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CNET Japan ブログ

インターネット世代論・再び

2004/06/04 09:26
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umeda

シリコンバレーで経営コンサルティングを行なう傍ら、ベンチャーキャピタリストとしても活躍する梅田望夫さんが、IT業界の先を読むのに役立つ英文コンテンツを毎日紹介していきます。これを読めば、英語と業界動向を読む力が同時に身に付くはず(このブログの更新は2004年12月30日で終了しました)。
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昨日は「電車男」についてのみクローズアップしたが、本欄5月19日「ネット世代とPC世代を分ける「インターネットの隠れた本質」」には、たくさんのトラックバックをいただいた。最近、日本企業の経営者と話をするたびに、「若い頃からネットを当たり前の存在として育った世代(1970年生まれ以降と粗っぽくわかりやすい仮説で世代を定義)は、我々の世代やあなた方の世代とは全く違う感性や感覚を持っているので大切にしたほうがいい、彼らが考えていることをきちんと理解できなくとも虚心に話を聞いたほうがいい」と薦めるようにしている。

「信頼の有無」だけではない世代の違い

5月19日のエントリーへの反応では、世代間に何らかの違いが存在することについての疑義は少なく(世代で括って議論することへの批判はむろん相変わらずある)、若い世代の人たちから、「違いがあるのは当然だが、筆者が説明しているような違いとはちょっとニュアンスが異なるんじゃないかな」的なコメントをいくつかもらって、たいへん参考になった。今日ご紹介する内容は、先週の日本出張での講演やら経営者との議論でもずいぶん活用させていただいた。CNET Japanのオフミーティングのときも、「いろいろと批判はあるようだが、本件について僕は確信犯なので、またしつこく書いていくつもり」と言ったら、大爆笑されてしまった。前回「粗っぽいながらも今考えていることだ」として提示した「「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数」への「信頼の有無」」というキーワードに拘るつもりは全くなく、色々なご意見を受けて、さらに考えていきたいと思っている。

インターネットを生活の場としてとらえる

まずは、Programmer'sEyeの「インターネットを生活の場に出来るか?」。

「在る同じ時代に、二つの世代がいるとき、そこには必ず何らかしらの「劇的な価値観の変化」がおきているものだと考えられるだろう。」

「「インターネット世代」と「PC世代」という二つの世代を分けるものがあるとすれば、「インターネットを生活の場としてとらえる」事ができるかどうかと言えるのではないだろうか。」

「私は、「インターネットが変えた価値観」は、「情報を持つことの価値」だと思うのだ。コンピューターの進歩が情報の蓄積を容易にし、インターネットは情報の流通の距離をなくしたことで、「情報を持つことの価値」は、昔よりも、著しく下がったのではないか。(略) 「インターネット世代」は「情報をもつことの価値」は著しく下がったが「情報を生み出すことの価値」を高く評価するようになっているということ、だと考えている。」

「インターネット上で「情報を生み出すことの価値」に重きをおくということは、インターネット上にて「生活」する、ということだと、言えはしないだろうか。」

「「インターネットを生活の場としてとらえる」事ができるかどうかというのは、とてつもなく大きなパラダイムシフトだとおもう。そして、それを「受け入れられるかどうか」ということについては、やはり、「世代」というものが出来てしまうのではないだろうか。」

これを書かれたSyulen氏の問題意識を、「デジモノに埋もれる日々」Blogの「私たちがネットを通して見ているもの・築いていくもの」は、こう要約されている。

「syulenさんのblogでは梅田さんのblogを受け、「ネット世代」に起こった変化について、情報を「保持する」ことの価値が著しく低下して、(持つ者/持たざる者という区別の無意味化)情報そのものの価値・情報を生み出すことの価値に向き合い始めたことだと表現されています。そして、他人の評価を欲し、自分の評価・価値を高めるという現実世界の行動原理をネットにも当てはめること、すなわち「ネットを生活の場として捉える」という概念が新しいとしています。」 (うまいなぁ、この人の要約は!)

ネット上の対人関係に価値を見出せるか

そしてご自身の意見としては、

「私の興味あるテーマとは「ネット上の対人関係に価値を見出せるかどうか」です。」

と前置きし、この「ネット上の対人関係に価値を見出せるかどうか」という漠とした大きな問いならばYESと言えても、次の3問にはYESと言えるかな、と踏み絵を用意している。

「 A.あなたは、ハンドルネームしか知らない相手に「人格」を認めて、対話できますか?

 B.あなたは、ハンドルネームも無い匿名の相手に「人格」を認めて、対話できますか?

 C.あなたは、ネットでのみの関わり合いを、自分の「生活」の一部として認めていますか?

