野々下裕子
2007/07/24 12:00
「翻訳者が足りない」。最新情報のほとんどが英語で発信されるオープンソースコミュニティーで、日本人が参加する時の大きな壁の1つになっているのが翻訳の問題だ。ネット上には無料の英和辞書も自動翻訳ツールもいくつかあるが、テクニカルな英語となると翻訳のプロでも訳すのは難しい。特に新語が続々登場するIT系では、専門知識と独特の翻訳センスが求められる。
池田譲治さんは、そうした独自の翻訳センスを備えた人物で、その実力はコミュニティーの間でも評判が高い。Mozilla Japan翻訳部門では和訳アドバイザーとして活躍し、オライリー社から出版された「Firefox Hacks」の翻訳者の一人でもある。本業は医者で、大学時代にBASICはかじったが専門的な勉強はしておらず、もちろん翻訳のプロでもない。そんな池田さんがテクニカルな翻訳に興味を持つようになったのは、Netscapeの登場がきっかけだった。
「インターネットのことは早くから知っていましたが、大学にLANが入ってから、ようやく電話代を気にせず使えるようになったんです。さらにNetscapeのprefs.jsという設定ファイルの存在を知り、自分でもカスタマイズできるという醍醐味に目覚めました。そこで、Netscapeについてインターネットで探し始めたものの、役に立つ情報はほとんど英語。その頃に参加していたパソコン通信のNetscape関係のフォーラム(掲示板のようなもの)でも、英語の情報はあまり読まれてなかった。そこで、書き込まれた質問に英文を和訳して紹介するうちに、だんだん翻訳のコツがつかめるようになってきました」
こうした経験を元に立ち上げられたのが、「Netscape非公式FAQ日本語版」サイトだ。海外のユーザーが非公式で運営している「The Netscape Unofficial FAQ」の日本語版で、池田さんが個人的に日本語版の運営許可をとり、一人で半年かけて運営にこぎつけた。開設された98年8月頃は、FAQという言葉も浸透しておらず、国内のFAQサイトの先駆けともなった。
その後、Netscapeの開発ペースが落ち、FAQサイトの更新は減ったが、サイトが縁でMozillaコミュニティーと関わるようになる。さらに翻訳の実力を評価され、「Firefox Hacks」の翻訳を手掛けることになったのだ。
池田さんはもともと文学青年で、SFやミステリーを原書で読んでいたため、英文を読むのは抵抗がなかった。
「ウィリアム・ギブスンらのサイバーパンク小説なども原書で読んでいて、それがテクニカル翻訳に挑戦しようと思ったきっかけになっているかもしれません」
テクニカルな英文の場合、すべて和訳するよりも英単語をカタカナ表記に置き換えたり、全く意訳するほうが伝わりやすいということも読書から学んだことだ。
「特にメニューなどのユーザーインターフェイスをローカライズする場合は、視認性を重視するため、映画の字幕のような意訳のセンスも必要になります。たとえば、Firefox3の目玉機能の1つの“Places”は、そのままカタカナにするのか、意訳するのか、今から関係者の間で相談しています。できれば、一般のユーザーにも直感的に伝わる日本語にしたいと考えているのですが、結果的にどうなるかはまだ決まっていません。いずれにしても翻訳で大切なのは、誰が読むのかをまず考えることでしょう」
翻訳に限らず、文章を書く時は常に読者を意識するという池田さんのスタイルは、ブログの文章からも伝わってくる。翻訳作業の大変さとおもしろさを綴るために始めた「Firefox Hacks 翻訳日記」では、Firefoxを中心に幅広い話題が取り上げられているが、ビギナーでも読みやすい文章になっている。
同ブログには、池田さん自身が「今まで最も手応えを感じた」という翻訳文“Firefox 開発の軌跡”も公開されている。Firefoxの開発リーダーであるBen Goodger氏の個人ブログ「Inside Firefox」に投稿された文を翻訳したもので、テクニカル翻訳とはひと味ちがった「読ませる文章」を意識したもので、読者からの反響も大きかったそうだ。
それにしても、池田さんがこれまで手掛けてきた翻訳作業は、ほとんどが個人の趣味で、ボランティアというのに驚かされる。10年近くMozillaコミュニティーと関わりが続けられているのは、「本業とは全く異なる趣味だから」と言う。だが、その根底にあるのは「人に役立つことをしたい」という医者の仕事にも通じる思いだろう。
「今は翻訳と並行して、Firefoxの拡張機能の開発にも興味を持ちはじめています。Javaなど簡単なプログラミングの知識だけでもできるので、そのおもしろさも文章で紹介したいと思っています」
翻訳と並行して最近ではFirefoxの機能拡張の開発にも興味を持っているという池田さん。6月に開催されたFirefox Developers Conferenceでは日頃の開発環境をノウハウを紹介してくれた。
「Firefox関連の翻訳は自信があるので、もう一冊ぐらい翻訳したいですね」と語る池田氏。自ら出版社に企画を提案する予定だという。
池田氏の関連サイト