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Natural Intelligence──計算プロセスとしての自然現象

2007/05/22 08:43
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プロフィール

鈴木健

伝播投資貨幣PICSY、構成的社会契約論などの構想をもつ鈴木健氏が、荒川修作建築の三鷹天命反転住宅での生活を通じて、コンピュータやインターネットの登場が、人間の認知構造・身体性にどのような影響を与え、文明を変容させていくのか、多方面から分析をしていきます。
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こんにちは。今日からCNETブログをはじめる鈴木健です。

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去年の12月から、ぼくは三鷹天命反転住宅というところに住みはじめました。この住宅の床は、そこら中がでこぼこしていて平らな場所がほとんどなく、Study Roomと呼ばれる完全に球の部屋があったりします。設計者の荒川修作は、この部屋に暮らすことで、新たな身体感覚や認知構造を生み出していくことを狙っているのです。今朝起きてトイレにいった後、このでこぼこの床を歩くと、体が左側に傾いてまっすぐ歩けません。以前脳に磁場をあてながら歩いたときの経験に似ています。この現象に「あたかも重力」という名前をつけておきました。

入居以来、千客万来で毎週のように人が訪ねてきます。電車でのアクセスは必ずしもよくありません。三鷹、武蔵境、あるいは調布からバスで10分ほどかかります。遠路はるばる訪れてくる、コンピュータの専門家だったり、アーティストだったり、古武術の研究家だったりといった訪問者との対話は日々の生活をとても楽しくしてくれます。このブログでは、そうした人々と対話を通して、コンピューティングの登場がわれわれの身体と認知をどのように変えていくのかを考えていきます。

コンピューティングの世界は、2人のアランによって切り開かれてきました。

アラン・チューリングは、現在の「計算」の基礎概念を作ったひとりとして知られています。彼がチューリング・マシンを発明したのは1938年のことでした。それ以来、人工知能から分子生物学、天文学に至るまで、チャーチの提唱でいうところの計算(すなわちチューリングの計算)で自然現象を再現しようという原理主義的研究は脈々と続けられています。彼の世界観の延長には、「2001年宇宙の旅」や「マトリックス」、「順列都市」などの作品が連なります。

もう一人のアランは、アラン・ケイです。彼は、チューリングのように計算機によって人間の知能を作ろうとするのではなく、人間の知能を計算機で拡張しようとしました。そのキーコンセプトが「メタ・メディア」という言葉です。世界中の全人類が誰でも、プログラミングによって新しいメディアをつくることができる世界を彼は夢想しました。その夢の一部の小さな成果はOne Laptop Per Childとして結実しようとしています。
彼の世界観の延長には、「攻殻機動隊」「スノウ・クラッシュ」などの作品が連なります。

しかしわれわれは、計算の概念をもっと広くとるべきなのかもしれません。2人のアランの第三項として、計算を計算可能性から開放する「計算プロセスとしての自然現象」を考えてみましょう。

今回、NTT出版編集者のご好意により、池上高志とぼくの共著でインターコミュニケーション誌に掲載された論考「Natural Intelligence:計算プロセスとしての自然現象」をクリエイティブ・コモンズ・ライセンスで掲載することができました。

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Natural Intelligence──計算プロセスとしての自然現象

