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情報社会学追説:オープンコミュニティとプライベートセクターの取引モデル

2006/08/13 04:06
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渡辺聡

インターネット/IT分野で事業開発に携わる渡辺聡さんが、注目ニュースなどを題材に、そのニュースの背後にある本質的な変化とその先行きを、経済や社会との関わりの中で考えていきます。
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プログラムに限ったことではなく、もう少し広めの知的財産周りにも拡張出来ることだろうが、オープンコミュニティと(私)企業の取引モデルについて、『情報社会学序説』をベースフレームにお借りしつつ少しまとめたい。対象範囲は「伽藍とバザール」のような開発コミュニティ内部の話ではなく、コミュニティと企業、あるいは生み出された成果物の利用者の間との取引関係についてとなる。

以下、厳密には言葉からモデルまで前提部分を一度整理して定義してから話を始めるべきなのかもしれないが、ある程度簡易に進めたいので緩やかの前掲書のモデルをお借りして進めてみる。厳密には細部が異なったり追加解釈を行ったりしているがご容赦頂きたい。

結論を先に書いてしまうと、私企業がオープンコミュニティと取引する際は、
 ・コミュニティへの貢献
 ・対価の支払い
のいずれかをするのが普通に考えると自然ではないかということ、しばしば前者の貢献というところは意見の相違が出るところでもあるので、慣れてない場合は後者の通常の経済取引を行うのがスムーズなのではないかという話となる。
 
 
共の領域と私の領域
 
まず、『情報社会学序説』では世の中を公、共、私の三層に分けている。概ねの雰囲気は4章を読んで頂きたい。

まず、経済主体としての私の領域は、私有財産の原理で動いている一般企業を普通にイメージするとそのままである。必要な特徴は以下で随時触れるとして文献の参考箇所のみ指摘しておきたい。

共の領域を把握するには、オープンソース関連のコミュニティの動きを思い返すとイメージしやすい。集団内で作られた知的財産は、しばしば幾つかの権利を留保した上で一般公開される。例えば、代表的なオープンソースソフトの場合ライセンス料は必要とされず、改変しての再公開の場合に元々のコミュニティへのフィードバックと公開を必須とすることなどが条件として付されることが多い。通常のライセンスモデル、つまり個人にしろ企業にしろ良く採用されている非公開で利用そのものに課金が為される取引形態とは異なった原理で動いている。

ポイントは、公開されて入手も自由に行われるケースが珍しくないが、全ての権利が放棄されているのではないということである。つまり、厳密な意味ではタダではない。知的財産についてはコミュニティ参加者、あるいはエージェントとなるNPO的な機関で権利が共有されている状態となっている。一部権利が緩められているだけであり、オープンソース=タダ、という考え方は根っこのところではあまり良いものではない。
(ちなみに、事業上のリスクについてはオープンソースのリスクマネジメントモデルとして過去概要までは取り扱っている)

なぜそもそも、権利を緩める形になっているのかというのは、この説明が良いだろう。

「オープンソースはそもそも開発したプログラムのソースコードを公開することを意味していたが、最近はインターネット上で公開されたソースプログラムを通じて世界規模で共同開発することを指すことが多くなって」いると述べた上で、このようなオープンソースは、プログラマーの奉仕活動というよりはむしろ利己的な活動として捉える方がよいという。なぜならば、「プログラマーがオープンソースのプロジェクトを始めるまたは参加する[中略]もっとも典型的な動機は簡単にいうと、自分が使いたいプログラムがないので開発したい、ただ一人で全部を作るのはたいへんなので、同じような状況の他のプログラムと一緒に開発して自分の負担を小さくしたいということ」だからである。したがって、「プログラマーが使わないソフトウエアではオープンソースによる開発は成立し難い」

つまり、スタートラインは開発者同士の協働の効率を高めることと、より良い成果物を広範に得ることにあることと考えるのが生産形態として考えるには良い。つまり、開発とイノベーションの実施に適したアプローチとして採用されていることになる。もちろん、この先に「世の中を良くしよう」という社会貢献の考え方がセットでついてくることがしばしばある。しかし、内部の人間はともかく、外部の人間が協働のための共有と、公開による社会貢献の二点を混同するのは良くないと考える。
 
 
私の経済原理と共の経済原理
 
企業の目的のひとつは利益を上げることである。経済効率を高める、あるいは適切なレベルに維持した上で投資効率を十分なレベルで保つこと、全体的な視点で見ると個々が経済効率を高めることで全体としての社会効率も高められるというモデルとなる。背景は概ねこんなところか。

私人たちは、自分たちが私有している各種の財産(およびその使用から発生するサービス)の所有権や使用権を「商品」として市場で互いに交換することで、全体としてのその使用価値――つまり手段としての有用性――を高めようともくろむことができ、実際にもそれにしばしば成功する。