この問いにどこまで「Yes」を認められるか、その辺りが私にとってのネット人の境目です。ちなみに私は全て「Yes」ですが、勿論「Yes/No」が入り混じっている方も多いことでしょう。」

昨日の「電車男」も、ABCのすべてにYESでしょうね。

「その一方で、ABCに対して恐らく1つも、心の底からは「Yes」とは思えないという方々がいらっしゃると思います。そうした方々から、私は何度もこんな言葉を聞いてきました。

  「所詮、匿名なヤツは、匿名ナリのことしか言わんし」

この背景に見え隠れするのは「まずリアルが存在し、そのリアルの断点を繋ぐのがネットの役目だ」という価値観の存在です。こうした方々にとって、ネット上で「しか」確認できない存在とは、リアルのそれと比べて何百分の1程度の信頼しか持ち得ないモノに見えるのだと思われます。」

そしてさらに、もう一つの踏み絵と、世代間仮説をそれぞれこう述べられている。

(踏み絵) 「あなたにとって、ネットは現実の断点を繋ぐ「通信機」ですか?それとも、ネットは人生に於いて生活の価値を感じる「社会」ですか?」

(世代間仮説) 「コンピュータ世代の人は、コミュニティに於けるコミュニケーションを、「価値ある情報に近づくための手段だ」と考えることが多いようです。情報交換を重ねて、価値ある情報という「結果」が得られれば目的が達成できる、その過程に於ける対話は手段でしかなく、結果が生み出せない対話は価値が薄い、と。ネット世代の人は、コミュニティに於けるコミュニケーションそれ自体を、生活に於ける「娯楽」の要素として捉えていることが多いようです。そこに於いては、より良い情報が引き出せるかどうかは「二の次」であり、その過程に於ける対話の連続そのものに楽しみを見出しているのだ、と。」

読者の皆さんはどう思われるでしょう。僕はなるほどと、かなり納得しました。

「信頼」に対する2つの仮説

さて、「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数」をなぜ信頼できるのかという観点からは、二つの面白い仮説があった。一つは、「A big bear coming out of hibernation」の「ネット世代の本質」。

ネットの向こうを信頼できるか否かは、「インターネット(ネットワーク)に貢献している経験の有無」に依存するという考え方だ。確かにPC世代の人たちはネットで過ごす時間がネット世代に比べて圧倒的に少ないだけでなく、ネットを受動的に使っている人が多いと思う。

「例えば私は無名の権威の全くない人間であるが、自分のこんなエントリでさえ、ある程度の時間をかけないと書くことができないし、インターネット上では、全世界中の有名無名の多くの人により、本当に気が遠くなるような延べ時間が費やされて情報の発信がなされている。しかし理屈ではそのような現象を想像することができても、『インターネットの向こう側を信頼できるようになる』には、前提として、自分がインターネットを信頼に値する経験を持っているのか?ということが大きなドライバーになると思う。つまり個人の観点で、『インターネットの向こう側を信頼できるようになる』には、『さまざま情報から信頼感を想像できる領域から、体験としてその信頼感を分かっている領域まで到達すること』が重要な要素だと思う。」

もう一つの仮説は、先週の本欄でゲストブログをお願いした岡田正大氏の「本当の意味でのネット世代とは」。

ネットの向こうを信頼できるか否かは、自分自身を信頼できるか否かということの投影だ、という考え方だ。

「不特定多数の知のクオリティや信憑性を「自ら判断できる」人間だけが本当の意味で「ネット世代」といえるのではないか、ということだ。自ら物事の価値を見抜く尺度・価値観を持っているからこそ、不特定膨大多数の知を躊躇なく受け入れることが出来る。」

確かにそういう側面もあろうが、そんな強い人間ばかりをネット世代と定義するのはちょっと厳しすぎるのではないかと思う。むしろ「A big bear coming out of hibernation」氏の意見のほうに僕は共感するなぁ。

ただ、[yxy] blogの柳澤康弘さんは、岡田氏の意見に強く共感し、こんなことを書かれている。

「まさにそのとおりだと思う。(としか言いようがない)ウチの親とかも、ネット上でちょっと情報量が多いものに突き当たると日和ってしてしまうし、そもそもそういうものにあまり積極的に触れようとしない。おそらく、「自分は多くの情報を処理できない」と自ら定義してしまっているからだと思う。「もっと短く説明しているところはないの?」とかいう質問をしてくるのはその現われだ。ネット上の膨大な情報を自分で処理できる自信がなく、リアルな知り合いである自分の子供が(ネット上の情報を処理した結果として)提供してくれる情報なら信用できるはず、との判断が働くのだろう。」

ネット世代内の新旧

そして思わず赤面してしまったのは、「観測気球」の「ネット世代と言っても、実はさらにその内部に世代があるのではないのか?」から、こんな指摘を受けたから。本欄5月21日「Blogは究極の知的生産の道具」の中で、全く意識せず、僕が「カット&ペースト」という言葉を使ってしまったことについて、

「実際には「カット&ペースト」も「コピー&ペースト」も区別せず、常に「カット&ペースト」と言ってしまう/書いてしまうのが、インターネット黎明期(mail と netnews のみが主要なネットアプリケーションだった頃)からネットを利用している人。ちゃんと区別して言う/書く人が、Web 登場以降、もしくは Windows 95 登場以降にインターネットを使うようになった人。というような世代に分けられそうな気がします。そういう意味では、梅田さんも私も「古い」ネット世代。最近は、ちゃんと「コピー&ペースト」と書くようにしてますが、口で言うときは、つい「カット&ペースト」と言ってしまいがちな私 (^^; 」

なるほどねぇ。ただ僕自身は古い「ネット世代」と言うよりも「PC世代」だと思います。まぁ、話は尽きないが、今日はこのくらいにしておきます。ご批判・ご意見、大歓迎です。

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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