池上高志┼鈴木健

 二〇〇五年の夏に、Amazon.comはMechanical Turkと呼ばれるベータ版サービスを公開した。このサイトを訪れたユーザーは、ちょっとしたタスクを選択し実行することができるようになっている。例えば「ある写真にピザ屋が写っているかどうか」といったタスクには、対価として三セント程度のお金が支払われる。そもそも人間が得意なタスクと機械が得意なタスクがあるが、機械が得意とするタスクはプログラミングで処理し、人間が得意とするタスクはプログラム中に「ここは人間がやる」と書いてしまう。すると実行時に市場でマッチングされ、ネット上にいるどこかの誰かがタスクをこなす。これがAmazon Mechanical Turkの仕組みである。
 ティム・オライリーはブログO'Reilly radarにおいて、Amazon Mechanical Turkをバイオニック・ソフトウェア(Bionic Software)であると論じた。これはMechanical Turkの本質をついている表現だといえよう。Mechanical Turkを、人間という生物をとりこんだソフトウェアだと見なすことができるからである。
「Mechanical Turk(機械仕掛けのトルコ人)」という名前は、そもそも一八世紀末にヨーロッパで話題をさらったチェスを指す機械に由来している。このTurkは世界中を巡業して、フランクリンやナポレオンにも勝利をおさめたらしい。だが実際には、この機械の中には人間が入ってチェスを指していた(このことは、エドガー・アラン・ポーの「メルツェルの将棋差し(Maelzel's Chess-Player)」[一八三六]という短編に書かれている)。
 エンド・ユーザーから見えるのは、あくまでもプログラミングされた機械にすぎない。しかし、機械の「あちら側」にいる不特定多数の「人間GRID」を組織化し、従来のAIやコンピュータができないようなタスクを「コーディング」し、いわば現代版「中国語の部屋」(サール)を作ろうという計画なのだ。
 Mechanical Turkのサイトには「Artificial Artificial Intelligence」という標語が踊っている。これは文字どおり「人工的なAI」を意味している。従来のAIが機械によって人間の知能を模倣しようとしたのに対し、人工的なAIは人間の力を借りてAIを実現するということなのであろう。このことはオライリーの前出のブログでは以下のように表現されている。

数週間前に Woodside Fund の Tom Shields にバイオニック・ソフトウェアの話をし、われわれは人間をアプリケーションの構成要素として利用することでより知的なシステムを構築しつつあり、昔人工知能に託していた夢がこの新しいモデルにとってかわられつつあるという私の考えを説明した。Tom はそのパラダイム・シフトを、「AIがIAになる──人工知能(Artificial Intelligence)が知性の拡大(Intelligence Augmentation)になる」と上手にまとめてくれた。

 AIとIAは、二つの対立し両立する計算パラダイムだと思われていたが、今この二つに橋が掛けられようとしているかのようだ。
 同様の試みにGoogle Image Labelerというサービスもある。Google Imageの検索精度を上げるために、ゲーム形式で画像にタグ付けをしてもらおうというサービスである。ほぼ同時にログインした他のユーザと、画像へのタグ付け精度で対戦をすることができる。Googleはそのタグをイメージ検索のために利用する。
 Amazon Mechanical TurkやGoogle Image Labelerでは、人間の認知プロセスをノードと見なし、それらを多数接続してネットワーク・コンピュータを構成するわけだが、ノードが人間の認知プロセスであらねばならない必然性はどこにもない。
 このことを理解するためには、「計算」とは「安定した動作が可能な形で世界から切りだされたあらゆるプロセス」のことだと概念の定義を広げてみなければならない。アロンゾ・チャーチの提唱によって定義された「計算」は、あくまでもその一つでしかない。
 本稿では、自然現象(あるいは物理過程)を計算プロセスとして見なす試みを議論するが、こうした視点は必ずしも新しいものではない。R・P・ファインマンや他の物理学者によってさんざん議論されてきたし、例えばトッフォリ(Tomaso Toffoli)やマーゴラス(Norman Margolus)が示したビリヤードを使った計算のシミュレーションは、いかに自然が計算を表現しうるかを端的に示していた。数学では、実数を使った計算理論が[カーネギーメロン大学の]L・ブルム(Lenore Blum)らによって発達した。現実の物理世界は非線形な世界である。非線形な写像を使って、万能チューリング・マシンが埋め込まれることもC・ムーア(Chris Moore)らによって示されている。
 しかし、これまでの自然の計算論的な見方は、すべてチューリング的計算理論をベースとしている。チューリング的計算理論とは、万能チューリング・マシンの振る舞いへと焼き直せるものとして計算を理解するというアプローチである。したがって、これまでの自然の計算論的な見方は、チューリング的計算理論の差分として計算を拡張するのみであり、計算という概念そのものを変えるものではなかった。
 本稿のオリジナリティは、チューリング的な計算という概念を一度捨ててしまい、計算プロセスとしての自然現象を、特にその計算を解釈するのが人間であるという点に注目して議論しているところにある。そこでまず、人間が「わかる」という視点から計算を説明し、後半ではこうした計算理論を、心理学や建築にもとづいて議論したい。

