最終更新時刻:2009年7月10日(金) 14時33分
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「おまえらのどうしようもない小説をblogの一部だと言い張りたい」を称えたい 【ファック文芸部@はてな】

公開日時:
2007/12/04 19:34
著者:
尊仁

■「おまえらのどうしようもない小説をblogの一部だと言い張りたい。」に賛同したい

ファック文芸部@はてな匿名ダイアリーをウォッチ一日目でいろいろ書くというのは「ちょwwww」的無謀なのですが、 その“侠気”に感じるところがあり、再び取り上げさせていただきます。

「では、文壇に漢気ぶちこみ奉る!」

「さよう、あなたならできます@はてな」

初夢を自在に操る俺

にとっては「小説 =女子」という連関妄想が真紅で困る。実際、俺の知り合いかつ女子の皆様の中には「小説家になりたい」と言う女子が多くて確率で喩えると三分の二くらい。彼らの共通項はとても多くて進路のみならずあちこちが似ている。無闇に社交的(俺の知り合いであるからには当然)、親のしつけがA級(家族仲は全年齢通して良さそう)、何故か時々「物書き」と言う(誰の影響か)、ハスキーヴォイス(重要)、良くも悪くも堅気(たまに俺の全存在を否定してくる)、手足が短い(キュート)、等。この辺は、いずれ典型化しておきたい。

そんな彼らはTV用のアイドルを目指したりしない。諸々の自意識を勘案して物書きの方へ行く。しかし、実際のところその差は僅か。アイドル>>小説家>>>>>>>>>>>>(名状しがたい壁)>>blogger、ということになっているので遺憾。若干なりともblogへ来いよ、インタヴューなら俺がしてやる、というのが動機の一番。

動機の二番は男。おまえら。男で「小説を書きたい」とかいう奴。これはもう例外無くバカ(高貴な意味で)。男の場合、何故か「小説家になりたい」とは言わない。小説家が職業の一種だということを知らないのかもしれない。その点に関してはバカでありがとう。だがしかし、バカにも関わらず、君達は小説を書こうとすると動きが硬い。すぐそっち側(今現在小説である小説の側)に行こうとする。bloggerってそうじゃないだろ。恐らくこれは、他のバカと連携できてない、連携しようとしないのが良くない。小説が書きたいならblogでDoすればいいじゃん。バカは大量に集めるものだ。おまえらの馬鹿げた制作過程が見たい。おまえらのどうしようもない小説をblogの一部だと言い張りたい。

これは「ファック文芸部」の発端になったとされる宣言文「間違いだらけのデスメタル by デス日本研究者の不倶戴天Blog」です。が、考えさせられるところ大なのですね(長文引用すいません。なにしろ切ってしまうと宣言の筋と力が落ちそうだったので..元エントリーには企画骨子も掲載されていますのでそちらもご覧下さい)。

お仕事モードで触れている間はついつい忘れがちな事。そう、ケータイ小説の書き手たち(多くは女子中高生〜20代女性)はその行為を実に堪能しているのです。とにかく書くのが楽しくて楽しくて仕方がないわけです。

もちろん、渾身の投稿がDisられたときは死にたくなるような孤独が襲ってくる事もあるでしょうし、心無い非難のひとことで筆を折ろう・・いや、IDを閉じようかと思う事もあるでしょう。

でも、その激しい起伏はともかく、たいていは「経済的にも(逆に支払っている場合が多い)」「労力的にも(苦心惨憺の対価は声援のみ、それもほぼ一瞬に去るものです)」 「地位的にも(個人攻撃の可能性を考えると、むしろマイナスのポテンシャルかも?)」報われないであろう行為に日々心を砕き身を艇しているのです。

まぁ、誰からもお願いされているわけではないので「身を挺している」というのはおかしな表現かもしれませんが。

(すごく気楽に日々の気持ちを託している人も大勢いますから、上の表現は創作系の内なる作家魂盛んなユーザー達に限られるでしょう)

