスクドライブと、そのシステムを動かすディスクオペレーティングシステムの必要性を理解していた。社内には人材が豊富で、その中にはWozniak氏自身のほか、Jef Raskin氏(「Macの父」)、「キャプテンクランチ」のあだ名で知られるJohn Draper氏など、やがてはシリコンバレーの伝説の人物となる人々がいたが、当時のAppleの能力では独自DOSを開発することはできなかった。同社はほかの場所を探す必要があった。
Apple Iは、かなり狭い愛好家の世界での名声をWozniak氏とJobs氏にもたらしたが、このコンピュータにはケースもなければ電力供給装置もなく、キーボードもなかった。そのため、ビジネス用途での購入者の関心を引くことはできなかった。しかしWozniak氏が1976年秋に設計したApple IIでは、Appleは一般ユーザーを引きつけることを目指した。それは販売範囲やマーケティング戦略を拡大するための基盤となる決定だった。検討課題の1つ目は、システムにディスクドライブを追加して、市場がAppleを真剣に検討せざるを得ないようにすることだった。
「カセットシステムとディスクドライブシステムの違いは、愛好家向けデバイスとコンピュータの違いだった」と語るのは、世界初のポータブルコンピュータ「Osborne 1」の開発者であるLee Felsenstein氏だ。「例えば、カセットシステムで『VisiCalc』が動くことは期待できなかっただろう」(Felsenstein氏)
VisiCalcは初の表計算プログラムで、PCの歴史上最も重要とは言わないまでも、重要な要素の1つだった。AppleのDOSを書いたPaul Laughton氏が言うように、VisiCalcは「マイクロコンピュータを軌道に乗せたもの」だった。
それはVisiCalcがビジネス関係者にとって、新しいマイクロコンピュータに多額の金を払う理由となったためだ。VisiCalcの共同開発者(もう1人はBob Frankston氏だ)であるDan Bricklin氏は、「あなたがVisiCalcの存在とその機能を知っている熟練の販売員で、ちょうどいい人物がドアから入ってきたら、フル機能を備えたマシンを売ることができただろう」と語っている。
Bricklin氏は、同氏とパブリッシャーがVisiCalcを最初にApple II向けとして発売した理由は、1つはパブリッシャーであるDan Fylstra氏がAppleファンだったためであり、もう1つは2人がApple IIのベースになっていた6502チップ向けのアセンブラを持っていたためだと説明した。しかしBricklin氏によれば、まずApple向けに発売するという決断の一部は、フロッピーディスクを採用する可能性が、ライバル製品よりもApple IIのほうが高かったという事実に基づいていたという。
1年の間、VisiCalcはApple専用ソフトウェアとして販売され、その期間には1カ月におよそ1000本が売れた。この数は今では少なく思えるかもしれないが、当時としては相当な数だ。さらにBricklin氏は、「それだけ多くのAppleマシンが売れていたということだ。Appleのコンピュータの売り上げは、毎月100万ドル以上あった」と語っている。
AppleのDOSは、VisiCalcを経由することで、同社の最終的な成功へとつながっていったのだろうか。Felsenstein氏は確かにそう考えている。VisiCalcは「キラーアプリケーションだった。つまりあらゆる人々の注意を集めて、そうしたデバイスを使えばまともな仕事ができると気付かせた。それはおもちゃではなかった」と同氏は語った。
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