1 計算現象と自然現象
 チューリング・マシンが、自然現象に埋め込まれる形で実装されているということに異論をもつ者はいないだろう。現在のコンピュータのほとんどは、シリコンの半導体という、特殊に加工された自然現象に埋め込まれているが、それは必然ではなく他の埋め込み方も無数にある。計算は非常に遅いが、レゴ・マインドストームでチューリング・マシンを作ることも可能であるし、化学反応に埋め込むこともできる。
 チューリング・マシンは数学的形式であり、物理的なレイヤーとは独立であるという反論については、以下のように再反論することができる。チューリングが一九三六年にチューリング・マシンを考えていたとしよう。そのチューリング・マシンは、チューリングの脳という自然現象(物理過程)に埋め込まれている形で存在していたのである。
 チューリング・マシンを自然に埋め込むことができるとあえていうのは、逆にいえばチューリング・マシンを埋め込むことのできない自然現象が存在することを意味する。従来の計算機科学者のアプローチは、そのような森羅万象の自然現象をチューリング・マシン上でシミュレートしようというやり方であった。
 この方法は、万能チューリング・マシンのもつ計算万能性によって、非常に強力な方法であるように見えるが、現実には以下の理由で自然現象そのものに比べて貧弱である。第一に、ある自然現象Aを自然現象Bに埋め込まれたチューリング・マシンでシミュレートするという行為は、結局のところ自然現象Aを自然現象Bに仮想的にコピーすることにほかならない。自然現象A、Bを含む自然から見たときに、それは単なる冗長性にすぎない。要するに、究極の地球シミュレータは地球そのもの以外にはありえないという話である。第二に、自然現象B自体はチューリング・マシンとして動いているように見えるとはいえ、それ以前にれっきとした自然現象であり、自然現象Aやそれ自身を含む他の自然現象と物理作用をもっている。
 複雑な計算になってくると、精密なコンピュータですることはほとんど不可能になる。例えば、ナビエ=ストークス方程式は流体の乱流現象を正しく表現していると信じられているが、それを精密に大きなスケールで計算することは依然として困難である。またクォーク閉じ込めのシミュレーションを格子ゲージ理論(ないし格子QCD理論)で扱えるとしても、そのシミュレーションはやはり莫大な時間を消費する。
 このような大がかりな計算ではなくても、例えば粉体のシミュレーションを考えよう。二つの粉が混ざりあって外から振動を与えると複雑なパターンを作るという実験がある。しかしこれをまじめにシミュレートするのは一般に大変である。コンピュータの能力が上がれば上がるほど、分子レベルでまともに計算しようとする要求が高まるため、ますます計算はたいへんになり、まったく果てしがない。このときに人々が気がついたのは、実際の世界での実験とシミュレーションのあいだの差がないことである。今のような「力」のシミュレーションは、実際の実験と変わらなくなり、勝ち目がないのではないかという懐疑が生まれる。実際、タンパクの折れたたみのまともな計算をシミュレートして、新薬を開発しようという試みは、生化学の実験で新薬を作りだす技術には追いつけない。これでは早い計算機を作ろうという作業は、終わることがないし、なおかつ実用的でもない。
 以上のような問題は、現在の計算が「自然を細かく知るための計算」でしかないことに由来している。しかし、「わかる」ことは「分ける」ことではないはずである。「自然を詳しく知るための計算」の可能性を模索できないだろうか。
 現在のコンピュータは、計算プロセスの集積である。従来のチューリング的計算理論の意味で、計算とは、インプットとしてXを与えたときに、それをある関数f( )とか発展方程式に放り込んで、アウトプットYを見出すというものである。例えばY=f(X)を「計算」する。インプットのXはテープの初期状態であり、アウトプットのYはチューリング・マシンが停止したあとのテープの終状態である。
 チューリング・マシンにおいては、インプットとアウトプットのあいだの操作の一つ一つを完全に制御することが可能であるため、
 ・まず、自然を詳しく知り、
 ・自然を細かくし、
 ・それをチューリング・マシンで計算する、
という手順になった。そのため、自然そのものを詳しく知るという過程は、依然として人間特有の能力に委ねられており、チューリング・マシンが可能なのはその後の「細かくした自然を再構成して何が起こるか」だけである。
 問題は、何をシミュレートするかということのもう一つの可能性をわれわれが忘れてしまったことにある。上のようなマッシヴな計算の正反対なものとして、熱力学的形式を考えよう。熱力学は、もともと人の時間的空間的スケールと無関係には発展しなかった。そこが流体力学や電磁気学、あるいは一般のニュートンの力学システムとの違いである。鍵となるのは「熱」という考えである。この熱という概念を理解するために、物理学者はさまざまな形式を考えだしてきた。特に人間の操作可能なマクロな変数(例えば、圧力や温度)をもとにシステムの状態を記述しようとしてきた。その結果できあがったのが熱力学であり、熱の代わりにエントロピーという概念が生みだされたのである。重要なのは、この熱力学的な記述が、原子分子的ミクロなレベル(例えば統計力学)を基礎とはしてないことである。むしろそれは逆で、統計力学を作る際にもととなったのが熱力学的な理論であった(E. H. Lieb et al., 2000)。
 しかしマクロな変数をもとにした熱力学的な形式は、非常に精密な数学的な議論を可能とし、われわれの経験する熱現象の本質を表わすことができる。熱現象が何であるか、をわかることができる。例えば熱力学の第一法則あるいは第二法則として表わされているのは、こうした熱のわかり方の表現である。この「わかる」ということは、先ほどの言い方では「自然を詳しく知る」ということにほかならない。
 このような熱力学の形式という、ミクロレベルの複雑さをシミュレートすることではなく、わかるということを主眼とすることこそを、われわれの計算の目的とすべきではないか。われわれの提案は、自然現象を計算プロセスとして見なすときも、わかるということを目的としてその計算プロセスを構成できないか、ということである。