■経済はいつでも「贈与」が「贈与」を産み出すスパイラルこそが始まりなのかもしれない

ニコ動をみるまでもなく、創造の瞬間瞬間とは、そもそも「才能と時間の無駄使い」時間(労働価値説とは相容れないもの)です。

たとえ最終的には「意図的な投機」に変化するとしても、その創造の喧騒状態・時代的沸騰そのものは、「ヤミクモな情熱と空き時間の投下」による同時並行的な“投稿と批評スパイラル(これはもはや生産と消費というよりは贈与と贈与か?)”、しかも「大量の渦巻き状態」からしか生まれて来ないのでしょう。

「ブログ限界説」にもじゅうぶん納得に足る仮説と根拠と時代の必然があると感じつつも、 その一方で「おまいらバカやろうぞ!」の漢気にも、ある種の「投機に足る野生の躍動(これは“イノベーションは起業家の創造的破壊によって起こる” by シュンペーター説そのまんまなマインドなのでは?)」を感じるのです。

批評の対象にさえならない。どころか読まれるかどうかさえ怪しい。それが文芸なのかどうかさえ疑問符。そもそも、時間投下の価値があるのか?的「野生の行動」。それが実はケータイ小説のコア部分にある・・とするならば「漢ならブログで文芸@はてな」の“心意気”にも、幾らかは時代的要請による後押しがあると言えるでしょう。

バカがバカを呼ぶポジティブスパイラルが発現するのか?それとも掛け声倒れに終わるのか?は、まだまだ未知数ですが「おれたちはパンツの危険性について無自覚でありすぎた」 などはかなりの秀作だと思います。

確かに自分も無自覚でありすぎたな..と感じつつ、この方面(どの方面?)の頂点「才能の無駄使い」の巨人(あるいは先導者)ジョルジュ・バタイユさんの至言でもって締めくくりたいと思います(参考リンク:贈与経済)。

私は神秘的状態に達するために努力するという考えに距離を覚える。動機、理由をもっている人たちをまえに私は、何も後悔していないし、誰も羨んでいない。

逆に私は彼らに私の運命を共有するように催促する。私は自分のこうした動機への憎悪を、そして自分のもろさを、幸福なものとして感じている。

私の状況の極限の困難は、私の好運(シャンス)なのだ。私は私の幸運に酔いしれている。とはいえ私は次の問いを、意に反して、爆発物のように私の内にもっている。

自分のうちにおかまいなしの欲求を抱え持つ明晰な人間は、この世で一体何をすることができるだろうか。


『ニーチェについて : 好運への意志
ジョルジュ・バタイユ著』 第二部 「頂点と衰退」

酒井健訳 現代思潮社刊 無神学大全 第3巻 より

 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。シーネットネットワークスジャパン および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。

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このエントリーへのコメント

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なるほど、確かにそういう面もありそうですね。出版界でのケータイ小説へのマイナス視線は、それ以前に、それを「文芸」とは認めておらず一過性のハシカのような扱いだと感じます。またケータイ小説プレイヤーの側もバブル的な捉え方をしている部分が少なからずあると思いますね。メディアも版元も、まだまだ皮相的な扱いかな?というところです。

同人系のコダワリあるコンテンツも実は相当大量に埋もれているのですが、ここからオーバーグラウンドに向けて優れた作品が登場するにはまだシーン全体の成熟度が不十分なのでは?という印象を持っています。

いずれにしろ、この流れがさらなる作品のバリエーションと作家性の覚醒をもたらすであろうことと、ケータイが媒体として面白くなってくる事は今後同時並行的に進んでいくだろうと予測をしています。なにしろ書き手サイドおよび読み手サイドの新陳代謝および情熱(と空き時間)の総量には、やはり圧倒されてしまうのです。

  尊仁 on 2007/12/05

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裾野が広がることによる競争の加速と業界の拡大…という現象は理解できるのですが、ケータイ小説と、今の文学界を見ると、敷居を下げて粗製乱造を繰り返し、頂点が低くなって業界が低迷した…いわゆる米のゲーム業界で起こった「アタリショック」の再現を危惧してしまいます。
受け手がシビアな目で創造物を見ている「漫画・同人界」「ニコ・MAD動画界」のような「ヲタク気質」がどうも「ケータイ小説・文学界」には見受けられないのです。

  かる on 2007/12/05

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