 
ネガティブな意味合いで書くのではないが、財産や権利は私有と占有を基本にして進められる。つまり、先取りした語ると共の経済原理と異なった動き方をしていることになる。
 
共の経済原理については、本題である両者の取引関係へに繋げていくところを意識してこの記述から始めたい。八田さんのこちらの記述を踏まえつつ書かれた一節であるが、

プログラマーたちのコミュニティとその外の世界――エンドユーザーたちや、「中間層」としての政府や企業の世界――との間に、非ゼロサム的なウィン・ウィンの関係を作り上げたいという意図に発しているように思われる。さらにいえば、とくに企業がオープンソースによる開発のメリットを最大限に享受できるようにするためには、「一切の権利が消滅しているので著作者の権利も存在しない。改変も流通も完全に自由」ないわゆる「パブリックドメイン」よりは、制約を厳しくする必要がある。その制約とは、八田の意見では、著作者の権利を部分的に認めたり、二次的な開発物の流通に関しても元のソフトウエアと同じライセンスの下で配布することを許可しなければならないといった「コピーレフト」的条項を加えたりることで、剽窃者や競争相手が不当に有利にならないようにするためのものである。

内向きに閉じた形でのコミュニティ理解ではなく、公の領域である政府や私の領域である企業との関係について少し触れたところとなる。
 
当たり前であるが、オープンソースソフトと言っても、どこかから魔法のように湧き出てくるものではなく、誰かがどこかで手を動かして開発から保守メンテを行っていることで経済活動として成立している。つまり、コストはかかっている。内容公開を行っているのは開発効率アップと協力者の参入コストを落とすことが公開することによるデメリットを越えているからというのがまず先に立っているため行われている。
 
財の存続維持のため、開発コミュニティの参加者・貢献者が行っていることは直接の労働供与となる。また、参加が緩やかに解放されている組織内で知的財産は緩やかにシェアされた形になっている(厳密には個々のコードに誰が作成したかをトラックしていたりと様々パターンがあるかとは思うが)。簡単に捉えると、一緒に作るのだから個人で占有は出来なくとも利用などを含めて権利の一部を受け取れる形となる。
 
では、結論は冒頭にまとめてしまったが企業はどうなるのかということになる。まず、じわじわと広がりつつあるコミュニティに直接貢献していくパターン。代表的なオープンソースソフトでも、開発メンバーは例えばIBMの社員が業務の一環として行うというのが既に珍しい風景では無くなっている。コミュニティの一員として開発に参加することが出来れば方法の一つとなる(ただし、法人とコミュニティ全体との製品化の際の取り決めはまた別途の枠になることもある)。
 
開発及び財の維持管理に工数を割けないのであれば、利用分のコストを然るべき取り決めの元で負担して支払うというのが自然な話となる。前回エントリでもインフラただ乗り論についても似たようなところを通ったが、昨今水や空気、環境といった公共財についてもコスト負担と責任が発生するのが一般認識となりつうある。CSRなんていう動きをこのベクトルで解釈することも出来る。いわんやプログラムを、という状況だろう。
 
 
オープンソースはタダであるという言葉の気持ち悪さ
 
オープンソースはタダであるという言い方は良く耳にする。表面上間違っているともスパッと言えるものでもない。しかし、よくよく中身を聞いているとどうも怪しい場合も混じっている。
 
一つは、ある財が生み出され、且つ維持更新されていくのには開発者から利用者まで全てのステークホルダーを含めた経済活動全体として帳尻が合っていることが大前提となる。どこかで無理をしていたり、全体として受けるメリット以上に何かを壊している活動は長くは持たない。複製が簡単なデジタル財でも、細部で動き方が変わるもののこの原理は変わらない。この世にタダ乗りとタダ飯は本来無い。ただ乗りしている場合、どこかに負荷をかけていると(これは具体的なリソース負担を必ずしも意味しない代替需要の破壊も含まれる)、財の供給はそのうち鈍るかストップされる。知ってか知らずか、間接的に何らかの財の破壊に手を貸していることになるのなら、それはあまり褒められた行動ではないだろう。
 
もう一つは、先にも触れたように、私の領域と共の領域では行動原理が異なっていることである。共の領域でリソース共有と解放が行われているのは単に配り歩きたいからではない。ところが、財産私有を原理とする私企業の側が「タダなんだよね?」というロジックで動いてしまうのは、自らの都合の良いように相手の発言を切り出して理解していることとなる。共の領域とのコミュニケーションが成立し、お互いの立場で納得が行く形になってない限りはたとえエコノミクスが成立していても、筋としては通らない。信頼とレピュテーションが経済のポイントになりつつある昨今、あまり良くない状況と言える。
 
そして、この話を前フリとして、著作権と引用の話も取り扱いたい。とはいえ既にもう随分と長いのでまた改めて。
 

 
関連エントリ:
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※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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