2 「わかる」ということを表わす自然現象
 「わかる」とはどういうことか。このことそのものは完全には解明されていないが、ここでは人間の脳もまた自然現象の一部であるのだから、われわれがわかったと思うときには、それを脳のある種のパターン力学のありようとして理解することが可能である。わかるというプロセスの脳内現象はすこしずつ解明されてきている。一つの例として、バレラのやったAha現象に対応する脳のプロセスを紹介しよう。
 フランシスコ・バレラは、白黒の図を見せて、その絵の中に白黒ぶちのダルメシアンが隠されていることに被験者が「はっ!(Aha!)」と気がつく、その気づきに対応する脳の神経活動(EEG)のアクティヴィティを調べた。そうすると、気づきはグローバルな活動部位の同期現象を示し、そのあとでそれが大きく抑制されることを示していた。このグローバルな同期とその崩壊が、気づくという状態に対応している。
 ミクロな気づきは日常的に頻繁に生じている。例えば、ジュースを入れる適当な入れ物を探しているときに、あるいは好きな文章をもう読み終えた本のページをくくりながら探すときに、それは生じている。強いていえばわれわれの知覚行為はこのようなミクロな(強く意識的ではないという意味で)気づきの連続である。
 ここから逆に、このようなパターンを成立させる自然現象は何かという逆問題を立てる。われわれが「わかる」というプロセスは、前頭前野における神経活動のグローバルな同期と崩壊だと考えよう。それを与える自然の風景、自然のプロセスこそが、ここでいう計算プロセスである。次のような二つの例を考えてみよう。
 例1──机の上に置かれた、子供が摘んできた白いマーガレットの花をくるくるとまわしているうちに、文章を書き進めることができた(宮崎駿『となりのトトロ』より)。
 例2──大リーグの選手は、よりよい体の動きを作るために、三色の色の玉を横に並べてそれを順番に入れ替えるイメージをもつようにする(カール・キュール+ハーベイ・A・ドルフマン、一九九三)。
 こうしたことは、日常的にわれわれが経験していることである。
 一方で、ある菱形の内角の一つを求めるために引いた「補助線」や、足し算をするために手の指を折り曲げることは、脳のわかるというプロセスを助けている。
 コンピュータが出現してからこの何十年かの用いられ方は、明示的な補助線としての役割であった。しかしそうした自明な用いられ方には本質的な限界と問題がある。本質的な限界は、多くの難しい問題は、何をコンピュータに計算させればよいかわからないことに根ざしているのであり、そのもっとも難しい問題は依然としてプログラマーである人間が考えなくてはならない。しかし、どう考えてよいかということは明示的には与えることができない。
 それに対して右に挙げた二つの例は、なぜそれが助けになるのかは自明ではないし、すべての人に等しくそれが助けとなるわけでもない。
 われわれの提案する計算を実現するためには、これを行なわせるための装置としての自然をデザインすることが必要である。そのような計算はもとよりチューリング的な計算ではありえないと思われる。そこで、明示的なアルゴリズムをもたない計算のプロセスとして、自然のプロセスそのものを考える。例えば、川が流れてきたり、風がふいたり、魚が増えたり、山火事が起こったり、そういうありとあらゆる森羅万象を、計算と考えようというのである。それを計算と考えるのは、人間がそうした現象に与えるインプットと、現象が人間に与える影響のアウトプットに注目するからである。
 つまり、人間をブラック・ボックスとして、それがいろいろなものを見たり、音を聞いたり、皮膚に刺激を受けるとする。そうした諸々のモダリティーの集積として、あることを考えついたり、普通の意味での計算のとっかかりがつかめる。そうしたことを脳に生じさせる自然過程をデザインしようということである。

3 アフォーダンス
 先に述べたことは、われわれは理由なく行なっていることが多い。例えば、海へ行って泳いだり、気晴らしに散歩をすることなどである。多くの人が快に思い、多くの人が不快に思うことというのは、大きな揺らぎはあるものの、共通項も多く見出せる。例えば、快と不快の構造を脳の研究をもとに徹底的に行ない、それを生じさせる自然プロセスをシステマティックに構成して、チューリング計算と異なる計算のプロセスの理論を作りだそうというのである。
 そうしたことが可能であるためには、非チューリング計算的な側面に関して、ある普遍構造が見えないといけない。そのことを可能にしてくれているのが、知覚の理論、アフォーダンスである。アフォーダンスは、自然環境の中には不変項がいっぱい隠れているという。そして人間の知覚とは、そうした不変項を発見するという手続きにほかならないというのである。
 例えば、鳥が壁などに衝突するのを防ぐために、鳥から見た壁の表面までの光学角の時間変化が用いられているという報告がある。光学角の時間変化の逆数(τ)がちょうど衝突時間を与えており、例えばハチドリなどは、飛ぶ速度や加速度はいろいろふらつかせるが、このτを一定に保ちながら飛翔している。このτが不変項である。
 アフォーダンスは、もともとアメリカの心理学者、J・J・ギブソンによって提案された新しい心理学研究の基礎概念である(J. J. Gibson, 1979)。特に、視覚におけるオプティカル・フローの理論は近年、再び見直されている。知覚とは、環境の中に埋まっている不変項を能動的に見つけだす装置として解釈できるということになる。
 しかし、今のところそうした不変項を発見するメカニズムがきちんとわかっているわけではない。ヒントとなるのが知覚の能動性、アクティヴな知覚と呼ばれるものである。これは、知覚主体が自発的に動くことでそうした不変項をつかまえやすくなっているのではないか、というものである。いくつかのわれわれのシミュレーション研究は、自律的な運動が知覚をもたらすことを示唆している。
 知覚と感覚は異なる。感覚というのは単なる入力だが、知覚とは自分の内臓感覚として理解するということである。それはすなわち不変項をつかまえることだ、というのがギブソンの理解の仕方である。
 だから、動物の知覚を知るということは、インプットとアウトプット、それを関係づける神経ネットワークの活動を研究することではない。それでは、これまでのチューリング流の計算理論を背景にしたわかり方になってしまう。ここでわれわれが提案するのは、そのアクティヴな知覚の理論による自己運動を規定としたわかり方、を新しい計算システムとするということである。
 街でのナヴィゲーション・システムを例にとってこの新しい計算システムのありようを見てみよう。旧来のAIシステムに、渋谷の街中で自分の立っているのがどこかを正しく判定させるとすれば、衛星通信があれば問題はない。それを使わないのであれば、例えばビルの名前とか道路の広さのようなデータとつき合わせて判断するしかない。
 それに比べて、人間は実にさまざまな方法で自分の場所を見つけ出すことがわかっている(福岡祥乃、二〇〇二)。例えば、ビルの形とかそれによる空の切りとられ方のようなレイアウトということが、人のナヴィゲーションのリソースになっている。だから、すでに記号化・言語化されたものをデータベースのパターンとマッチングさせるのではなくて、そのときに立ち上がるレイアウトと普遍性の獲得がナヴィゲーションを可能にするのである。この人の知覚を順序づけし構成するのは、生のビット情報ではなく、センサー情報に宿る不変項である。人間の場所の知覚を担うレイアウトが、ここで考える新しい計算の例になっている。われわれの計算とは、人に知覚を立ち上げる、自然現象のダイナミクス(ここではレイアウト)のことである。

4 建築
 今度は右の考えを造園や建築を例にとってみてみよう。ヨーロッパの造園の多くは、美しい花を飾り、自然への回帰を印象づけることが多い。これに対し、日本の造園はきわめて抽象的である。
 例えばそれは竜安寺の石庭に見ることができる。この石庭は自然への回帰でも自然の象徴でもない。それは見る側の心の形式化なのである。石庭を訪れる人は、その庭に能動的に対することによって日常的には意識化されない感覚を再発見するのである。
 したがって、日本の庭園は、新しいコンテクストを差しだすことによって、脳の違った部分を刺激するプログラムと見なすことができる。実際庭園がいかに高い精度で設計されているかを知れば、そのプログラムがいい加減に作られているわけではないことがわかるだろう。
 このことをさらに意識的に展開したのが、荒川修作の建築である。荒川は、建築という構造物を用いて、不変項発見を助ける装置を作りだそうとしている。もともとは画家であり彫刻家であった荒川は、人間の身体に気づきをもたらすために、それらの手段に不足を感じ、われわれの身体全体を包み込んでいる建築を志向した。すなわち、自然現象という計算プロセスの全体性に着目したのである。
 実際に荒川が作った養老天命反転地は、さまざまな気づきに満ち溢れている。荒川は、不変項を「降り立つ場(landing sites)」として表現しているが、それを気づかせるために、身体を常にアンバランスな状態に置いている。
 結果として彼が作りだしたのは、自然より自然らしい自然であった。人は自然と触れ合うことによって日々自然の不変項を発見していくが、研究の成果としての建築という人工物を通して、よりいっそう効果が増すようになっている。
 本来ならば、このような建築は、既存の建築技術のみならず、ありとあらゆる自然科学技術を利用すべきだろう。計算プロセスとして自然現象をとらえることによって、あらゆる自然現象を人間の「わかる」のために総動員することが可能ではないだろうか。この作業は、既存の計算のパラダイムでいうところの「プログラムを書く」ことにあたる。

5 心の再自然化
 これまで、
 ・「わかる」ということは、より細かくすることによっては生まれてこず、より詳しくすることによって生まれてくるものであるということ、
 ・「わかる」ということは、すなわち、人間が自然から不変項を見つけだすということ、
 ・そのような不変項を発見する過程を計算プロセスと呼ぶことによって、不変項を発見することを助けるように自然現象を作ることが可能であるということ、
を見てきた。
 すなわち、自然も計算であるという立場を説明し、その自然が脳に特別なパターンを生じさせて、わかるという状態に導く「プログラム」を自然の側に与えようというものであった。
 ここでいう脳に特別なパターンを生じさせるというのは、心のダイナミクスという観点である。人間の主観的な感覚、クオリア、エピソード記憶、そういったものを深く考えれば考えるほど、物質世界には投射されない心の世界があるように議論されることがある。唯心論というのはその極端な立場であるし、そうした唯一な心があることが、脳を特別なものと見なさせ、自然現象の中に特権的な位置を与えている。
 しかし、われわれの提案する計算理論は、心こそ自然現象と考え、心を揺らがすようなパターン、言葉、風景といったものを入出力として、わかるというパターンを心の中にダイレクトに立ち上げようというものである。そういう側面をわれわれは、心の再自然化と呼ぶのである。
 コンピュータが単独の機械であるときには、チューリング的計算理論が人間にもたらす問題は小さかった。なぜならば、コンピュータは小さなおもちゃであり、広い自然との相互作用領域のごく一部しか利用していなかったからである。だから、人間とコンピュータの関係を、インターフェイスを通したインプット・アウトプットを設計することによって制御することが事実上できていた。
 ところが、インターネットであらゆるコンピュータが接続されるようになり、ユビキタス化によってあらゆるデヴァイスがコンピュータになると、個々のコンピュータの動作が世界中に物理的に影響を与えるようになる。これからは、これまで以上に飛躍的にインターフェイスの設計が困難になってゆくのである。
 「安定した動作が可能な形で世界から切りだされたあらゆるプロセス」としての「計算」は世界に遍在している。チューリング・マシンの一部は万能計算性をもっているという点において独特だが、その他の点においては他の計算機に劣ることもあるだろう。
 Amazon Mechanical TurkやGoogle Image Labelerのように、人間の認知プロセスをノードとするのではなく、粘菌やビリヤードの玉、空洞、水波、建築などをノードとしてネットワーク・コンピュータを構成することができるだろう。チューリング・マシン・タイプの計算機では精度を上げようとしすぎると計算が遅すぎたり、人間の認知プロセスが微妙な差異に気づいてしまうようなものに対して、粘菌やビリヤードの玉、空洞、水波を「専用計算機」と見なして計算し、それらを相互接続するネットワーク・コンピュータを想像してみよう。われわれはそれらをコーディングし、心に新たな理解のプロセスを生みだすことができるのである。

参考文献
Blum, L., M. Shub, and S. Smale, On a Theory of Computation and Complexity over the Real Numbers: NP Completeness, Recursive Functions and Universal Machines, Bull. Amer. Math. Soc. (New Series), vol. 21, 1989, pp. 1-46.
Gibson, J. J., The ecological approach to visual perception, Boston: Houghton Mifflin, 1979.
Lieb, E. H., and J. Yngvason, "A Fresh Look at Entropy and the Second Law of Thermodynamics," Physics Today, vol. 53, April, 2000.
O'Reilly, Tim, "Bionic Software," http://radar.oreilly.com/archives/2006/03/bionic_software_1.html(二〇〇六年一一月三日現在)
Roy, J. M., J. Petitot, B. Pachoud, and F. J. Varela, "Beyond the gap. An introduction to naturalizing phenomenology," in J. Petitot, F. J. Varela, B. Pachoud and J. M. Roy (Eds.), Naturalizing Phenomenology, Stanford University Press, 1999, pp. 1-83.
Toffoli, T., and N. Margolus, "Ininvertible cellular automata: a review," Physica D, v. 45 n. 1-3, 1990, pp. 229-253.
カール・キュール+ハーベイ・A・ドルフマン『野球のメンタルトレーニング』白石豊訳、大修館書店、一九九三年。
福岡祥乃「街のレイアウトとナビゲーション」修士論文、東京大学、二〇〇二年。

雑然とした斑点に見えるが、しばらく眺めているとダルメシアン犬が木の葉でまだらになった地面を嗅いでいるのが見えてくる。この写真はR・C・ジェームズの撮影によるもので、R. L. Gregory, The Intelligent Eye, Waldenfield & Nicolson, London, 1970(金子隆芳訳『インテリジェント・アイ』みすず書房、1972)で紹介されて有名になったと思われる。

養老天命反転地 

※このエントリは CNET Japan ブロガーにより投稿されたものです。朝日インタラクティブ および CNET Japan 編集部の見解・意向を示すものではありません。
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